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哲学いろいろ

#2

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§3 《おバカさん (角川文庫)

おバカさん (角川文庫)

おバカさん (角川文庫)

この本の表紙カヴァーは 次のように自己紹介している。

春のある日 銀行員・隆盛君兄妹の前に一通の手紙を先触れに風の如く姿を現わしたフランス人。名はガストン。ナポレオンの末裔と称するが顔は馬のように長い。無類の臆病で お人好しで 行く先々に珍事をまき起こすが その魂は神の如く純である。著者得意の諧謔を弄した明朗小説ながら 内に〈キリスト受難〉の現代的再現を意図した野心作。

遠藤周作において 同伴者イエスのイメージは このような一般的にもおバカさんの人柄の内面的な受け止めをとおして 形成されると言われる。遠藤自身も サーカスの道化役を描いた画家ルオーとともに そうだと表明しているようである。
フランス人の登場 あるいは キリストのイメージの追跡 といった性格にもかかわらず 

しかし この小説は それほどバタ臭い小説ではない。遠藤さんという人は ごくたまには酔余の武勇伝に及ぶこともあるらしいが おおむね争いを好まない人である。悪くいえば 《まあまあ》といって物事をとりまとめるのが上手な親分肌であり よくいえばごく常識円満な苦労人である。F銀行の行員である隆盛君のように 気取ったバアよりは縄のれんが好きなような日本的な男だといっても さして事実と遠くはないであろう。そういう人柄が ガストン君の絶対博愛主義を裏付けていて このキリストを日本のキリストにしている。キリストにしては少々チャチではないか 少々常識的ではないかなどといってはいけない。今日の日本には おそらく これ以上のキリストを想像できるキリスト信者はいないのである。
江藤淳:《おバカさん (角川文庫)》の解説 1962)

ストーリの紹介をしないのであるが このような前提で いくらか別の角度から 《カトリック作家の問題》を問うことができる。
わたしたちの議論の中心は 《キリストは永遠の同伴者であるのではない》であり なおかつ 《同伴者イエス》の像は そのようなイメージとして・信仰の心理的な裏付けとして 日本人によって日本語で書かれたという歴史的事実をわれわれが持つ このことに関係している。
《主人公ガストン君の絶対的博愛主義》といった表現を見たので 小説の中から次のような一節をいま抜き出して それについて考えてみたい。

どんな人間も疑うまい。信じよう。だまされても信じよう――これが日本で彼(ガストン君)がやりとげようと思う仕事の一つだった。疑惑があまり多すぎるこの世界 互いに相手の腹のそこをさぐりあい 決して相手の善意を認めようとも信じようともしない文明とか知識とかいうものを ガストンは遠い海のむこうに捨てて来たのである。今の世の中に一番大切なことは 人間を信じる仕事――愚かなガストンが自分に課した修行の第一歩がこれだった。
おバカさん (角川文庫) 〈東洋の隠者〉)

そこでわたしたちは この《その魂は神の如く純である》《絶対的博愛主義》 または《内に〈キリスト受難〉の現代的再現を描こうとするその心理的な裏付け》 これらが どうでもよい事柄だと言って来たのである。
言いかえると 《カトリック作家の義務》である《人間凝視》の姿勢 これをつらぬくと そういうことになるはずだ。この姿勢をつらぬくからこそ そうなるのです。したがって このおバカさんのイメージがあたかも発展して 永遠の同伴者イエスの像にみちびかれていくということにはならないと言ったのでした。
なぜなら。――この小説等の想像力は どこまでも 人間凝視の姿勢として 人間の世界 その意味でどうでもよい世界の出来事――その心理的なイメージ――をあつかうものだからということになるでしょう。もしそうでなければ 作品は 物語のかたちをとった神学の議論ということになります。
もう少し精確に言おうと思えば。――《おバカさん (角川文庫)》から《同伴者イエス》へと イメージが発展することはありうる しかし これは あくまで 人間の・心理的な・時間的な・どうでもよい世界での出来事に属している。したがって 仮りにここであの二段構えの見方で言うとしても イメージの発展・深化が それとして どうでもよい事柄からどうでもよいのではない事柄の領域へ移行するということにはならず そうではなく 仮りにその初期のと言うべき《おバカさん》のイメージを取り上げるとしても このイメージ自体からそれをとおして そのときただちに どうでもよいのではない世界を問い求めるということ このような構造的な視点に立った作業が 作者にも読者にも 要請されている。こう言えまいか。

