caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§14

いかにして貨幣が資本に転化され 資本によって剰余価値がつくられ また剰余価値からより多くの資本がつくられるかは すでに見たところである。ところで 資本の蓄積は剰余価値を 剰余価値は資本主義的生産を これはまた商品生産者の手中に 比較的大量の資本と労働力とが 現実にあることを 前提とする。したがって この全運動は ひとつの悪循環をなして回転するように見え われわれがこれから逃れ出るには 資本主義的蓄積に先行する一つの《本源的》蓄積(アダム・スミスの言う《先行的蓄積》)を すなわち資本主義的生産様式の結果ではなく その出発点である蓄積を 想定するほかはないのである。
この本源的蓄積が 経済学において演ずる役割は 原罪が 神学において演ずる役割とほぼ同じである。アダムが林檎をかじって 以来 人類の上に罪が落ちた。その起源の説明は 過去の小話として物語られる。久しい以前のある時に 一方には勤勉で悧巧で とりわけ倹約な選り抜きの人があり 他方には怠け者で 自分のすべてのものを またそれ以上を浪費するやくざ者があった。神学上の原罪の伝説は とにかくわれわれに いかにして 人間が額に汗して食うように定められたかを 物語るのであるが 経済学上の原罪の物語は そんなことをする必要のない人々があるのはどうしてかを われわれに示すものである。それはとにかくとして・・・。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・7・24・1〔本源的蓄積の秘密〕)

こう議論をおこして マルクスはあらためて 跳躍点で人間が どういう社会的な情況の中にどういう立ち場にあったか そこで何を考え何をとらえ 会議をもって取り決めあったかのように何を協議し 時にはどんな密約をとりかわしたかを 追究する。ここで 経済史の詳しい叙述をとりあげないとすれば とにかく一般に

自由な労働者というのは 奴隷 農奴等のように 彼ら自身が直接に生産手段の一部であるのでもなく 自営農民等におけるように 生産手段が彼らに属するのでもないという 二重の意味においてであって 彼らは むしろ生産手段から自由であり 離れ 解かれているのである。
(Ⅰ・7・24・1)

