caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

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第三十二章 取り替えばや物語あれこれ

いざ吾君(あぎ)

ふたたび 忍熊の王の歌について ひと言。

いざ吾君
振熊が 痛手負はずは
鳰鳥の
淡海の湖に 潜きせなわ
(記歌謡39)

《吾君(あぎ)》という呼びかけは 皇子オシクマがいくさのきみイサヒの宿禰に親しんで言っていると捉えた。だが 呼びかける者が逆であったなら どうか。仕える者イサヒが《我が君》と言っているとしたなら。
痛手を負う者が忍熊で 痛手を与える者は振熊である。
この紛らわしさを解決するために 日本書紀のほうは 表現に工夫をこらした。ただし 忍熊の王が呼びかける形を定着させた。

いざ吾君〔すなわち〕 イサチの宿禰〔よ〕
たまきはる内の宿禰が〔与える〕頭椎(くぶつち)の痛手〔ヲ〕負はずは
鳰鳥の〔如く〕
〔われわれは〕潜きせな
(紀歌謡29)

これで不服はない。《吾君》の用例についてのみ 記しておく。たとえば崇神ミマキイリヒコが軍を遣わして 刺客タケハニヤスを討ち その部下どもも降参したというとき かれらは 頭を地につけて《我君》と言ったという(日本書紀崇神天皇十年九月条)。兵卒なる下からの言葉として使われるという点。

《まろが父》という表現

仁徳オホサザキに酒を献上した吉野の国主の言葉について あらためて。
一般に 何か贈り物をもらったなら もらったほうは こう言うであろう。

Aハ 〔このおこないを為すあなた‐ハ〕
Bガ まろ‐ガ(我において・我にあって) :関係第二主題格/かつ位格
父〔なり〕。

社会身分のうえで 父なる立ち場にあるという意味を表わすときにも この分析に基づく内容は同じであるだろう。

御間城入彦はや 己が命を・・・

古事記にはない《姫遊びすも》が 日本書紀には付け加えられている。非常に平俗になっている。

御間城入彦はや
己が命(を)を 弑(し)せむと 竊(ぬす)まく
知らに 姫遊(ひめなそび)すも


または


御間城入彦はや 己が命を
大き戸より 窺ひて 殺(ころ)さむと すらくを
知らに 姫遊すも
(紀歌謡・18)

このあと その刺客を特定して これを討った。われらがミマキイリヒコ歴史知性にとっても このような殺し合いに遭遇する事件があった。
かの神武カムヤマトイハレビコの根子日子デモクラシの場合 そこに《臭い韮が生えていたなら 根こそぎ絶やしてしまう》という戦いがあった。これは 理念主義の弱さであるとわたしは考えていたのだが 一概には言えないとここで覚え書きしておく。

  • わたしの考え方においては 《毒麦を抜くとき 麦をも一緒に引き抜いてしまいかねない》というのがある。*1

《姫遊びすも》というふうに 黒い手の伸びて来ていることと対照的な振る舞いが付け加えられた点については たいしたことはないであろう。
歌については 音韻数が必ずしも整わない。五七五七というわけにはいかない。これは あるいは 《御真木入日子‐ハ‐ヤ》と第一主題を提示したあと 《己‐ガ》と言い出したところで 句ごとの字数を苦慮しているのかも知れない。

宇陀の高城に鴫罠張る 我が待つや・・・

神武イハレビコ軍は 登美のナガスネビコやエシキ・オトシキとの戦闘のほかに いくつか戦っている。宇陀のウカシ兄弟との戦いの事情は こうであった。
《粟生には 香韮ひともと》 つまり カシハラ・デモクラシの中にいた苦い韮のように 兄ウカシ・弟ウカシというまつろわぬ人びとがいたという同じ出だしから始まっている。ウタの構造において いくぶん異なっている。
まずヤタガラス(八咫烏)という名の使いを遣って こう問わしめた。

――いま 天つ神の御子 幸(い)でましつ。汝(なれ)ども 仕へ奉らむや。
古事記 神武天皇の段)

兄(え)ウカシは このやってきた使いを鳴鏑(なりかぶら)の矢で射返した。本隊を待ち撃とうとして 兵力を集めようとした。が 集めきらなかった。そこで一計を案じて 大殿を造り その中に押機(おし:それを踏むと圧殺される仕掛け)を拵え 仕える振りをして 敵をここに招き 迎え撃とうとする。ところが 弟のほうが敵につうじて これらをすべてを神武イハレビコの軍に打ち明けた。そういうことになっている。
迎えた敵の将たちに兄ウカシは自分が 攻めやられて 押機に陥って敗れるという物語(まずその前半)である。さらにイハレビコ軍は そこから兄ウカシを引き出して かれの身体を切り刻んだと書いてある。
この一件落着のあと 弟(おと)ウカシがご馳走をたてまつったので これを 神武イハレビコ軍は いくさびと達に分けて与えた。その時歌ったという。

