caguirofie

哲学いろいろ

#22

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§35 河合隼雄論ノート補遺

かんたんに河合の悪魔論について

すこし専門的な論議をつけ加えておきたい。
それは通俗的には 人間という存在が本質的に言って 善であるか悪であるかというテーマに関係するのだが 著者は もちろん一般にもある程度この議論にはケリがつけられているように 性善説あるいは性悪説のどちらか一方に片寄るのではなく しかもこのように二律背反の中からその視点をみちびき出して来るようにでもなく はじめにそのような通俗的な論点の角度とは別の仕方で この問いに対するいわば構造的な視点を 次のように明らかにする。ヨーロッパにおけるこれまでの議論にも即しつつ――。

神と悪魔とを完全に分離し 三位一体の絶対善の神とそれに敵対する悪魔との戦いのなかで 人間がいかに神にのみ従おうとしても無理である。人間の心理的現実を直視するならば われわれが悪をいかに拒否しようと努めても それに従わされることを認めざるを得ないであろう。
人間は絶対善のなかに立ちすくみ それに耐える強さを持たねばならない。そのとき われわれの意識的判断を超えた四位一体の神のはたらきが われわれを救ってくれることを体験するであろう。・・・
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 8・5)

中で 《四位一体》という点については著者は 心理学者ユングの説に依拠している。

  • 依拠しつつ 日本の昔話の分析をとおして 著者の固有の理論として 読み替えている。
  • また この悪魔論がかかわっているところで われわれの遠藤周作論ノートの付論としたいと考えた。

すなわち簡単に言って 《ユングは 父-子-聖霊〔なる三位一体〕に対して 第四者〔すなわち悪魔〕を加えることによって 全体性〔――前章§34に触れていた――〕が形づくられるとするのである》(8・5)と河合が考えるのである。かくして 上の引用文につづいて

このとき 父-子-聖霊という側面が 男性原理によって貫かれているように 父-悪魔-聖霊の側面は 悪を包含しつつそれを高めるものとしての女性原理に支配されている とも言うことができる。従って 四位一体の神は 父性と母性 男性と女性の結合によって成立することになるのである。従って 《結合》ということが高い象徴的意義をもつことになり 聖霊はそのような結合を行なうものとして 時に両性具有的なイメージを背負わされたりする。また 悪魔と女性が重なり合わされたりすることもあり いずれにしろ 男性と女性の結合ということが キリスト教の三位一体の神との関連において 高い価値をもつことになるのである。
(同上 8・5)

これによって 《意志する女性》《自己実現》ということを言うのであるから この説は じつは 単純な性善説とか性悪説とかよりももっとタチが悪いと まず言わなければならないのであるが この問題を付け加えて整理しておこう。
著者は 

もし 父なる神が絶対的な善であるとすると 神が創り出した世界に悪が存在することを どう説明するのか が大きい問題となる。そこで 理論的な整合性を重視する教父哲学者たちは 悪の存在を認めず 悪は《善の欠如 privatio boni 》として説明する。
(同上8・5)

という見解にももちろん触れている。しかし 一つ前の引用文のごとく言っている。
この問題は 当然 現代において解決済みなのであるが 著者がこのようにとり上げる点にかんして 昔話との関連の上で やはり再確認して明らかにしておかざるを得ないであろう。
まず 論理的にこの河合の説の欠陥を証明しようと思えば 簡単である。
なぜなら 昔話において 昔話としてであっても あの炭焼き長者の女房である《意志する女性》は――現代あるいは未来をも先取りしてのように―― 歴史的に実在していたというのが 著者の立ち場なのであるが もしそうだとすると 《意志する》ということは だれも自己に逆らってのように悪の方向へと向いて悪を欲することによってではなく 善が悪をよく用いるということによってであるだろうが これは 言うところの第四の神格たる悪(悪魔)が そのように存在して この《意志する》ことにあずかったとは考えられないからである。悪は 《意志する》ことをなさない。つまり 《自己実現》を阻むことはあっても その意志を推進することはないであろうから。
性悪説が唱えられるほどに 悪が 実際にはたらき その力が認められることと この悪が 善の意志の中にも 存在することとは 別である。後者は ありえない。《そのとき われわれの意識的判断を超えた〔悪をも一存在として加えた〕四位一体の神のはたらきが われわれを救ってくれることを体験するであろう》とは 言わないし 言えないであろう。悪が 自己実現を助けてくれたとは 言えないであろう。なぜなら 《一体》というのであるからには ほかの三位一体の神と 一体となって 《意志する女性》にはたらきかけているというのでなければ 四位一体の神ではない。
悪は われわれの意志の行為に 結局のところ あずからなかった。逆に われわれの意志の行為が欠如していたとき そこのところへ あたかも悪がはたらいたというほどの事態が生じるということなのである。これに目覚めるなら 結局のところ 善が悪をも用いるという意志の行為を阻まなかったと そのときわれわれは 言うのである。これが 論理的な証明である。 
そうでなければ 《意志する女性》が実在したとは言えないであろう。そうでなければ 同時にかたわらで 悪をおこなっていたということになる。
ところが 次にわれわれは この炭焼き長者の昔話にかんする限り 《意志する女性》はなお未実現であるというのが その立ち場であった。このとき 悪の問題が問題になる。しかも 悪はほんとうには《存在》していないというのが 基本的な命題でもあった。
おそらく簡単に言うことが出来る。片や 悪を存在するものとして第四の神格にまつりあげるゆえに 昔話の中の意志する女性が 歴史的に存在したと考えるのであろう。しかも現在の現実に 必ずしも実現しているとは言えないというような口振りになる。片やわれわれは 悪は存在しないというのが基本的な見方であるゆえに 昔話の中における実現は 実現ではないであろうと言うことになる。

