caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第六章 第二原則:社会が動くということ

――社会が動くということ――
社会科学――あたらしい社会のあたらしい科学――が 模索されなければならないと言ったとき ここではその出発点を考察しているのである。すなわち自己還帰つまり人間の誕生にほかならない。
オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点の第二原則は 次である。

  • ちなみに 記紀崇神天皇の段では オホタタネコとのかかわりでも 非常によいことが書いてある。よい社会的な出来事が書かれている。ただちに この記述の読解に入らないのは そこに 異質の視点も混じっていると考えるからである。
  • われわれの原点を そのものとして――したがって いくらか もしくは随分と 形而上学に片寄るということになる。だがそのものとして――まず確立し しかるのちに記紀の叙述の分析に移ったほうが 安全であるかも知れない。いまは そうしよう。二部構成というのも そういう意味あいがある。
《須(すべから)く佐(たす)くべし》という歴史知性(オホタタネコ原点)

《社会が動くということ》 これが 歴史知性の内容の第二である。
なぜなら 根子は その日子の能力も有限であって 死ぬからである。時間的存在は 可死的な存在である。
たとえば 雄略オホハツセワカタケが葛城の山で ヒトコトヌシの大神に出会って かれを《をろがむ(拝む)》という経験をしたとき ワカタケは この歴史知性に還ったのであるが それは 人間の死を――したがってというように 生を――悟ったことにほかならない。これが――ただし 神秘的な空虚な思弁による解釈は避けよ―― 社会が動くということなのである。
あるいは オホタタネコも このワカタケもオホモノヌシの存在の証明や ヒトコトヌシの現実性の証言に立ち会ったのであるが かれらは いけにえとして死ぬというわけではなかった。とき ヤマトタケルはそうなったと伝えられている。そうして同じく カミの証言を確認させたのであったが ところで 死は つまり存在の無化は 悪である。ところが この悪である死が そのように善用されるというのである。これが 社会が動くということである。
人は 神秘的な空虚な思弁による解釈を避けよ。――《時間の生起》という第一の原則につらなって その時間的存在が 時間を乗り越えると言ってのように 可死的存在が 死(時間=存在の限界)たる悪を善く用いるということ これによって  《社会が動く》。この第二原則は オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点において 確立されたのである。
しかしわれわれは 現実に 《社会が動き 変革される》ことを――少なくとも つねに――見ていないではないかとの反論が 予想される。
けれども われわれは あの錯乱で転倒した幻想のスーパーアマテラス宗教によって このような現実離れした神秘的な議論に陥ってしまってはならない。《自己の同一 自己還帰した自己の同一にとどまること》 これが 要請されているのである。もっぱらの日子による言わば自己陶酔の《善悪の木(道徳)》の世界 これを至上のものとしてはならず これにわれわれが憩うということはありえないことを思うべきである。

  • スーパーアマテラス宗教の特徴:① 《モノ(コト)‐〈智恵の木=日子を伴なう根子〉(ミコト)‐オホモノヌシ(ヒトコトヌシ)》の世界から 善悪を知る木なる智恵を突出させ 単独分立させる。
  • ② この日子の能力によって 善悪のコトガラ・罪の問題をめぐって その共同自治を図る。そのため オホモノヌシの生命の木なる原理に比される律法・オキテをも 獲得した。
  • ③ 日子の能力は とどまるところを知らないかのごとく 世界を知ってゆく。やがて この日子の光が世界をあまねく照らし始めたかに思われてゆく。
  • ④ もっぱらの日子が立つ。アマガケリゆく。かれらは オキテをも守り 立派なヒトとなり とりわけ秀でたスメラミコトと呼ばれゆく。
  • ⑤ と同時に 人びとは これら良心のヒト・人間的となったミコトを貴ぶとともに このますます人間的となったところで だれも完全にオキテを守る者はいないと知っている。もしくは あらためて そのことに気づく。つまり オホタタネコ原点である。
  • ⑥ ここから この・ヒトはただオホモノヌシなるカミの光を分有するに過ぎないとするオホタタネコ原点にとどまる人びとと そうではなく もっぱら日子の能力に縁って ますますアマガケリの道を突っ走ろうとする人びととに分かれた。
  • ⑦ アマガケリは アマアガリとも見なされたので そしてまた つまるところ国家の形成にまでたどりつき オホモノヌシにあたかも代えてアマテラスオホミカミを立てるようになったので そのときの思惟=内省と行為の形式は――マツリゴトでもあるので―― スーパーアマテラス宗教と呼べよう。
  • この国家の頂点に立つ超人アマテラス・スメラミコトが もし オホタタネコやミマキイリヒコなる人を超えて存在する神の子であるというのであれば 話は別である。そのときには その現人神ほんにんに会って見究めなければならないし その思想について 捉え直し考え究めなければならない。
  • もし その現人神なる人が オホタタネコらと同じ存在なのだと主張するという場合には――すなわち ミマキイリヒコらを超えてはいないが 同じ存在だというときには―― その主張の内容をよく聞いて まことにそのとおりであるならば われらがミマキイリヒコの社会共同体へようこそと言って歓迎しなければならない。

