#21
――遠藤周作論ノート――
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付論 悪霊のもんだい
§34 河合隼雄《昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)》への書評
1 あらまし
- 作者: 河合隼雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2002/01/16
- メディア: 文庫
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著者はこの本をつぎの一文をもって始めている。
昔話は一体われわれに何を物語るのであろうか。
しかし すでにわれわれの結論を明らかにしようとするなら この本で著者は 《昔話がわれわれに物語るところの事柄》を けっきょく 明らかにしていないということになる。
河合は 同じテーマについての別の本――《昔話の深層》(1977)――で 《昔話の〈解釈〉を与えることは 〈野暮な試み〉である》という趣旨のことを言っているが そして この《野暮な試みを以後 続けるのであるが》(同著1・1)とことわっているのだが 同じくこのあたらしい書物でも この粋な《解釈》を与えているのであって それだけでしかない。つまり 《昔話は何を物語っているのか》については けっきょく明らかにしていない。
したがって結局 著者が明らかにしている事柄はと言うと 《昔話を聞くとき そのものがたりの進行につれて いよいよ 完結の寸前で しかも その話が 突然 停止してしまうということ》 これになる。そして 《このような物語の仕立てによって 話のあと 聞き手のこころに生じて来るところの思い》 そんなところである。そういうふうになんらかの思いが生じて来ることがあるのだと解説している。
いくつかの昔話がいくつかの思いを生じさせてくれるのだが 日本の昔話によって語られ われわれが読み取らねばならないその具体的な内容はと言うと この本の最終章のテーマであるところの《意志する女性》 これが それらの思いの《頂点》に位置するであろうという。これが 河合の結論である。
にもかかわらず われわれが河合はここで《昔話の物語るもの》をいまだに明らかにしないと結論づけるその理由は すでに言ったように 野暮な・あるいは粋な《解釈を与える》ということ そして これのみであるというところにある。
河合はむろん 昔話の伝えようとするものを 明らかにしようとしている。その姿勢にある。これを怠っているのではない。それは 《昔話の深層》のほうでは 物語の核というような意味で 《人びとの生活における重要な瞬間》あるいは《原体験》といったことばで捉え これを明らかにしようと努めている。この《昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)》では 上に紹介したように 具体的な内容として 《意志する女性》なる思いが それである。なおかつ このような・ここまでにかんする限りでは鮮明であることによっても この物語の核あるいは原体験の瞬間が 明らかにされていないとわれわれが言い張るのは 《深層 / 心 / あるいは 頂点に位置する思い》として解明することと 物語の核を問い求めることとは 別のことであろうという理由による。
なるほど河合は
《解釈》を与えることは 重要な原体験を失わすだけのことかも知れない。この点を強調すれば・・・いかなる昔話の解釈もその昔話以上にでることができないのである。
(昔話の深層 1・1)
と述べている。だから 《実はそのような野暮な試みを以後 続けるのである》とことわっているのである。けれども 《野暮》がいかに見事にその姿を現わしても やはり野暮であるという野暮な一つの批判に対して 著者は答えるすべを持たない。もし 野暮の野暮たる所以を著者じしん かんずいているとするなら――その感覚は 粋であるゆえに―― この粋な始原の思いをまず表現してこそ 昔話の伝えようとする核を明らかにしたと言えるという寸法である。
この物語の核たる重要な原体験の瞬間(そのような思い)をもし 《意志する女性》あるいは《自己実現(もしくは個性化とも)の過程》さらにあるいは《人間の成長にともなう心の内的な成熟の過程》と言うのであれば 言いかえると そのような粋な始原の思いをすでに獲得しているというのであれば これに・またはそのように《解釈を与える》のではなく 生きた原体験の・その人間の行為の瞬間を描き出さなければいけない。そうでないと どこまでも野暮の集積でしかないようになる。
これが 問題の核だと思われる。この書評の結論でもある。ヤボでもキザでもないとおもう。
抽象的にはまず このように要約して いくらか次に この著書のより生産的な批評をつづっていきたい。
2 昔話を解釈するとは
わがくにの昔話では 一般にその物語が 完結の寸前でとつぜん停止してしまうというのが 一つの基本的な性格であると著者によって 語られている。
この前提で話を継ぐと やはり著者によって
