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哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第九章 《オキナガ(息長)》というアマガケル《永遠の現在》主義なる歴史知性

――第二の死の方向を転換する――
《永遠の今》を表象して生きることが なにゆえ 死となるか。
永遠の今という時間動態を知ったということ これは 歴史知性(つまり人)の経験過程・その内容を指し示している。《永遠の》という時間(無時間)の概念を言うなら それは すでに人として復活したことを表わしている。《今》がその時だと言うなら すでにかれは いわば世界原理たるヒトコトヌシのカミと和解している。つまり 自己と和解している。
しかるに 《永遠の現在》が 日子の能力によって 日子の能力(日子性の世界・要するに精神)において・さらにつまり想像の国において 表象され これが言わば耕され 《むさぼるな・盗むな》の日子の規範概念として保持され これによって生きるなら それは 話が変わってくる。それは ヒトコトヌシのカミとの和解を時間過程に表わしているのではなく・また時間過程をとおして観想(理論)しているのではなく この時間過程をその善悪の木によって論断して生きていることになる。
善悪の木の規範は 生命の木のチカラとハタラキによって成り立っているのである。ふたつの木の位置関係をたがえるなら それは 歴史知性の死である。この歴史知性じたいが 生命の木によって与えられたと知ったのではなかったか。なぜふたたび 比古なる昔の日子 泥古なる昔の根子に戻っていくのか。

永遠の現在教は じつは 何でもござれである。

《永遠の現在》主義の歴史知性は 善悪の木つまり日子の能力を頼むのであるから 生活において 規律がきびしい。《むさぼるな》なる規範を 貴んでいる。あたかもこの智恵の木なる旗を 生命の木よりも高く 掲げている。《和を乱すな》とおしえる。こうして人間的となり ますます人間的となったところで 虚しくされるということは すでに述べた*1。人間のチカラに拠って 人間的となったとき 誰もその人間の規範を完全に守っている人はいないと知るからである。いちばん自分がよく知っている。
それでも あるいは その中間的な存在でありつつも善かれという方向へ努めていることのゆえであろうか この遵法精神には 権威が付与される。秀でたスメラミコトであり 優れたスーパー歴史知性として認められる。徳が打ち立てられ 人間の栄光が讃えられる。
これもひとつの共同自治の方式であるのかも知れない。
わたしが――いま抽象的な世界原理のことは離れて――具体的に この方式では立ち行かないであろうと思うことは この日子の光りによる徳化のもとなる共同自治では けっきょくただ均衡が求められ 均衡によって支えられているにすぎないと考えるからである。
むさぼるなと言うからには 世の中には むさぼりが横行している。その一方 徳の栄光に感化された人びとは 適度に このむさぼりに対して禁欲する生活を確立する。だが 所詮このむさぼりと禁欲との釣り合いでしかないように考えられる。ほかに 支えはないのである。人間の努力が最後に残るのみとなる。

  • 経験的に残るのは 人間の努力しかないと誰もが認めなければならないとしても 一方で世界は人間の能力と努力のみと唱えることと 他方でこれを超えたものに対する畏れを表明していることとの間には 違いがあると思われる。