そして 《ある時に 勤勉で悧巧で とりわけ倹約な選り抜きの人があ》った。それは 《自由な労働者》だけのことではないかも知れないが そうして 《先行的蓄積》をもった。もともと 古い時代からの一定の蓄積を相続して これを利用した人びとを 考慮に入れなければならないであろうが この《本源的蓄積》がととのえば 価値の自己目的となるような(それは 多分に頭の中での)運動の法則を 見いだし 商品生産としての・商品生産のための労働(協業)が展開されていくことができた。
われわれが 跳躍点での知解と意志の発進との会議を想定したのは この《本源的蓄積》たる行動に 先行するものは 人間の知解上そして意志の選択上 《勤勉》の社会的・人間的な前提たる根拠――すなわち だから 人間の平等性 人間労働の等一性(この限り 理念である)――を その内容とするであろうし 他面では 労働生産物の等価交換の理念ゆえに労働において勤勉であろうとし また この勤勉ゆえに生活するという・時にしばしばガリ勉となるところの 密約をもそこでその内容は有していたかも知れない つまり《経済学上の原罪の物語》をも語って示しえたといったこと これらをもって 先行する意志および意図の 自立および跳躍であると考えた。
《二重の意味において自由な労働者》となった人間は――単純にいって 土地をも持たず 土地にしばりつけられていることを解かれ 何ものをも持たず この世に放り出された人間は―― この追放および解放に出くわして 事後的にではあれやはり 先行する領域において とにかく自由なわたしを見いだした。わたしは 自由である。先行する領域をもったわたしが自由であるなら それぞれのわたし・つまり人間は 平等であるだろう。ここに 会議が開かれた。
わざわざ寄り集まって論議しなくとも 人間の本源的な存在としてあるわたしは 会議を持っている。わづかに この会議が 自由なら自由 平等なら平等を 理念とした。先行するものである限り 理念でもよいのだが この理念を 頭の中で念観し 呪文のように唱え出すことが可能であった。理念のゆえに仕事に精を出し 精を出して得た成果 その成果の交換価値のゆえに 勤勉にはたらくということが 可能であった。そうして むしろ理念が理念であって それとして 人間の法則を言い当てているゆえに その経験行為にかんする価値の問題は 一人歩きすることも 可能であった。
こうして 跳躍点を形成し そこでの想定されうる会議は 人間の普遍的な法則を見いだしているとともに 経済学上の原罪の物語をつくりだすかのように 自己運動としての展開をも持った。
アダムが林檎をかじったことは 善悪を知る木(知恵の木ないし知識の木)を見出し これを自分の支配下においた または 自分をこの木の支配下においた ことであるのだから 跳躍点での理念への乗り移りの一面 といった経済学上の原罪と アダムの原罪とは 本質じょう 別のものではないとは思われるが。
だから どうしろと言うのか。これが 出発点である。だから どうだと言うのか。跳躍点の密約の側面 での展開に対して 自己が自己に 自首すべきである。だからどうなのか。それだけである。自供する必要はない。
しかし 自首は道徳ではないであろう。先行的蓄積の勤勉をなじったのですらない。それにも先行するものは 人間のわたしであるから。会議はつづいている。自立している人びとは たださらに自立を確立していくことができる。それだけであろう。
それが 経済学か。そうである。われわれは 《資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される》(Ⅰ・7・24・7〔資本主義的蓄積の歴史的傾向〕)とも言わないであろう。経済学としての意図は その発展段階ごとの・一件ごとの 具体的な政策の提案と実行とにあるしかない。社会形態の総括的な政策についても 同様であるだろう。
すでに《鐘が鳴》ったかのように もはや《一方は 生産者自身に基づき 他方は 他人の労働の搾取に基づくという非常に異なる二種類の私有を 経済学は原理的に混同しているのではない》(Ⅰ・7・25)から。《後者が前者の正反対であるのみではなく また前者の墳墓の上にのみ成長するものであることを 経済学は忘れているのである》(同上)ようではなくなったから。自由主義という理念主義ではあっても 人間の法則にもとづいて 会議はつづいていると思われるとき。あとは知らない。その密約の部分 これにかんして われわれはむろん認識をおこなうが そうして会議からの出発を基本的に展開していくが 跳躍の密会については ほんとうには 関知しない。密約の場所でかじった林檎を 倍にして返せということが あるかも知れないが それは しかし 法律(司法)の問題であり 経済学は 林檎の生産の人間的にして社会的な形態を つくりだしていくことにある。だから 会議はつづいていると思われるとき あとは知らない。


あとは知らないだけではなく 結局わたしは ここで 一つに 経済運動法則の中味の説明を 内田義彦のたとえば《資本論の世界 (岩波新書)》にまかせてしまっているし 先の小論《〈唯物論的な見方と観念論的な見方との対立〉の不毛について》を含めて 人間の主観動態が 《先行するわたし》によっていとなまれるといったことの内容は すでに水田洋が 次のように議論することと変わらないものなのである。

ところが・・・マルクスの功績として 変革の動機としての思想の発見をあげることになると 慣習的承認さえもえられていないし この問題を マルクスにおける観念論あるいは空想性というようにいいかえると きわめて挑発的なものとしてうけとられるであろう。しかしながら 現実に支配されている階級のなかに この支配を廃棄する階級をみいだすこととならんで 存在によって規定される意識=思想のなかに この存在をのりこえる意識(そして意図)をみいだすことが マルクスのしごとだったのであり しかもこのふたつの成果の結合こそが ある意味ではマルクスの最大の功績であるとともに マルクス主義者たちにとって最大の課題ともなったのである。だから 唯物論か観念論かという問題のだしかたは マルクス主義の研究にあたって(思想史全体についても) 初歩的には一定の有効性をもつが その段階をこえて無限定的にこの規準をつかうことは 無意味にちかい。逆にいえば ウェーバーをもってマルクスを補完するという けなげな あるいは義理がたいこころみも 思想の問題にかんするかぎり あまり意味をもたないのである。(もとよりこのことは日本におけるウェーバー信仰の全体が 研究対象として重要であることを 否定するものではない)。
(水田洋:現代とマルクス主義 1964/66 後編・3・1)