ここでわれわれは 何が起こったのかという考えにとらわれるよりも 一転して 何も起こらなかった ということを積極的に評価してみてはどうであろうか。
(昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 1・4)
という提言に出会う。この提言の内容をもう少しくわしく紹介すると
つまり 英語の表現 Nothing has happened. をそのまま借りて 《無》が生じたのだと言いかえられないだろうか。このような観点に立つと ひとつの昔話が《無》を語るために存在している というように受けとめられてくるのである。・・・本来《無》は否定も肯定も超えた存在である。このように観点を変えると・・・それは 日常・非日常 男性・女性などの区別を超えて 一切をその中に包含してしまう円へ変貌する。それは無であって有である。
このような《無》の直接体験は おそらく人間の言葉を奪ってしまうものであろう。日常・非日常の区別を超えると言ったが それは主体と客体をもひとつの円のなかに包摂してしまい それを客観化し 言語化することを不可能とならしめる。・・・〔一般に昔話の〕最初のシーンと最後のシーンは不変である。要するに何事も起こらなかったのだと。あるいは もしそこに運動があったとしても 出発点と終結点は同一地点であり それがどこの地点でもあり得るという円周なのである。円の中は空であり無である。しかし 無とは何かとなお問いかけてくる人に対しては 昔話は《梅にうぐいす》という答えを用意している。あるいは日本人にとって最も大切な 稲の成長のすべてがそこに示されたように それは《すべてのこと》と答えているとも考えられる。
(昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 第一章 見るなの座敷 4 何が起こったか)
ここで この《〈無〉の直接体験》――聞き終わった人に そのような思いが生じているというのである――の中にさらに その具体的な・人間的な内容として 上に触れた《意志する女性》《自己実現の過程》が捉えられると著者は 言いたげなのである。
結論的な内容に近いと思われたので 長く引用したが またその中で触れられていたように 《〈無〉が 男性・女性の区別を超えている》と考えられるぶんには たとえば《意志する女性》と言うときにも それは 女性に限らないということのように捉えられる。したがって 男女両性の区別を問わないで 《自己実現の過程》ということが 昔話の核であるという意向なのである。
しかしわれわれは これを 昔話の核とは言わないのである。であった。どういうことか。これが 問題の焦点となる。
もちろんそのわけも すでに述べていた。そのような《解釈》は野暮であると。したがって これはなぜヤボであるかを解明することが この書評の一つの課題であるが しかるに このヤボをヤボであると言ったのは ほかならぬ河合隼雄その人である。ヤボを承知で 昔話を解釈しようということであった。
しからば なにが問題か。
しかし これをわざわざ言葉にして解明することも また ヤボであると言わざるを得ない。そういうことになるであろう。
これであらましで述べたわれわれの結論を証明したと思うのであるが それはまた ただ皮肉ったかたちの論理的な証明にしかすぎないということも 自明であるからには 書評をさらに続けなければならないという恰好である。
冷静な読者はすでに 問題の核がどこにあるか 察し始めておられることと思うが それは いろんな形で言い表わすことが出来る。
一つには すでに述べたように 河合は解釈を与えたにすぎないということ つまり むかし話の解釈は 昔話以上に出ることはできないということ。
いや ほんとうは そうではあるまい。つまり 同じそのことが 次のことを明かすであろう。河合は 昔話を解釈したのではなく 昔話が河合やわれわれを解釈するという書物の基本的な構造になっているということ。これが 問題の核なのである。
おそらく 《このような〈無〉の直接体験は 人間の言葉を奪ってしまうものであろう》 しかしながら ここまでは述べるべきなのである。河合は あたかも昔話そのものの中に分け入って 上の解釈を与えたのである。
何ごとについても そのものに内在して認識・批評することは 重要である。けれども その対象――ここでは 昔話――がわれわれ認識者を解釈するのではなく われわれが対象を認識し解釈するのである。
- また 言わずもがなのこととして この新しい認識から実践が始まる。言いかえると 新しい解釈――それに普遍性があるなら――の中にすでに 所謂その対象の変革も少なくともその方向性として 始まっている。
しかしながら 対象を分析することと 対象がわれわれを分析することとは 別である。
いや われわれは このような哲学的なヤボな議論は ただちに止めなければならない。たしかに河合は ここで 対象を解釈したのである。むしろその解釈は 現代人にとって あざやかである。と すでにこの本の読者であった人たちには述べて この著書の重要性を確認しておくことが出来る。同時に おそらく 著者は 対象を認識・批評するのでは じつはなく 対象つまり昔話 の伝えようとするその核を分析・解釈したもののようなのである。
