caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§15b

ホンネから分離されたタテマエ つまり足場

胸や肉から分離された骨格つまり骸骨 というよりも それですらなく 人体ぜんたいの模型 これが そらぞらしい主観のことだと考えられます。
しかも このとき 足場――つまり模型――は 奇妙にも ホンネだけでもタテマエだけでもなく それらの全体を 暗示しうる。
主観と主観とのコミュニケーションには それとして 一定の場が出来ています。関係でもあります。そして あいさつを交わしてこれを始めるように この関係の場には たしかに このあいさつに当たるような足場も見られるのかも知れない。そういう取っ掛かりも あるでしょう。天気がどうのこうのと交わしあうのは それかも知れない。しかも コミュニケーションのそのような導入と そして コミュニケーション本体とが 別であることは どうということもないわけで 問題は 導入部と 本体の外に提示される模型とが べつであることになる。取っ掛かりとしての足場と 模型としての足場とは 別であります。
全体模型としての足場が ここでの問題になります。
たとえば――同じく天候の比喩からいけば―― 雨が降っていますと言うのは すでに導入でないのならば 自分の心・あるいは相手の心が 悲しんでいるというホンネを 伝えたい・あるいは尋ねてみたいことである。
そういうことが しばしばあります。これは しかしながら 主観のあいまいな表現であって せめてそのようでありはするのだけれど じっさいのところ タテマエではなく 足場であります。しかもすでに 取っ掛かり(導入)ではないと ことわったのですから タテマエではなくなっている。関係の場から離れている。
いや 遠まわしに 伝えたい・尋ねてみたいというのが ホンネにほかならないと人は 反論するかも知れません。するでしょう。そして そのことは 間違いではないでしょう。

  • つまり ホンネは つねにあるものです。

しかも 婉曲であることこそ あいまいな主観の むしろ 有効なタテマエなのではないか――あるいはさらに 一種の美学ではないか――と つづけて反論してくるならば そうではないとわたしたちは 答える。この問題は タテマエとホンネの問題ではなく 修辞学のそれにすぎません。つまり その場合は――その修辞学の問題じたいは―― いま・ここに展開される関係の場と 直接のかかわりがない。つまり この関係および具体的に始められようとする交通にとって そういう足場であるかも知れないけれど まだ タテマエには ついぞ なっていない。二人のあいだでしか分からない隠語ですべてを語ることが その二人のタテマエであったとしたら 話は別かも知れませんが。
言いかえると このように わざわざ 言ってみれば わけの分からない表現で 心が悲しんでいるとのホンネを伝えなければならなかったとしたなら それは もともと はじめから コミュニケーションが成り立っていなかったことだ。つまり ホンネはあったが タテマエは どこにもなかった。ただ 取っ掛かりの足場だけが 延々と その時まで つづいていたものであるか それとも その足場すら 築けていなかったかであります。

  • ここで 築けている しかも それは 足場ではなくタテマエとして築けている と強弁する人は 欺くため・支配のため・また脅迫として 自己の主観を――《あいまいの美学》のもとに――述べているのです。つまり 気がおかしくなってしまった。

つまり 関係の場が持たれておらず 交通(まじわり)も従って 互いの主観から離れたところで――それが 起こりうるのです!?―― えんえんと 模型のことばで その会話がつづけられていた。

  • わけの分からない表現と言ったのは それが ある程度 慣習として共通の理解を得られるようになっていたとしても 慣習にうったえて表現するのですとことわっていないならば 慣習どおりに理解してあげるかどうかは まだ はっきりしないということだ。なにをそんな七面倒なことをと ここで反論する人があれば その同じことばをわたしたちは その反論者に返す。関係の場が持たれ 交通が 有効に 始まっていたのならば ふたたびわざわざ足場をかけるように 遠まわしで七面倒な表現を 用いることはないのだと。
  • 美学の心得と謙虚のこころとで その婉曲な表現を使ったのではあるまい。まだタテマエがないから 足場をかけて遠回りしなければならないのだ。

これは じっさい ゆうれいの足場です。しかし ゆうれいには 足はありません。
いまの《雨が降っている》というたとえで続けるなら そのホンネは――つまり ホンネは つねに あるはずであって これは―― つきつめて言うと 別れたくない・または別れたいということであるでしょう。しかもこの場合 ことの本意は 別れが起こるための初めの関係の場 そしてその出会いすら まだ 起こっていなかったのです。ゆうれいどうしが つきあっていたにほかならない。