この精神の旗を押し立てた日子たちの共和国(《大和》)のなかでは そのあたかも均一社会のなかでは スーパー歴史知性という幻想は チカラとしてはたらいたかも知れない。それもこれも アマテラス歴史知性は オホタタネコ歴史知性が転変させられたすがたなのであるから このミマキイリヒコ視点という核は なにがしか残っているそのゆえだとも考えられる。そうしておそらく 釣り合いが取れなくなったときにも つまり裏の隠れたところで むさぼりが いよいよひどくなってきたときにも 一方で なすすべがないという状態に陥るのではないかと思われる反面で 他方では 化石としてでもミマキイリヒコ歴史知性が残っているとしたなら 社会は存続してゆくであろう。その結果は しかしながら 死ではないのか。生き地獄というよりは 死そのものであるのではないか。慣性の法則でのみ生きているのだから。
スサノヲノミコトつまり《須く佐くべし(汝の隣人を みづからと同じように愛せ)》が 化石として残っている。情けはひとのためならずだとか 思いやりとかと言われる。あるいは かのスサノヲの子孫のオホクニヌシの行なった国譲りというおこないが かろうじて生きている。
善悪の木の旗・その幟がどちらが高いかで 日子の能力の評価が決まる。むさぼるなの光りをどちらが輝きを増して体現したかで この世の勝利が決まる。まさにアマガケリ競争である。禁欲競争に タテマエの上で勝つならば その反面でのむさぼりも 上手におこなって あたかも暗黙の内に許されるという寸法である。これも 均衡の問題なのである。このとき 《自分と同じように》と言っても 実際には どちらかが 一歩 もしくは 半歩ゆづることになる。一本の丸木橋を 両方から二人が同時に渡ることはできないから。この意味でのクニユヅリ ここに オホタタネコ歴史知性は生きている。実際には あたかも《食うか食われるか》のアマガケル日子たちのアマアガリ競争が 繰り広げられている。これも 共同自治の一方式だと考えられた。
このことは 次のように推し測られる。どちらが より多く 自分のからだを 空気のようなものに為しうるか これが 精神のアマガケリ競争ではないかと。もっぱらの日子(精神)というのであるから。それは 根子(身体)が 空気のようになることである。観念の古墳 いや 新墳として そのような日子の輝きを 樹立する競争にもなる。要するに 肩書きという幟である。そのようなアメ日子・アメ日女の輩出となる。
このとき ひとりの人の個体においても 社会的にも 根子と日子とは 明らかなかたちで分離してゆくと考えられる。からだと精神とが 市民ともっぱらの日子なる指導者とが だから 根子圏と日子圏とが 分かれ 次第に 階層をなして 社会が二階建てとなってゆく。このなかで・この枠組みのなかでも 合理主義なる歴史知性は――言いかえると 合理主義という意味では 空気のような身体としてのアマガケル日子に異を唱えつつ―― 一般に スサノヲ・キャピタリストとして 経済活動の自由競争を 自由の許される限りで 展開している。
くだらないことを言うというように聞こえるかも知れないが じつにこれらの事態は いまの《永遠の現在》主義なる知性が だから人びとによるその幻想の共和国の精神的共有が 人びとのオキテであるところから来るものと考えられる。暗黙のうちにオキテなのである(黙契)。一たんオホタタネコ原点で復活したあとでは このような善悪の木の旗印のほうが居心地がよいと感じるのであろうか。この観念の古墳体制の外へは 人は出かけられないというふうに感じるようになる。枠組みが固まり 網の目が広がる。本意であると言う人もいるだろうし いや不本意だと言う人も なかには いることであろう。
この罪の共同自治には もっぱらの日子らの自由競争 という運動が 公理であり公共的な手だてだと人びとは考えている。もしくは そう感じるように馴らされている。さもなければ 人びとは その社会の中でひとりの人物を特別に選出して かれには 必要最小限の・または十分ゆたかな生活を保障しつつ かれにこのオキテをつねに説教させるという役目を負わせて 共同自治するということになるだろう。じっさい経験的にそうなっている。
もし居心地がよければ その《今の永遠》を含めた意味での 《永遠の現在》理論なのであろう。クニユヅリの知性は その伝統は この慣性による社会のなかに 寄留している。すでに初めに(人間の誕生の時点で) どうしようもなく 和解している。この永遠の現在教に合わせるかたちで ねじを巻くには ひとしごとである。よくも悪くも オホタタネコ原点の和解の精神は これも もっぱらの日子たる聖徳太子によって 《和を以って貴しと為す》というふうにアマガケリさせられた。もっぱらの日子と化した。
これは ミマキイリヒコらのクニユヅリが感化した結果でもあるが このアマガケリした善悪の木の旗印を 生命の木に代えて打ち立てることは われわれの死を意味するとわたしは考える。《和を乱すな》と言われなかったら わたしは和を乱すことを知らなかったという感慨ももはや出て来なくなったほど 永遠の現在共和国が 強固に磐石に根づいてしまった。これからのちの現代世界では このアマテラス宗教の説明が求められているように思われる。国民性や国境紛争の問題ではなく 歴史知性の問題である。
永遠の今なる智恵の木を 日子の能力において 精神主義的にだが ちょうど至高の生命の木のごとく だから違いは 個人個人の信仰としてではなく 観念共同的なオキテとして 押し立てていると その具体的ないくつかのオキテ(実際には法律条文のことよりも慣習のことである)によって 人びとの生活は その顔覆いを介してのごとく 生命の木と――だから自分と――和解しているという事態が目の前に現われてきているのであろう。ヴェールを介しての如くである。
昔は このようなオキテは スメラミコトとして選ばれた第一日子によるミコトノリ(詔勅)であって これに皆が―― 一人残らず皆がである――従っていれば 共同自治は安泰であるというマツリゴト宗教であった。これが 侵すべからざる永遠の現在である。そういう哲学である。有徳のスーパー歴史知性なる地球大の傘のもとに入れば 人は 立派な人間であるという。
わたしには 幻想に思えるが それでも この情況における人びとの相互承認は 絶大なチカラを発揮して 社会の安寧をもたらしていたように思われる。万邦無比の それとして栄光である共同自治であろう。
そして これらのことは むしろ――精神の作業の問題であるから―― 一瞬のうちに生じるのである。

