caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§11

問題は 積極的にも消極的にも 商品生産の形式は 等価交換 すなわち労働の等価性 あるいは人間の平等という理念および意図とに 立っていることである。理念だけではなく この理念を実現させたいとう意図をもった跳躍点を経由したということは 決して頭で立とうとすることではなく 人間の法則にかなおうとした人間学の実践を 歴史的に証している。使用価値は 主観的なものなのだから この主観的なものの 社会的な交通を 人間的なものとするよう図るという一つの経済思想を表わしている。
ところが 跳躍点は跳躍点であり そこでつねに跳んだり躍ったりしている必要はないが つまり ということは やはりその跳躍点の場に 足で立つことになるのでもあるから 理念で空を翔けるというわけにも行くまい。意図は この跳躍点の同じ場に足で立つことに 時間的にではなく・しかも反時間的にでもなく 非時間的あるいは無時間的なかたちで すなわち つねに 先行している。
跳躍点からあとの社会生活は ロボットのように自己運動するその社会関係にまかせていられるのではない。か あるいは ロボットの領域はロボットにまかせていればよい。ロボットのはたらきに 敬意を表したとしても しかしながら 人間のはじめの意図は まだ跳躍点のもとの場所にあって それゆえに心を一つにすることができるものであるのだから ロボットといっしょに跳躍したり あるいは一たん跳躍したからというので空を行き雲の上を飛んでいたりするのではない。足を地につけた主観的なものの 社会的に自由で合理的な交通を 図ったにすぎないし 幸か不幸か これは 意図を持続するという性質のものである。
経済運動の法則という価値理念のロボットに いわば乗っかって はじめの意図を持続する人もいれば そのとき価値がじっさいの商品の量として 有限なものであるなら ロボットの背は必ずしもそのすべての人びとが乗っかれるほど広いものでもなく そうして そんなしんどいことはいやだと言って 跳躍点の足元にとどまり ロボット飛行士の操縦に随っていこうという人もいるわけである。つまり はじめの意図は けっきょく だれもが 持続させている。人間は勤勉だから ロボットにあまりにも 人間の魂を注入しすぎたというだけである。資本が人身化せられた。この意味で 現代人はだれもが 資本家である。

一つの商品は 見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると 商品はきわめて気むずかしい物であって 形而上学的小理屈と神学的偏屈とにみちたものであることがわかる。
商品を使用価値として見るかぎり 私がこれをいま 商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を 彼に有用な仕方で変えるということは 真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は もしこれで一脚の机を作るならば 変化する。それにもかかわらず 机が木であり 普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら 机が商品として現われるとなると 感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく 他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から 狂想を展開する それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。
(Ⅰ・1・1・4〔商品の物神的性格とその秘密〕)

跳躍点での価値表現の秘密が ハイテック・ロボットとなった商品の秘密を生んだ すなわち 自己増殖した価値のいける赤子が 知らぬ間に その私生児を生んだというのである。いな その間 人間は勤勉であったのだから 勤勉であったゆえに はじめの意図は 心をつくし魂をつくし知恵をつくし知識をつくして 商品を人間的なるものにつくりあげた。商品は自分も自分の子どもが欲しいと ねだったわけである。そこでは われわれは 机が自分で踊りはじめても もう驚かない。雲の上にいるからか 雲の上にいる指導者たちを仰ぎ見ているからかである。指導者たちは 《他の人びとを元気付けるために( pour encourager les autres )》元気づけている。人間的な あまりにも人間的な 資本主義的生産様式。《机がその木頭から 狂想を展開する》のは 人間の狂気であるが 狂気の想像力を管理することができるのが 人間であるとして 人間は はじめの意図に忠実に 生きている。

したがって人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは これらの事物が 彼らにとって同種的な人間的労働の 単に物的な外皮であると考えられるからではない。逆である。彼らは その各種の生産物を 相互に交換において価値として等しいと置くことによって そのちがった労働を 相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし 彼らはこれをなすのである。
(同上)

と言うべきか。つまり 人間は 跳躍点でのはじめの意図を 知らなかったと言うべきか。この問題は 前節(§10)で少し触れた。跳躍点を 事後的に自覚したばあいにも 意図は 自覚した時点で かつはじめの出発地点にさかのぼって やはり先行するものであったと見るべきだと。人間労働の平等性は 理念として知らないでも 実践としてこれをなすのであるなら その先行するもの(人間的な論法で究極的には 自己)を その出発点で 愛して来なかったわけではない と知るから。
同じ問題を 少し観点をたがえて見てみる。