宇陀の 高城(たかき)に 鴫(しぎ)罠張る
我が待つや
鴫は障(さや)らず いすくはし くぢら障る
前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば 
立ちそばの 身の無(な)けくを こきしひゑね
後妻(うはなり)が 肴乞はさば
いちさかき 身の多けくを こきだひゑね
えーえー しやごしや 此は いのごふぞ
あーあー しやごしや こは 嘲笑(あざわら)ふぞ
(記歌謡・10)

《高地に鴫の罠を張って 待っていると 鴫ではなく くぢらがかかった。前に娶った妻がおかずを所望したら そばの木のように 身のない部分をたくさん削ぎとってやって欲しい。後妻が所望したら ひさかき(野茶)のように身の多いところをたくさん削ぎとってやって欲しい。(囃し言葉がつづく)。》
くぢらは 鯨とも 鷹(くち)らとも解されている。鴫との対照では でかいものという内容である。だから 《鴫ではなく くぢらがかかった》というのが趣旨だと思われる。神武イハレビコの側から歌ったとすれば 敵の大将兄ウカシ本人を捕らえたと言っている。後半の部分は 宴会の場での話しであろう。
けれども 《宇陀の高城(高殿)に鴫の罠を張った》のは――もし これを《大殿を造り その殿の内に押機を仕掛けた》ことに対応すると見たときには―― 兄ウカシのほうではなかったか。そして さらに もしここから一つの推理としての解釈を付け加えるとするならば 弟ウカシが――生き延びた弟ウカシが―― すでに葬られた兄ウカシに代わってのように 《シギを待ったけれども 鞘(莢)にかかったのは 鴫なんかではなく くぢらであったわい》と詠ったのである。のではないだろうか。はじめは である。
以下 推理の線で話を進めたい。どうしても不都合な事態に立ち至れば その解釈を撤回しなければならない。また この仮説は 歴史事実の確定のためでは必ずしもなく 物語に関するかぎり 表現をめぐって 妥当な理解を得たいというためのものである。
もし 初めには 弟ウカシの側がうたったとするならば のちにウタの主体を交換して 取り替えばやが成立したと考えられる。
このあと――いくさの後――まず弟ウカシは その自分たちだけの食事の席で 一方で もとからの妻には 蕎麦の木のように身の無いところを たくさん(こきし)削って(ひゑ)やれ(ね) 他方で新しい――たとえば イハレビコ側からもらい受けた――妻には いちさか木のように身の多いところを たくさん(こきだ)取ってやれとうたったと考えられる。ちなみに いづれにも たくさんやれと言っている。
このウタが ところを替えてイハレビコ軍の勝利のウタとして採用された。《えーえー しや吾子(あご)しや あーあー しや吾子しや》と囃しがつけ加えられている。あるいは 初めの弟ウカシの宴席でも つけられていたものを 同じく採用した。一つの解釈として 《いのごふ》が いのちごいのことだとすれば 最初の《えーえー》のほうで 弟ウカシが その命乞いをしたことを表わし 次の《あーあー》で これを迎えつつ嘲笑うというふうに捉える。
または 《いのごふ(剋期ふ)》とは 《じりじりと近寄る。攻め近づく》意ということであれば これも 初めの弟ウカシの宴席でのウタにそのまま あったのかも知れない。すなわち 次のようである。
このように ひそかに弟ウカシが歌っていることが イハレビコ軍に漏れた。これを知ったイハレビコは 弟ウカシを詰問した。詰問されると おそらく 命乞いをしたのであろう。したがって イハレビコ軍からは 《えーえー》で 弟ウカシのそのような意味での《いのごふ》が言われている。しかし 弟ウカシが歌った元のウタでは 兄ウカシを犠牲にしてでも イハレビコ軍に弟ウカシがひそかに通じて その策略を知らせるという初めの行動計画に従って 《じりじりと近寄っ》ていったと詠ったと考えうる。弟ウカシは 命乞いをしてでも もともとの《いのごひ》の計画を貫いたことになる。つまり 弟ウカシの密通は 生き延びるための初めからの計画として行なわれたというのではなかったか。
ここでは ことばの表現じたいは 変わらずにあっても ウタの主体や それを述べる(編集する)側が どちらであるかによって 中味が二重性を帯びている。可能性の一つとして その問題を追及しつづけるならば たとえば 実際の事件として ウカシ兄弟の戦略として 二重・三重に話が作られている。(これは あまり問題ではないようである。)けれども これを記事にして書く視点と 事件とが 二重構造化している。この二重構造はまた 当事者たるイハレビコ軍の書記(むろんいなかったのであり のちのストーリ・テラー)の視点と これをいま古事記として書いている者の視点とに 重層化するようである。
しかも 実際にはそのいづれの場合にも 基本的には――行動それぞれの意志そのものとして―― 一重であるとも言わなければならない。なおかつ この記事のままが・この記事のままで よいのだとする観点も存在するであろう。それにもかかわらず 表現は成功しているのか 少なくとも表面上は 一重の基本線に立っているように見える。もし イリ表現という動態の原則が転変したとするなら そのように主体を取り替えていても 言葉じたいとしては その転変があたかも完成してのように 何事もなかった形を見せている。《いざ吾君》(39番)でのように ウタの主体の点で オシクマとフルクマなど紛らわしい言葉が見られるといった問題ではなくなり 跡形もなく 取替えばやの物語が完成していると。