わたしは 自首しなければならない。自首の理由として さらに 平田清明が 《哲学的良心の貸借対照=決算》をとりあげて その自己到来のことを 《社会的自己了解の軌跡》と言い 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》という先行領域での自己の自乗過程を含めて 《個体的所有の再建》をとりあげ主張したと考えられ 跳躍点の想定の問題は 《発生史的方法》と言って つとに議論したと考えられるからである。(平田清明:〈マルクス主義の生成と構造〉《社会思想史》《経済学批判への方法叙説》など。)

蓄積論は《私的所有権法》の《資本家的領有法則》への弁証法的転回を 内在的=批判的に展開するものである。したがってそこでは《自己労働》にもとづく《同等な権利》としての《私的所有権法》が まず前提されなければならない。《商品生産の所有権法》または《商品生産および商品流通にもとづく領有法則》の本源的存在という《仮定》が 少なくともなされなければならない。他人の不払労働にもとづく不平等の権利としての資本家的領有権法への対照として。

  • 会議と密約 出発点と跳躍点 資本志向と資本主義志向とのそれぞれ対照。・・・引用者。

ここに不可避な要請として提示される《仮定=想定》こそ 体系的ゲーネジス=始源にほかならない。したがってこのゲーネジス=発生史の《追立証》は 直接には理論的になされるのである。

  • 水田洋の言うように これとしては 観念論あるいは空想性の部分であってもよいということ。

そしてそのような理論的な展開がとられる歴史的諸モメントの記述が 《本源的蓄積》として措定されるのである。したがってそれは《史的創世記》と命名されるのである。この過程は何よりもまず理論的であり しかも歴史的である。右(上)の意味において。

  • われわれは 後行する経験必然の領域と並行ししかも先行するという意志・意図の問題として のべた。

これを要するに 発生史的方法とは 近代ブルジョア社会という特殊な《類( genre )》の理論的《発生( génération )》を 《追立証》する記述である。そしてこの記述様式であることによって それは この社会の歴史的個別性のうちに世界史的に《普遍的 général なもの》を確認しようとする認識と実践の様式である。
(平田清明:《経済学批判への方法叙説》1978/82。 Ⅰ・1)

わたしはただ マルクスの意図が何かを論点として 批判的自己了解の軌跡の歴史を なぞった。ただ われわれの簿記は すでに 複式――関係的――であるから 発信と受信とがおこなわれ ひとりの人がそれら二つの行為の主体であるのだし 必ずしもその差額だけを記入するのではなく 総額を――しかも決して数量的なものではないだろうを――もって 動態的な関係をいとなむものだから 論点の整理を記入する仕事にも 主体性は発揮されなければならない というのが けっきょく弁解にしかならないとすれば わたしのあたらしさは 《あとは知らない》と締めくくることにある。はっきり こう言ったことにある。
自由な労働者の この場合は――跳躍点に臨んでの――基本原点(出発点一般)を確認しようと言ったことにある。このあと マルクス主義思想をとるのは そして 他の思想をとるのも 自由であると確認することを信ずる。つまり あとは知らない でなければならない。
もちろん この基本原点を想起し想起させることをこころみることも 自由であり マルクスを例にとったり 他の人間学や経済学の思想があるとすればそれらを 研究し持ちだすことも とうぜんのことである。この点ただし 先の水田洋は 次のような言い方で述べている。《マルクス主義を前提としないで 研究の領域にはいっていき そこでの無前提の研究のけっかとしてふたたびマルクス主義があらわれたら そのときそれをとりいれるというのが かえってマルクス主義をぼくのなかに強固に定着させる方法になるだろう・・・》(現代とマルクス主義)。
とすると わたしの立ち場は この水田洋の方法の解説者ということにもなるが 積極的な側面をおもいあがって言うとすると――あるいは おもいあまって言うとすると―― あとは知らないのだから 人は自由であり この基本原点で人は すでに社会的な会議を持たざるをえないと すすんで言うことにある。すでに持ったことがあると認めなければならないと すすんで言うことにある。これは ここに見たマルクスの意図がしめくくられることによってであると考える。
つづく→2006-01-03 - caguirofie060103