この特別なる生産形態 すなわち 商品生産にたいしてのみ行なわれているもの すなわち 相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が 人間労働としてのその等一性にあり そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは かの発見以前においても以後においても 商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが 物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように 終局的なものに見えるのである。
(同上)

と言われて 人は どう答えるか。《価値は むしろあらゆる労働生産物を 社会的の象形文字に転化するのである。〔それだから〕後になって 人間は 彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために この象形文字の意味を解こうと試みる》(同上)と言われて われわれは どう答えるか。わたしなら この象形文字を そのあらゆる秘密の部分を含めて われわれが はじめに意図して 嫡出でなくとも 作り出したのである と答える。
象形文字を解き明かすのに余念のない学者が どう答えるのかを措くとすれば ここで それでは マルクスの意図するところは なにか。
象形文字の意味を解こうと試みるのは 《使用価値の 価値としての規定〔が〕 言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである》(同上)と マルクスは言った。跳躍点での意図が 価値としての規定・またその理念をとらえ さらにまた これを念観し 頭の中にたたきつけたその結果の 象形文字の社会が 象形文字の諸関係の中に囚われているものにとっては 《終局的なものに見える》というその中で 上のようにマルクスは言った。囚われていない者は 解読を試みないと言ったのか。囚われていない者は 囚われている人のために そしてやはり自分のために 解読を試みて これをやはり明らかにすると 言ったのか。
解読を試みること あるいは 解読された理論をもって この《終局的なものに見える》ばあいがある象形文字の社会に対して その生みの苦しみを短くし緩らげること これが 主張すべき意図であるのか。あるいは 生みの苦しみというとき いまの象形文字の社会というべき 自己を主体として了解しがたいその社会の 否定的な理解の側面に伴なう その必然的な没落を理解してのことだから いってみれば来たるべき新しい社会の生みにかんしてのものであるのか。この新しい社会へ移行していくことを理解しよう いな そして 移行させていこうというのが かれの意図なのか。しかし この先行するものは――意図にも先行するものは―― 自己還帰のほうではなかったか。そして もちろん しかるがゆえに 歴史じょう具体的な意図をもって 経験的に実行していこうと語ったであろうか。
事態は はっきりしているようであるが 神秘的であるようにも見える。人間の法則が かくされた形であることはよいが さらに 神秘化されていは しないか。その内容要素ははっきりしているが しめくくりが 尻切れトンボになったようではないか。この 意図のしめくくりという問題は これまで ある程度の引用を重ねてきたので そういう観点から 提出できると思うのである。そして もし そんなことは すでにわかっているという場合には むしろマルクスは もっともっと 《自己還帰》の方面 人間学の領域で 議論しておくべきであったとも 考えられるのである。人間学が 経済学と二つにして一つの 互いに切り離せない実践であるとしたなら そのように 繰り返し語っているのは わたしたちのほうなのである。マルクスをわざと批判しようとおもえば ここで かれには 意図のしめくくりが 尻切れトンボになっているという嫌疑がかけられる。

私が 上衣 深靴等々は 抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば

  • また その労働にかんする理念で それらの事物を互いに関係づけるとすれば

この表現の倒錯は 目を射るように明らかである。しかし もし上衣や深靴等々の生産者たちが これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実すこしもことなるところはないのだが 金や銀に(つまりお金に)――関係せしめるとすれば 彼らにとっては その私的労働の社会的総労働にたいする関係は 正確にこの倒錯した形態で現われる。
このような形態が まさにブルジョア的経済学の諸範疇をなしているのである。
(同上〔Ⅰ・1・1・4〕)

というのだから 経済学の方面でも とうぜん 現存するものの肯定的な理解の中に 同時に その否定の理解をも含んで象形文字の社会〔のその形態〕を 作り変えていこうと言ったのであるか。さらにつづけて

それは この歴史的に規定された社会的生産様式の すなわち 商品生産の生産諸関係にたいして 社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに〔あるいはそれだからといって〕商品生産にもとづく労働生産物を はっきり見えないようにしている商品世界の一切の〔象形文字の〕神秘 一切の魔術と妖怪は われわれが身をさけて 他の諸生産形態(過去のあるいは未来の)に移って見ると消えてなくなる。
(承前)