永遠の現在としてのアマガケリは 瞬時にして出来上がる。

アマガケル永遠の現在としての精神構造の形成 これが一瞬のうちに起こるというのは 次のごとくである。
自己そのものたるイリ日子歴史知性を まずもっぱらの日子は脱ぐ。まず脱いで これをふたたび仮面としてかぶる。仮面(ペルソナ)が 人格(歴史知性・ペルソナ)であることにも ある意味で間違いないが 仮面と知りつつ これを侵すべからざる至高の生命の木であるとして押し立てることには無理がある。いくら優秀なスーパー歴史知性でも オホモノヌシの神のハタラキを分有するカミの子としての人間であるにすぎない。それを 生命の木としてのアマテラスオホミカミであると唱えるなら そして これを指摘することが 禁忌であったとするなら なおさら幻想と錯視とが混じっている。
オホタタネコ原点から 人間の人間による人間のためのアマガケリ(またアマアガリ)を敢行する理論へ転化した。さもなければ 第一日子をアマテラスオホミカミであるとしなければよかった。この別種の歴史知性への精神的移行 これは 瞬時のうちに生起したのである。
仮りに実際には紆余曲折があったとしても 理論の問題としては 瞬時に起きた出来事である。それは クニユヅリというコトにすべて表わされている。そのアマガケル人の存在はこれを愛するが そのアマガケル知性のあり方 これには ついていけないと捉えたことを示している。これは 瞬時に起こったのである。もしそうとすれば 復活から第二の死へ 人は 瞬時におもむく。
クニユヅリした者たちは その弱さを誇った。つまり オホタタネコ原点にとどまった。ミマキイリヒコ歴史知性の同一にとどまった。のちに見るごとく 三輪市政の指導者の一人の飯豊の青の命*2に その心象がある。
ちなみに このミマキイリヒコ社会の出現の以前では 言いかえると 人間の誕生としての復活の以前では このような永遠の現在へのアマガケリがあったとしても せいぜい卑弥呼の台頭で行き止まりである。じっさい そうなのであった。国家の問題は 人間の誕生ないし復活のあとのことだと考えられる。《ヨリ(憑)》の歴史知性(原始心性)では まだ 共同体の統合という話にはならないのかも知れない。

一般論としての国譲りする精神

スーパー歴史知性の第一日子を先頭に立てる場合でなくとも 日子の単独分立すなわち もっぱらの日子の出現は 容易に発生するであろう。かれらは 《心を一つにして》善悪の木を押し立てて 人間の《日子》化――《王化》の徳――を説いていくであろう。いまは 武力抗争を措いて考えている。日子のアマガケリ ないし全体として言って歴史知性のアマガケリは見られる つまり第一日子をはじめに立てていなくともである。そして いづれの場合にも これに対して オホタタネコ(根子‐日子の連関主体)は まず 弱いのである。

  • 言いかえると 真正の(ふつうの)イリ日子知性は 能力によって 幻想の倒錯の日子によるアマガケリは 出来ない。
  • 善悪の木と生命の木との錯視なる致命的行為 これができないというのは オホタタネコなる人間の能力である。

卑近な言い方をすれば アマガケル歴史知性は オキテを先に説くことによって もしくは その声の大きいというただそれだけのことによって 善悪の木への近しさの基準をも押し出す。この基準の観念共同化――だから 永遠の現在化――は 人びとの・社会の秩序の至高の哲学であると説いて回る。もとより 人間の(オホタタ根子の)《日子》性が 悪いものであったり 人びとに承知されないものであったりすることはなかった。
三輪のミマキイリヒコ政権(市政)は 河内の勢力によって こうして 征服されたのである。譲歩(クニユヅリ)したのである。
通俗的には かれらの間の あたかも古墳の大きさが その世俗的勢力の差が 善悪の木の近しさを示したかのようなのである。善悪の木は 生命の木と見なされた。