  • 存在は善であると捉えるが その善なる存在である人が 善の欠如の状態に陥るなら それは 非存在に陥った存在の状態にあり また これを故意になすなら――自己の意志で悪を欲するなら――それは 非存在を装う存在となる。

言いかえると 昔話の中で《意志する――そしてこの意志が悪によって阻まれずに 自己実現する――》ことと 人が現実に《意志する》こととは 別であると言ったことになる。
後者(われわれの立ち場)は 昔話を解釈しているが 前者は 昔話の核=現代史のわれわれの精神(しばしば観念)を解釈している。核としては 通史的な議論を どんな昔話に対しても 及ぼすことができる。しかも後者(われわれの立ち場)は 昔話の解釈をとおしてその物語の核を明らかにしようとする。言いかえると このとき 《善悪の相対化をなして しかし ここに立ちすくんで これに耐える強さを持ってではなく 昔話の核=現代人としてのわれわれの精神をも対象化し あたかも対象としてのようにこれをわれわれが所有する――所有することによって 意志することが可能になる――》のである。
昔話の核を解釈して 《意志する女性》《自己実現の過程》として示すことによってではなく 昔話のストーリを解釈して 昔話の核をとらえ これをも相対化しわれわれの有(もの)とする これによって 悪は存在しないという命題をも実現させようと動くことになる。ここで もしこのわれわれがそれによって生き動き存在するところの源を 神と捉えるとその神は 悪をも加えた四位一体の神ではなく どうしても絶対善たる三位一体の神でなくてはならないであろう。
こう言うとわれわれは 《人間の心理的現実を直視》しないで《われわれが悪をいかに拒否しようと努めても それに従わされることを認め》ず ちょうど《父性と母性 男性と女性の結合》をも無視していることになると言わなければならないであろうか。そうしているのは むしろ悪は存在すると言う河合らの側ではないだろうか。そうじゃないと言うゆえに われわれの《意志する》行為には われわれがそれのはたらきに従わされていることを認めざるを得ないところの悪は 基本的にあずかっていない 与りえないという現実を直視しなければならない。そうでないと わざわざ昔の人びとも 昔話としてながら 意志する女性の物語を想像しなかったであろう。
あるいは 仮りに この昔話が単なる空想の産物ではなく 実際の人間の歴史であったとすると そのように現代人も認めるとする限りで 悪の力によってその行為が阻まれないところの人間の意志による行動は 過去にも現在にも現実の現実であるという基本的な見方を 人びとはとらざるを得ないことになるだろう。
河合の言うのは おそらくその心は われわれのこのような主張と変わらないということなのかも知れない。なんとも判らないが 基本的な命題の立て方に重大な欠陥があることをたとえ不問に付すとしても 問題は その同じ主張が 河合のばあい たとえば《意志する女性》の像(――それは 現代人であるわれわれの思いでもある――)がちょうど われわれの頭上を素通りしてしまうという構造(前提)の上に成り立っているそのことにある。
そしてそれは 昔話を解釈するのではなく 昔話の核を解釈して見せた つまりむしろ昔話がわれわれを解釈しているという構造と同一のことがらを物語っていよう。
ことは重大であるので このように付論としてとり上げた。

  • つまり論理的な問題としては 《悪とは 〈善の欠如〉である》という命題を誤解しているという問題である。もしくは《絶対善と 人間の相対的な善悪との区別》を認識するにあたっての誤謬にしかすぎず これは解決済みのことである。

(つづく→2005-11-25 - caguirofie051125)