  • 《ただちに》ということが 重要です。二段構えというのは ほんとうは 必要ない。

この仮りにの二段構え(二段構えに見えるだけの見方)は 当然 後期の《同伴者イエス》のイメージの場合にも 適用されるべきであって そのときわたしたちは ただしくカトリック作家の問題を問題にしているということになるはずです。
《同伴者イエスの発見――これは 人間の想像力における心理的なイメージの獲得である――》は カトリック作家の問題であり このどうでもよい領域のイメージをとおして どうでもよいのではないものを問い求めることは カトリック作家の問題の問題である。なぜなら どうでもよいのではない領域に属する神は 人間そのものではなく また人間の心理――あるいは想像力の発揮また そういった意味あいでのこころ――ではないからである。
わたしたちは いたづらに我を通して 異説をとなえているのだろうか。
けれども  《どんな人間も疑うまい。信じよう。だまされても信じよう》という《仕事》は 人間のものであり その意味でどうでもよい心理の世界の出来事である。それは 上に見たように 《人間がキリストを想像したものである》と江藤淳が解説するようにであり また遠藤自身 カトリック作家の問題として 人間凝視の義務を放擲しないとの大前提を語っていたようにです。この人間は 《神でも天使でもない》と語られたとおりにであるでしょう。
さらに議論を継ごうとするなら もう少しこの作品の中味を見てみようと思います。作者は登場人物に次のように語らせている。この登場人物が仮りに現実の人間であったとするなら この人間を――信じるのではなく――凝視することが じっさい 小説の問題点なのではあるまいか。わたしたちの側からは小説を批判するためにも そうだが 一般に小説の提起している課題としても そうなのではあるまいか。

 ――今はこのようなところで占師となって 女たちの恋文を代筆したり その愚痴をきいて生きとりますたい。・・・わしはもうつくづく 近ごろの日本がいやになってきてな・・・あんたら西洋の方から見ると この日本の現状はどう映りますかな。
ガストンは悲しそうに微笑した。どう返事をしてよいのか わからぬ時 彼はいつでも悲しそうに微笑するのである。
 ――こんな陋屋に住んどるだけでも 今の日本に何が失われてしもうたか よくわかりますたい。それは信ずるということじゃ。政治家もインテリもみなキツネやタヌキよりも猜疑心の強い人ばかりでな。政治家は理想を信じんし インテリは人間を信じとりはせんですたい。悲しいことです。
枕もとの茶碗にあの薬湯をつぎながら 蜩亭老人は吐きすてるように言った。
 ――まだ人間を信じとるのは下におる人間じゃ。あんたを昨日送ってきた女たちも 体を売ったり人のものを盗ったりはするが 根はバカでもお人好しで 情のある女子ばかり。真心というものを持っとります。真心というものを持っとらんのは あんた この日本で・・・政治家とインテリと呼ばれる人たちですたい。
ガストンは両ひざに手をおいたままうなずいた。もっとも彼にはこの老人がイワシ臭いいきを吐きかけながら しゃべる話が 半分もわからなかったのであるが・・・
 ――真心・・・あんた この言葉を聞いても今の若い日本人は感動もせん。そんなもんは世間をわたるのに通用せん無用なものと思うとる。貧しい国の悲劇ですたい。ミスター・ガス 貧しいのは物じゃない。心の貧しい国が今の日本じゃ。
・・・
おバカさん (角川文庫))