  • 生命の木は 目に見えないゆえ つねにこの危険にさらされている。

つまり 河内のワケ政権は 当然のごとく 後発の政治勢力であったが むしろ日子のアマガケリの実現のために 日子の能力の自由競争を 三輪のイリヒコ政権や各地の共同体に挑んで 《国民総生産》で追い抜くとともに 歴史知性のアマガケリによる統一的な共同自治の一形態(国家)を 自分のものにしてゆこうとしたのである。
単純に言って アマガケル歴史知性によるふつうの歴史知性(オホタタネコ原点)の征服とは 日子の能力(善悪の木)の自由競争を言いつつ 日子の能力のむしろ交換によってでもあった。わかりよいように言うと 相手の日子性の開発度合いを先取りして あたかもその知性のあり方を互いに交換するという手法も用いられたであろう。経済成長の問題よりも 考察の対象としては 互いの人格の交換が 話題になると思われる。
ゆえに この場合は 一方による他方への譲歩が 必然的に生じる。また アマガケル精神 空気のような身体をもった精神――《まあまあまあ いいじゃないか。なあ いいだろう。おれとお前の仲なる永遠の現在につきたまえ。・・・》――のゆえに 相手にヨリ憑いて 相手の日子の能力を先取りし もしくは善悪の木をさも自分のもののように押し立て これを相手への顔覆いとして(時に目潰しとして・眠り薬として) これによって相手の日子の能力をやはり先取りし 観念的に自分のものと交換させる。これに対して 相手は まず どうしても その必要はないのに このアマガケル精神に対して かれに代わって 顔を赤らめなければならない。すなわち わざと顔を赤らめるなどということはほとんど不可能であるから そこに《身体(ネコ)‐精神(ヒコ)》の連関において オホモノヌシ=ヒトコトヌシのチカラが はたらくのである。
人は このことを分かっても 善悪の木=日子の能力によってのみでは ヒトコトヌシとの和解に還りえない。相手との和の動態に戻りえない。自分との和解も 無理である。かくて 鉄面皮が アマガケリ=幻想錯視による日子の膨張へ 舞い上がってゆく。かれらは 支配者となる。このように――ここで―― 和解の道が かれらにも 開けられるのである。言いかえると この段階にならなければ 和解に応じようとはしないであろう。決死のアマガケリ競争である。弱さを誇るミマキイリヒコは 目に見えざる資本(愛)の推進力がそこ(譲る弱さ)にはたらいているのを見たであろうと 古事記は言ったのである。
つまりこの過程は 後進国が 先進国の技術などを学ぶ場合とは 別である。また 河内ワケ政権は 新しい渡来人であったとしたなら 三輪や各地の共同体よりも 技術・知識において進んでいたであろう。譲歩せざるを得ないのは 難しいことではなかったのかも知れない。ただし 自分たちの日子の能力の旗が 一段と高く翻るようにと また その旗印のもとに それぞれの市政が この列島において統合されるようにと画策することは 別のことである。譲歩せざるを得ないように あたかも人格の交換を含んだ歴史知性の交流を推し進め 競争の場に引き入れ あとは それこそ世論の方向が決めるように持ち込んだ。世論とて 間違いうる。
オキテがどうの 智恵の木の旗印がこうの どちらの旗が高く気高く翻るかだの それが永遠の現在だだの そんなことで 競争も譲歩もあったものかと見る向きには オキテを守るコトとして 礼=ゐやを つまり礼儀にかなうコトとしてのオキテを思うべきである。なぜなら かれらは 身命を賭して この善悪の木のオキテを遵守する。これによって 自由競争をおこない これに勝利すれば あとは 支配権をにぎると踏んでいる。遵守していない場合 あるいは隠れ蓑を用いて奥の手を使う場合も あろうが それは措く。
かれらは 観念たる《永遠の現在》を 心を一つにして 社是・社訓としている。信仰が厚い 礼儀正しい これが 勝敗を決める基準だと信じている。そのように 人びとに思われればよい またそれが 罪の共同自治のために一番よいと納得いかせればよい。
誰にも増して 人間的となった。その身体を空気のようなもの(もっぱらの日子)としてまで 徳を積んだ。仮面たる人格を脱ぎ捨て 仮面の仮面を着たからであろう。かれらは 自己の人格を脱いで この幻想の《永遠の現在》を着る。これが 隠れ蓑となる。
卑弥呼の《鬼道》をおもえ。しかも それをミマキイリヒコ歴史知性が一たん補強したかたちである。
かれらは むしろ人格を(オホタタネコ歴史知性を)脱ぐ。かれらは 《強い》。日子の能力の問題のかぎりでだが かれらは 目的のためには手段を選ばない。全世界を望む これが 目的である。
河内ワケ政権によるもっぱらのアマガケル歴史知性の全国制覇は その第一歩は このようなやり方によってである。