繰り返そう。対象たる昔話のストーリ一般を解釈したのではなく じつは すでに明らかになっているところの昔話の中に示された結論(ストーリの核)を解釈して見せたのである。このことが 《解釈を与えただけ》というわれわれの印象を裏切らないようにさせている。印象でも ひとつの批評になると考えてのことである。ゆえに 《意志する女性》《自己実現の過程》 また その大前提としてのように《〈無〉の直接体験》等々の 著者の見解。
けれども この主張は われわれ現代人にはすでに十分に明らかなことである。われわれは このことを すでに知っていないとは言えない。だから ほんとうは ヤボを承知で 本を書いてはいけない。それを止める法は何もないが 昔話を解釈するということは 昔話を解釈することであって 昔話がわれわれを解釈することでもなければ 昔話を題材にして その昔から現代へのわれわれの心・その思い・その深層とやらの発達を解釈するということでも ほんとうはないはずである。なぜなら 今のわれわれも さらに後世から見れば 昔話にならないとは言えないのだから。だから 問題は 昔話のことではなくなっている それなのに 河合はここで 昔話の問題だと言い張っている。これが 問題だ。
じつは 河合は 《意志する女性》といったテーマ(その思いまた行動をともなって)は むしろ未来の話でもあると言っている。こうなると 話は別となる。つまり これに対しては簡単に われわれは批評することが出来る。つまり そのように言う河合は単なる啓蒙家でしかないということ。かれは 《まだ主体的に意志して生きていない人びとよ 意志する人となって生きたまえ》とあからさまに言っているようなものなのである。そういう主張ということになる。けれども これも わざわざ言うのもヤボではないか。もしくは わざわざ昔話を題材にして そのスローガンのみを打ち出すのも ヤボのように感じられる。むろんそれを承知でしたことであるらしいが。
したがって われわれは ここで再び 問題は何かと問うこととなる。
昔話を解釈することである。と元に戻って その命題を立てることが出来る。われわれは 次に その一例を示さなければならない。
3 解釈の具体例
《意志する女性》の命題がみちびき出されているのは 《炭焼き長者》という昔話である。
内部に矛盾を内包させるものとして 女性の意識は統合することがむつかしい。それを崩壊へ導くことなく全体性を保つことは なかなか至難のことである。全体性の象徴を われわれが心のなかに しっかりとイメージすることが出来てこそ女性の意識の形成が可能となるのだが 《炭焼き長者》の昔話は そのような象徴性をもつものと思われる。
(昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 9・4)
と解釈されている。
われわれは この物語のここではもはや紹介の労をとろうとは思わない。
ただちに著者の解釈を 基本的な解釈を 示すなら つぎである。
上の総括的な解釈のなかの《全体性》とは あの《〈無〉の直接体験》ともいうべき大前提の全体性であって 言いかえるとそれは 一般に社会としての 人間の社会的な関係としての 全体性ということなのであるが――その意味で《女性 または 男性 の意識は 内部に矛盾を内包させるものとして 統合することがむつかしい》と言われたのであるが―― この
全体性は 明確に把握しようとすれば全体性を損ない 全体を把握しようとすると明確さを失うジレンマをもつ。全体性の神(無の直接体験)は 人間の意識のみによって明確に把握することは不可能である。
(同上 9・4)
《従って》と著者の基本的な解釈は 次の点の表明にあるということになる。
従って その全体性について われわれが多少とも明確に語ろうとするときには その意識状態による多少の歪みを受けざるを得なくなる。
(9・4)
これなのである。ついにわれわれは最後まで議論を 抽象的な領域でひっぱってきたことになって それについて釈明しなければならないのだが もし釈明もすでに端折って この著者の解釈に異議を唱えるとすれば それは 《全体性の 人間の意識による把握は不可能である》ということと 《全体性について明確に語ろうとする》ということが 決して相い容れるものではないということ これなのである。
言い換えよう。《全体性――物語の核――》を解釈することは 不要であるが それは 不可能である。われわれは 物語(昔話)を解釈するのである。
ということは 《炭焼き長者》なる昔話の提示する《意志する女性》というテーマが 《人間の深層構造に深く関連するものであるだけに 現在の状況のみならず 未来を先取りするよう》(9・4)でもあるとは 言えない。つまり それは 昔話を解釈したのではなく 昔話の物語の核――そしてそれは むしろ現在のわれわれの思い――を 全体性として解釈しようとしていることなのである。
そうではなく 昔話をストーリについて解釈しようとわれわれがするなら この炭焼き長者の妻となった意志する女性の像は 《現在の情況》すら捉えていない もしくは 現在の情況を 負においてなお捉えていると解釈しなければいけない。そういうことになるであろう。