《真心》――だから《真心》――この言葉が 《世間をわたるのに通用せん無用なもの》であるかどうかを別として この心理のドラマが わたしたちは どうでもよい時間的・可変的な事柄に属していると言ったのでした。わたしたちは《真心》によって生きているのではなく おそらくわれわれの存在の根拠は したがって どうでもよいのではないものであるはずですから 言いかえて 神は この真心ではない からです。真心というものは 人間凝視の世界に属するものである。したがってもう少し勇みこんで言うとすれば 物が貧しいか豊かであるかどうかを別として 心の貧しい人が この心というどうでもよい事柄をあたかも超えて どうでもよいのではないものを問い求めるというのは ほんとうであるに違いない。
つまり 人間凝視の姿勢をつらぬくなら この《おバカさん》の心理的な想像によるイメージが やがて 《同伴者イエス》の像となって さらにこれが 《キリストの肉の復活》というどうでもよいのではないものの観想にみちびかれていくというのではなく そうではなく 同じこのおバカさんや一老人の人間をそれぞれ凝視することをとおして そのとき この心理の世界を超えて 何ものかの観想を得るということであると思うのです。

  • 心理的な想像によるイメージ→心・真心→同伴者イエス・永遠・復活というような二段・三段構えによる作業は どうでもよい事柄です。イメージの想像があろうがなかろうが その人と接して その人間凝視を通じて その時即座に もし得られるとすれば 何ものか・どうでもよいのではない領域の事柄が われわれには観想されてくるはずです。二段・三段と階梯を通って 導かれるというよりは むしろ 向こうから わたちたちの許に どえらい観想がやってくるはずです。それは 《真心》などを超えているはずなのです。

もちろん このとき観想する何ものかを わたしがすでに獲得したというのではありません。しかし それをたとえば《キリストの肉における復活》であるとすると この復活は この世に属していない。これを けれども 《同伴者イエスの発見》として イメージするのだと わづかにでも観想したものが それだと言うとしても わたしたちの一つの結論として明らかなことは 《キリスト・イエスは永遠の同伴者なのではない》というのであり そのようにただちに反論することができると思われます。同伴される者・つまりわれわれ人間が 永遠の存在であることになってしまう。
ここで カトリック作家の問題つまり小説作法の限界を理由にして 遠藤は その作品世界また独自の主張に 固執することは出来ないし わたしたちも かれにくみすることは出来ないのです。ことは微妙ですが そういうことになると思います。
章をあらためたいと思うのですが さらにもう一点の結論は 次のごとくです。人間の誕生や死は 人間に属することであるが 復活は 人間の意志の力やその行為に属するのではないということです。これを超えて どうでもよいのではないものとしての《同伴者イエス》を小説の世界とその人間にあてはめるわけにはいかない そして他方では ガストン君にせよ蜩亭老人にせよ体を売ったりする女子にせよ その人たちへの人間凝視をとおして 時にはただちに 復活したキリストの像を観想するということも人間にはありうるのではないかということ 微妙な言い方ですが わたしにはそう思われます。

  • 真心は それをけなす必要はないわけですが あってもなくても どちらでもよい。逆に言えば 《永遠の同伴者イエス》の像を想像するのには 必要なのかも知れませんが カトリック作家の問題の問題にとっては どうでもよい。小説の中の登場人物の誰をとおしてにせよ ふと そこから キリストを観想するという場合はあるのではないか こういった今は雲をつかむような議論をわたくしは始めました。
  • 《わたしは 真心の持ち主ゆえ 雲をつかむようことながら いまの永遠の同伴者イエスなる観想体験を得ました》という人は いないでしょう。むしろ 仮りにこの体験が現実のことだとすると そのとき結果として 真心の状態になっていたと知ったということでしょう。けれども これが仮りの想定であることを別にしても いまの真心も けっきょくのところ 時間的にして可変的なことがらだと言わざるを得ません。

(つづく→2005-11-05 - caguirofie051105)