オキナガ氏の登場 そして 人格(歴史知性)の交換

ちなみに オキナガ(息長)=長寿ということが 《永遠》であり 《永遠の現在》のことである。
河内ワケ政権の創始者である応神ホムダワケノミコト(――イリ日子のワケ(分・別)か?――)は はじめから直接に 三輪イリヒコ市政を征服しようとしたわけではない。はじめから接触していったとは思われない。思弁的な推測によるとしても むしろ 自分たちの《善悪の木》の旗じるしをより鮮明なものにしようと その日子の圏域をじゅうぶんな範囲にまで広げようと考えたはずである。アマガケル自由競争の相手(もしくは 端的に乗っ取りの相手)としては おそらくミマキイリヒコ歴史知性の伝統ある三輪イリヒコ政権だとその目標を定めていたであろう。それゆえにも 自分の周りを固め 相手の周囲から手を伸ばしていこうと決めたことであろう。古事記の述べるところからしても そうだったと考えなければならない。
アマガケル日子らの当時の河内ワケ政権は まず 近江のオキナガ氏の抱きこみに成功したにちがいない。もしくは その逆であったかとも推し測られる。オキナガ氏が 河内に入っていったのかも知れない。オキナガ氏は 三輪の人びとと同じように その意味で古くから日本に住んでいた人びとであったと考えられる。河内政権の人びとも 同じくであったかも知れないし 外からやって来た騎馬民族(トゥングース族・扶余人)であったかも知れない。後者の場合には ミマキイリヒコが三輪の共同体を新しく築いたちょうどその頃(西暦三百年頃) まず対馬海峡を渡って九州に上陸し この筑紫でおよそ百年を経て勢力をたくわえ ホムダワケの頃 かれのもとに河内にやって来たのだと想像される。そういう一説が 争われている。
オキナガ(息長)氏は 河内に住んでいたかも知れないし もともと近江の人びとであったとも考えられる。

  • オキナガ氏は ヤマトの葛城――ミマキイリヒコイニヱノミコトの直前の指導的立ち場にあったと捉えられる《ネコヒコ》理念の共同体――あるいは 生駒などから 近江に移ったかとも推測される。

河内には シナガ(科長・磯長)の地があり 《シ》は 風・息の意で 《オキ(起きる・生きるなど。オキとイキとは 母音交替のかたちである)》と同じであり のちの聖徳太子推古天皇の陵は この河内のシナガにある。つまり 五百年頃のヲホドノミコト(継体天皇)は 越(コシ)の出身で オキナガ氏からも妃を迎えており 聖徳太子推古天皇らは 継体ヲホドからの世襲の人びとである。
継体ヲホド政権が 河内ワケ政権と血のつながりがないとする場合 その場合も 河内政権が三輪政権のイリヒコ知性を先取りしみづからの知性と交換したものを さらに 交換し包括したもののように捉えられる。
まず河内政権は オキナガ氏の地域政権としての日子知性をかすめ取ったのである。つまり 善悪の木のオキテ(《永遠の現在》主義の精神的・観念的な共有・共同化)にもとづいて その限りで合法的に 吸収合併を成立させた。のちの全国制覇の第一歩であった。近江・若狭・越のくにぐにのそれぞれ日子政権の上を アマガケリゆき そこに《永遠の今》なる善悪の木を 樹立していったのである。各地に旗がなびいた。
ちなみに オキナガ(息長)とは 不老長寿つまり永遠の現在という意味である。これらの国ぐにの日子のミコトたちは 同意せざるを得なかった。つまり これは 歴史知性の弱さであり 罪ではない。もしくは 外から来る罪であって 《むさぼり あるいは 交換ならその概念としては 姦淫(つるむ)》とは見なされないで 容易に――そのものとしては――ゆるされるであろう。古事記は 伝えている。