と言うべきか。こう言って このあと例示もしているその議論は なにを意図しているか。《あるいは それだからと言って》ということばを わたしがさしはさんだのは どうして 《われわれが身をさけて》みなければならないのか という物言いである。
もちろん 例示的に説明するためのものであろうが すでに それ以前に 《身をさけ》なかったゆえに 象形文字の社会の その歴史的な終局性を想定したかたちでの解読ではなく むしろ はじめの意図の跳躍点を見たことによって 絵解きを必須のものともしないほどに いまここに立って 生活していくことができると まずは基本的に 言おうといていたのではないか。つまり すでに 《社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態》は 《倒錯》であると言っている。われわれは 意図の 跳躍点からの秘密の転化を知っている。
この自己還帰を説明することと 自己還帰の経過を例証することとは 微妙にちがう。
《できるだけ通俗化することにした》(第一版序文)議論が ここで 分散しはしないか。すなわち 交換価値が使用価値と分離してそれを主導する商品生産を意図するようになった世界に対して 自己還帰した人びとが自立するとき この足元の世界(それに対する見かた)が だから 倒錯を倒錯と見ていける自立の歩みが 分散しやしないか。
《他の諸生産形態に移って見ると たしかに商品世界の妖怪は 消えてなくなる》が 移ってみなくとも一たん消えたのではないか。移ってみないとき 足元が 消える必要はないから はっきり見えたのではないのか。《ブルジョア的経済学の諸範疇をなしている 社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態》は はじめの意図の跳躍点から つづいているものではないか。だから 倒錯ならそれを倒錯と見うる。
もちろん 《身をさけて見て》もよいのである。ということは 《ここの足元から どこか別の世界に移って見る》なら いっそうよく見える その例として 説明したのであると考えねばならないとき マルクスのこれを言う意図は どこにあるのか。
議論をより一層はっきりさせるためであるか。そして そういう議論は どんな目的を持つものなのか。《何事も初めがむずかしい》から まずは このはじめの科学を いろんな角度から説明しようとしたのか。そんなむずかしい科学が 人間学と経済学とのほかに あると見えるように言わなければならないとは 思えない。人間の法則にもとづいた経済行為の法則は ある跳躍点で たとい跳躍したままのすがたをも持つようになって現われたとしても それだけのことなのだから それ以外に むずかしい科学の 場所があるとは思えない。世界は 跳躍点の以後 社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態の世界と変わりない。場所は 変わりがない。
すなわち この しかしながら 象形文字を構成する思惟形態は 跳躍点の場の世界で きわめて内密な しかるがゆえにまた外密な はじめの意図の操作が――意図の自己放棄ともいうべき 資本への乗り移りが――おこなわれたとは 言うべきである。そういう疑いが じっさい ブルジョワ的経済学においても すなわちみづからにも かけられている。これは したがって〔またまたの引用であるが〕 次のように 事態を把握することで それは一例示としてだが ほとんどすべてを終えられるものなのである。

商品生産者の一般的に社会的な生産関係は 彼らの生産物に商品として したがって価値として相対し また この物的な形態の中に 彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが このような商品生産者の社会にとっては キリスト教が その抽象的人間の礼拝をもって とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム 理神論等において もっとも適応した宗教形態となっている。
(Ⅰ・1・1・4)

そうしてマルクスは さらにつづけて 延々と 《剰余価値学説史》(剰余価値学説史 2―資本論 第4巻 (国民文庫))までを含めて これを 詳細に吟味していく。ちなみに この一文の理論内容を とくべつに そしてマルクスの意図にのっかって 研究した人もいた。しかし その研究は 跳躍点でのはじめの意図にかんして 《人びとの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということ》への知解の合理性によりは そしてあるいは そのような知解の能力と意志とを持つという《抽象的人間の礼拝》はこれを排し さらにその上の理念の高みにのぼって 労働の私的な性格が 禁じられなければならないと考え もし意図もしたというわけのわからない心理的な倫理の力の方面にこそ 起源を見出した。このような起源は 宗教形態の方面で語られているが そしてすでに 象形文字をかたちづくった結果形態と同じものだと考えられるのであるが その研究者は 結果形態(つまり資本主義的な人間)をけなし 心理的な起動力のほうを ある意味で讃美した。どちらでも よくない。
マルクスは しめくくらないのである。しめくくるとすれば 今後 移行していくべき場所としての未来社会の展望を 叙述する箇所においてである。上に引用の一文で わたしが 事はほとんどすべてを終えられていると言ったのは その一文に付随して 個人的な観点――経済的範疇の人格化としてではない・あるいはそして一般論としてだけではない ふつうの個人の観点――での議論を 必要とするだろうということである。
けれども そうことわって 議論はしめくくられる。そうだと かれの意図は 目的が明確であるのと同じく 明白である。人間学の方面の自己還帰の線と そしてこれにもとづく経済学の方面での研究とである。
議論が延々とつづけられるとき 意図ははっきるしていると同時に 神秘的な領域に逃がれ去る。抽象的に矛盾したかたちで言うのだが はっきりしているままの恰好で のがれ去っていく。
ヨーロッパ社会では 商品生産への跳躍点で 第二次の意図が そこでの価値理念の一人歩きをゆるしたということが 抽象的人間の礼拝をもったキリスト教の宗教形態と もっとも適応している(――つまり 理念が 抽象的なるものである。そしてだから ちなみに ガリガリ亡者では いけないのである――)といったあと 意図のしめくくりではなく 意図〔と設計図〕のあらゆる対象分野へ かれは 移っていく。まとまった一例として