意義深い結婚が成就し 続いて 主人公たち(炭焼きの はじめは貧しかった 男とその妻になる女)は多大な黄金を手に入れる。・・・ここでは女性の能動的なはたらきが重視されるのではなく
- つまり 結婚なら結婚へと意志する女性であることに変わりないが それでも この女性の能動的なはたらきが重視されるのではなく
夫がもともと持っていた――彼はそれについて無意識であった――潜在的な宝が生かされることになるのである。
(9・4)
つづけて 《女性は常に能動性を発揮するのではない》と言うのなら どうして この《意志する女性》が 現在の情況を言い当てていたと言えるのであろうか。現在の――現代の――われわれの姿がそうではないから 《未来を先取りしている》と言うのなら なおさら どうして 言うところの《全体性》を発揮する人の像であると言うことが出来るのであろう。
にもかかわらず そうだと言うのは 昔話を解釈するのではなく 昔話がわれわれ いや 著者 を解釈して なお現在地点のわれわれを この炭焼き長者の夫婦が素通りして行ってしまうことにならないであろうか。
《昔話を解釈する》なら じつは現在のわれわれの全体性・社会性の中にある《意志する女性》の像 これが いまだこの《炭焼き長者》の物語では 実現されていない こういうことになっている。これが 《〈無〉の直接体験》だということになる。
《体験》というからには 著者はたしかにそう言ったのであるからには そう捉えるしかないではないか。これが 《昔話を われわれが解釈する》という一例である。
このハッピー・エンドに終わる昔話を しかも
ここに登場する《意志する女性》は――女性の地位がきわめて低いと見なされていた古い時代にあってさえ―― わが国特有の過剰な感傷性から ふっきれた存在として さわやかな感じを与えるものとなっている。
(9・3)
にもかかわらず いわば自己未実現の物語だと どうしてわれわれは 著者の見解にさからって言うのであろうか。
この昔話も また著者によるそれの解釈も いまだその物語の核を明らかにしていないからでないなら われわれは何と言うべきであるだろうか。しかも 著者は これまで多少なりとも見てきたように この物語の核――無の直接体験なり全体性なり――を《解釈》したのである。
同じことで 著者はまだ ストーリとしての昔話を解釈していない。意志する女性のこのさわやかな像は まだ物語の核 その昔話の伝えようとするところの核心ではないと言わなければならない。著者は 全体性の解釈不可能を言いつつ 解釈をほどこしたところの像をもって 全体性に代えたのである。昔話を解釈すると言いつつ 昔話の核を解釈し――そしてそれは 昔話がわれわれを解釈するという構造になっている―― この部分的な解釈をもって 全体性としたのである。この解釈例にしたがうと いまだその解釈によって明らかにされた人間の像は 現在においても実現されていないと著者は言ったのである。
われわれは この解釈例にある像は 少なくとも 像(その思いでもある)としては 現在持っている――その持つことが実現されている――と言ったのである。要するに 思想が自由である。つまり むしろその形では実現されているから そのように一解釈を与えたのであると見ることは た易いことである。
ところが 炭焼き長者の夫婦はいまだ この像をほんとうには実現させていないとも 同時に見なければならない。《昔話》となったからである。《歴史》とはならなかったし まだなっていない。《伝説》ですらなく ただ《昔話》として残されたというものである。
だから 未来の話であって 未来の先取りであると言うのは 自由だが ヤボを通り超えているのではあるまいか。限界をも捉えて そこで 昔話を解釈したということになるのではあるまいか。
全国各地に同じ類型をもって 抽象的に(つまり《話》として)は普遍的な像を語るもののようである。と同時に そのように話として伝えられたものにとどまるとも言わなければならないと見られる。昔話が 昔話として 実現した。これが 昔話を解釈することだと考えられる。そうでないと 一方でそれが持つ全体性なり普遍性なりによって われわれがその昔話によって解釈されるようなことになる。
昔話の持つ限界 あるいは 昔話と歴史との違い これを確認したものに終わるかに思われるが そのような観点から取り上げたわけでもない。この昔話を解釈することは 歴史にほかならないからである。著者が この本の扉に 次のような言い伝えを引いて エピグラフのように掲げていることは 皮肉である。
むかし語ってきかせえ!――
さることのありしかなかりしか知らねども
あった
として聞かねばならぬぞよ――
――鹿児島県黒島――
しかもわれわれは 歴史とは違うところの 歴史の全体性とは異なるところの 抽象的に普遍性を語って伝えようとする昔話に しかし その全体性が描かれることはありうるという前提で この書物をとり上げた。作り話であるから 無視してよいということにはならないと――その点は 著者と同じ態度で――考えた。
(つづく→2005-11-24 - caguirofie051124)