故(かれ) タケシウチノスクネノミコト(次の者の大臣)は その太子(ひつぎのみこ=応神ホムダワケノミコト)を率(ゐ)て 禊(みそぎ)せむとして 淡海(あふみ)また若狭の国を経歴(へ)し時 高志(コシ=越)の前(みちのくに)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐(ま)さしめき。
ここに其地(そこ)に坐すイザサワケ(伊奢沙和気)ノオホカミノミコト 夜の夢に見えて云(の)りたまひしく
――吾が名を御子の御名に易(か)へまく欲(ほ)し。
とのりたまひき。

  • 人格の先取り・歴史知性の交換ではないかとうたがった原文である。――引用者註。
  • イザサワケとホムダワケとの取り替えということになる。あるいは元は 応神ホムダワケは イザサワケであったのだろうか。

ここに言祝きて白(まう)ししく
――恐(かしこ)し みことの随(まにま)に易(か)へ奉らむ。
とまをせば またそのカミ 詔(の)りたまひしく
――明日の旦(あした) 浜に幸(い)でますべし。名を易へし幣(まひ・贈り物) 献(たてまつ)らむ。
とのりたまひき。
故 その旦 浜に幸行(い)でましし時 鼻 毀(やぶ)りし入鹿魚(いるか) 既に一浦(ひとうら)に依(よ)れり。ここに御子 カミに白(まう)さしめて云(の)りたまひしく
――我に 御食(みけ)の魚たまへり。
とのりたまひき。故 またその御名を称(たた)へて ミケ(御食)ツオホカミと号(なづ)けき。
今に ケヒ(食‐霊。気比)ノオホカミと謂(い)ふ。またその入鹿魚の鼻の血 くさかりき。故 その浦を号けて血浦と謂ひき。今は 都奴賀(つぬが・敦賀)と謂ふ。
古事記 (岩波文庫) 仲哀天皇の段)

名(人格)をそれぞれ交換しようと申し出たのは ツヌガのイザサワケではなく はじめは河内政権のホムダワケのほうであったかも知れない。ここでは 越前のひとつの日子政権が これに応じたことが記されているのである。まず このように 近江・若狭・越前の地で アマガケル第一日子の善悪の木=永遠の現在の旗が ひるがえることになったのである。これは 合法的だと考えられた。

  • この意味で 基本的には 武力抗争を措いて考えており 歴史知性の誕生から それのアマガケル拡大再回転ないし構造的な増殖の問題として 考察していこうとする。
  • 卑近なことだが 政略結婚ということが 必ずしも決定的な手段ではないことに注意すべきである。国家が出来てからは 逆に 政略結婚が ひとつには ものを言うのかもしれない。
  • 人格の交換(交流?)は なくなったか もしくは むしろ当たり前の現実になったのかも知れない。詳しくは述べないが あたかも握手という挨拶代わりに 日本では 雰囲気(オーラ)の交換がよくおこなわれる。
  • この河内ワケ政権の胎動期という四百年ごろの出来事は 古墳時代の小区分としての第二段階(後期)である。
  • またわたしは 歴史学者でも何でもないからだけではなく およそ一般に むしろ人間の=歴史知性の誕生という観点から 取り上げうることがらを扱って 人間の真実という趣旨で古事記の史観を考えていきたいと思っている。そのぶん 史実の比定という点では もの足りなかったり 時にあやういところがあるかも分からない。どうか趣旨を理解されて 取り扱われたし。歴史的事実によりは 歴史的な人間の真実(その意味で こころ)に注目していきたい。

オホオミ(大臣)のタケシウチノスクネノミコトに関して――つまり かれとオキナガ氏との関係について―― 次章ではとりあげるつもりである。オホタタネコ歴史知性たる自己の冪を 表現じょう つくって 自己の同一にとどまるためである。そのとき 第二の死の方向を転換していることが起こるかと望まれる。 

(つづく)

*1:ますます人間的となったところで 虚しくされる:第六章→2005-06-27 - caguirofie050627

*2:飯豊青:→http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/kojiki3/kojiki22.htm