  • だから いつまでたっても 遠まわしの表現が出てこざるを得ない。

もともと 初めから 二人とも そらぞらしい主観で 話し合っていた。つまり タテマエが 欠けていた。
これが コミュニケーションにおいて起こり コミュニケーションの重大問題は ここであると考えます。
じっさい 性急を承知で いまの例について 結論を提出するならば――ふたりの男女の出会いが この一例ですから―― そのタテマエは 結婚ということなのです。この場合に 取っ掛かりの挨拶としての足場は 経過してきているかも知れないし ことばのあやの問題もひっかかってくるのかも知れない。にもかかわらず ホンネだけがあって タテマエは見られず 模型としてのことばで すべてが 始められていた。遠まわしの表現は ホンネにもまたタテマエにも――したがって 《タテマエとホンネとのひと組み》となったものにも―― あるのであって これが 模型としてのことば=足場としてのことばにも おこなわれうるというのが いまの問題のありかです。挨拶の足場は ホンネとタテマエとのひと組みのばあいにも やはりあって これが 模型となってしまうと どこまでも よそよそしい主観の・しかもただ足場として おこなわれうる。
人びとは――いま一つ別のたとえで言って―― 理想と現実ということを しばしば口にします。現実と理想とは違うのだ すなわち理想ばかりを追いかけていてはならないという意味あいで。ところが 《ホンネとタテマエとのワンセット》から成るタテマエから行くと そんなことは 初めから わかりきっていることだ。理想を現実から切り離して追いかけてはならないだろうし 現実だけを理想と関係なく生きるなどということは それがありうるかどうかを別としても いただけないことは もともと わかっている。
そしてこのとき 現実がホンネのことでもある。タテマエは主義や方針のことを言うのですから これを理想のほうにあてはめるのが ふつうではあるでしょうけれど。
ホンネは だれにも つねに あるはずです。同じように 現実は それとして つねに 存在します。ところが じっさい そういうときには つねに タテマエも 理想も 同時に前者の二つにそれぞれ連動して 存在しています。もしくは タテマエ(骨組み・主義)はホンネの中に 理想は現実(つまり歴史つまり動態的な過程)の中に それぞれすでに はめこまれていると見るのならば ことさらホンネとタテマエあるいは現実と理想などと言わずに ホンネと現実だけで 勝負できます。コミュニケーションを成立させ展開させていけます。で どちらにしても 取っ掛かりとしての足場を別にすれば――つまり導入は ものごとに これまた つねに あるはずでしょうから 別にすれば―― 上にのべたコミュニケーションの場と過程には 模型としての足場は まったく介入していないし 必要ではありません。

  • もしくは あとで見ようとするように 経験科学というものが コミュニケーションにおける一つの要素として しかもそれは 必要また有益である場合がある。迂回路なら これは足場になるかも知れない。しかも 路が迂回をしても つながったものであるなら あるのだから そらぞらしい足場ではない。また タテマエにつながっていく足場は タテマエの確立のとき 消えるのだから 変な《介入》も ほんとうのところ していない。科学が 人体の模型をつくって足場とするとき それは 生きた人体を知るために有益であって しかもその知識が――つまり わたしの・きみの獲得した知識が――タテマエとなっていくが このタテマエとそして模型=足場とは 別である。わたしのこのタテマエは すでにわたしのホンネと組み合わさったものであるが 模型はタテマエの足場であって・足場となったものであって ホンネと組み合わさったこのタテマエに すでに 介入しない。
  • 迂回という手段は 迂回の成果たる知識の活用という一段階ごとに いわば使命を終えている。

タテマエたる知識に 誤解のあることがわかったなら そのときにも ふたたび科学の提供する模型は タテマエ(その形成)に対して足場とはなっても やはり支配的に介入するというものではない。
言いかえると タテマエは足場ではなく 理想は空想ではないということでしょう。
模型も空想も この世には あるではないか。その通りです。ですが 足場は それが有効なものならば 建て前を築くための補助装置であります。したがって現実にある模型も空想も そのようなものとして 有効であり かつ有益であり コミュニケーションを超えるようなかたちで いややはり広く解釈してのコミュニケーションの過程の中で 人間の有(もの)である。理解の補助として人は 模型をつくり いまだ空想にしかすぎないが足がかりとして ともかく空想してみるというばあい。
それではふたたび《雨が降っている》のたとえに戻って これも 有効なタテマエまたはホンネの 足がかりとして 言ったものだと問われるかも知れない。たしかに 模型だが それは 有効な模型であり 有効な足場であるではないかと。その通りです。ただ わたしが言いたかったのは 関係の場をかたちづくるための導入としてで すでに ないのならば――ないと ことわったのだから―― その主観の表現は すべて 無効であるということです。
導入を終えているのに なぜ わざわざ 繰り返さなければならないのか。

  • もちろん天気はどうかと訊かれた場合に 雨だと答えるところの すでに本体の議論である例も やはり 別なのですから。

それは無効のうちに つまりタテマエの欠如のままに 事を運ぼうというためでないなら なぜか。
理解の補助としての模型(取っ掛かり・足掛かり・足場・導入・入門) これは じっさい 経験科学(自然科学を含めよう)の用いる概念またはその概念を用いて整理した理論のことであります。これが ゆうれいとしての足場であってはいけないというのが ここでの問題です。これを コミュニケーションの科学として。
(つづく→2005-10-10 - caguirofie051010)