見事な取り替えばやの完成 けれども・・・

史実をいま別にすると このウタに たしかにあのワケ・タラシ日子のそれの発生――もしくは タラシ日子によるそれの利用――を見ることができよう。それは ひと言で言って 人格(主体)の交換である。
御真木入日子が付け狙われているとうたったウタでは まだ《い行き違ひ》という紛れ方であった。刺客のタケハニヤスも その限りで 人格を交換したわけではない。《後(しり)つ戸よ〔り〕 い行きたがひ 前つ戸よ〔り〕 い行きたがひ 窺はく》という状況である。行き交う人びとに紛れると言っても すれ違いのようなことである。違ひ=たがひ=手換ひと見たくなるほどの ウタの錯綜もしくは取り替えの状態だと考えたい。たしかに暴力がからんでいたけれども このタガヒでは それぞれの存在・イリ日子動態は――その場は―― その点では 保たれている。
ところが もしわれわれの推理にかんする限りにおいては 兄ウカシ・弟ウカシの事件のウタでは その主体性が そっくりそのまま交換されていることになる。この推理が 容易に葬り去られるならば 幸いだと思う。
《いすくはし》が 《勇(いさ→いす)くは(細)し――勇ましく優れた――》または《磯細し――〈くはし〉には 〈美しい〉の意がある。後の〈詳しい〉の語だが――》の意であると説かれるが このときにも もちろん《くぢら》は 《鯨》のことであり 最初に弟ウカシが 鳥のシギだと思っていたのが ほかの鳥でさえなく鯨だったとうたうのは ありうることである。根子日子の理念にもとづく罪の共同自治なるカシハラ・デモクラシを掲げる日子たちであり 唯一これに匹敵するのは やはり外からやってきたあのニギハヤヒの系譜のみであったわいと。
《い巣くはし》として やはり同類の鳥である《鷹(くち)ら》のことだと 別様に 説かれるときには――つまり両説がある―― のちに主客転倒してうたわれたウタの含意を語っているのであろう。つまり カムヤマトイハレビコ軍が 兄ウカシを《鷹》であったと解して語りあったのであろう。
ご馳走をいくさびと達に分け与えたとあるのだから 男でなく女性の《こなみ(前妻)・うはなり(後妻)》の語でイハレビコ軍が 表現し歌うのは その場合 不合理である。もちろん弟ウカシの側からもらい受けたということはあるから ことば自体は よいかもしれない。《うはなり(後妻)》はその席にいたとしても 《こなみ》をこの戦場に連れてきてはいないであろう。だから 仮りに《したを(前夫) / うはを(後夫)》もしくは 《譜代 / 外様》に相当するような語で――それらの後者を かれらのもとに馳せ参じた弟ウカシのこととして―― それぞれ言い分けるべきであろう。

  • もっともこの点では 古代には女軍もいたと考えられている。

ガ格の潜在的な役割が顕在化してくるのは このような主体性の錯綜する状況が進展していく過程とかかわるものかどうか。
あるいは 補充用言(助動詞)の発達――そして むろん用言(動詞)の法活用の組織化を並行させつつ――によって ウタの構造が イリ表現の原則を基軸として 展開されていったものなのかどうか。

  • ちなみに 唯物論者は 表現行為のこのような主客転倒を 《物象化》と説くかもしれない。

イリ日子歴史知性の表現原則は 想定として すでに初めに このような物象化ないし主客の人格交換から自由である。克服しようとするのではなく すでに初めに それらから自由な地点に立ったと 精神の胃袋で消化してうけとらねばならない。経験現実の世界にあっては われわれは このタラシ日子の二重構造となったウタの錯綜のもとに生きる。ここにおいて ゆづる精神は イリ日子原点を動態として 生きうるとうわさしあった。
(つづく)

*1:毒麦:『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』マタイ福音書 下巻13−29−30