キリスト教世界ではないところの〕古代アジア的な 古代的な 等々の生産様式においては 生産物の商品への転化 したがってまた人間の商品生産者としての存在は 一つの副次的な役割を演ずる。だが この役割は その共同体が没落の段階にすすむほど 重要となってくる。・・・
(Ⅰ・1・1・4)

《古代アジア的》というのは 現代アジア的のそれまでつづいていると思われるのだが そして 《人間労働の等一性という理念の念観は 理念を 抽象的人間としてだけではなく 数量的な価値としてにしろ 貨幣に代えて 物神礼拝にまで進むと思われるが この商品生産者としての存在が 一つの副次的な役割を演ずる》というとき もしそのようだとして 《副次的な》ものであったとしたなら アジア的な生産様式においては 必ずしも物神礼拝が優勢のものとなること 比較的に少ないかも知れない だから 《〔旧い〕共同体の没落》も いま一つ別の副次的な役割を演じてのように 並行して 起こっているものであるのかも知れない そうして――もっと言うならば――抽象的人間の礼拝をもったキリスト教の宗教形態を 類似的なかたちで そこでの商品生産者は 蔽いとしてかぶっているかも知れない 等々と考えるのだが
これの当否は別としても そういったことなどからして議論をよぶ性質の叙述ではあっても ここでのマルクスは わたしのむしろ感覚としてだが しめくくることをしないのである。一方では すでに 人間学の方面のことは 《何か新しいことを学び したがってまた 自分で考えようと志す読者を想定している》(第一版序文)とき 意図のしめくくりは 言わずもがなのことであって 不必要なまま 進んだほうが 値打ちがあるというものなのかも知れない。だが 他方では この意図が じっさいの問題として えんえんと自己運動をおこしてはいまいか。
意図の持続と それの自己目的化した無限の運動とは 別である。これは わたしには《読みようによっては その恐れがある》という注釈をつけないでも 言えるし 言わなければならないように思われる。
これは 別のことばにおきかえれば 《ここで報告しているのはきみのことなのだよ》という語りかけが マルクスは自分自身にもとうぜん かかっていることを知っていたであろうが そのように述べていないという嫌疑がかけられることである。
人間の意図は――とくに意志は―― 運動するといえば運動するし 或る意味で その運動が 無限といえば無限である。ところが 先行するからそうであるとはいえ それは じっさいの上で 先行領域――つまりマルクスのこのような意図のありか――だけで動態するものではなく しかも 商品生産者としての後行の経験領域〔に乗り移って そこ〕でのみ活動するというわけに 基本的には いかないものであり 先行・後行の両領域があいまって そのつどの一時点・一地点が すでに動態であり あの跳躍点なら跳躍点を 展開させていくものだと考える。
跳躍点を過ぎたから 商品生産者となったから しかもそこには 自己目的となるべき価値の〔まず先行するものとして 意図的・理念的な〕増殖過程を見出したから といって これが 宗教化してよいというわけには 基本的に いかない。宗教化とは 先行するものでないものを先行するものと見なしたり 先行する領域を後行の領域と まったく 切り離したりする意図と思惟(そして行動)の形態である。
ところが 跳躍点の秘密を明らかにしたから その意図 あるいは この意図を受け取って対処する自分の意図をもって それらの先行する意図の世界で あれこれと 学問の対象を見いだして 自己運動しているというわけにも やはり基本的に 行くものではない。
節を改める。ここではマルクスが その自分のはっきりした意図なのだがを しめくくっていないという疑い。
つづく→2005-12-31 - caguirofie051231