《時間の生起――これによって人は 時間=生 の有限すなわち 死を捉えている――》をもった《根子‐日子》連関者は 《モノ(コト)-オホモノヌシ(ヒトコトヌシ)》のあの初めの世界原理 これに入ったのである。ここで 光の速度(時間)を超え得ないで 必然の王国の中で悲惨にされうる《泥古》でもあれば 光の速度を超えうるオホモノヌシの観想をもって この泥古の母斑から自由に生きているということが 生起しているのでもあるのだ。オホタタネコ オホハツセワカタケ(かれの自己還帰の一瞬) ヤマトタケル(これには 二つの異なった系譜があると考えられる――後述) 柿本人麻呂 かれらが この歴史知性を継承して(もしくは これにかかわって) それぞれ自己の同一にとどまって生きたのである。

  • ただし 雄略ワカタケには その歴史知性のはたらく内容にかんして 悪の側面が見え隠れすると捉えている。まだ ヒトコトヌシとの出遭いのくだりについても いかほども 共通の話題としていない段階だが。

この歴史の共同相続人となること それが 社会が動くということなのだ。
個体を離れてではない。それ以外にありもしない《根子‐日子》連関者つまりわれわれの生のすがたを想い描いてはならない。

  • むろん 疑問を持ったときには 別である。そして原点と見比べつつ 説得しうるまでに 自己を形成しなければならない。そのあたらしい自己還帰が ほんとうの原点だというのだから。

このこころの根の領域をほかにして 人はどこに自己到来をはたすというのか。そしてこの命題内容が われわれの社会の科学でなければならない。
自己の時間の方向を曲げて 世界の中におけるその位置を倒錯し 幻想的に《善悪の木》に寄り頼み 想像において《日子》の(つまり精神の)帝国を望むということであってはならない。このよこしまの錯乱せる国家アマテラス宗教によるのでないなら どこに人間の自己還帰を阻むものがあるであろうか。ミマキイリヒコ視点にとどまること これによって社会は動く。そうでなければ 動かない。
日子の能力によって 光の速度を超えようとしてはならない。日子のチカラは じつに没しうる光である。
また これを 善悪の二元論ではないかなどというのは 善悪の木の幻想道徳のとりことなっているからでないなら なぜであろう。
ところが ここで それではというので 人が ただ母斑の世界 旧習の《泥古》の世界に捕囚され 絶望してしまうのではないかと考えられた。しかし じっさいには 根子は 原理たるオホモノヌシの光を分有するカミの子であるにほかならなかった。表現じょうの問題でもある。ここに 歴史知性の謎がある。言うならば 今度はここに 神秘がある。そしてこれが 社会が動くというわれわれの第二の原則内容である。
わたしは ここで自己の筆のチカラの及ばないことを告白する。次の文章の議論を参照してほしい。

人間は 避け得なかったもの つまり肉の死を 霊(存在)の死 つまり罰の原因である罪よりも避けようとしたゆえに――なぜなら 人は罪を犯さないということには心を配らず あるいは少ししか心を配らないが 死なないということは たとい不可能であっても 烈しく求めるものであるから―― 生命の〔木の〕仲保者は私たちに人間の条件によると到底 避け得ない死を恐れるべきではなく むしろ信仰(オホタタネコ原点)によって警戒しうる不敬虔の恐れるべきことを示されつつ 私たちが目指して行く目標への導き手として私たちに出会いたまうのであって 私たちがそこから来た道において出会いたまうのではない。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 4:12)

《罪を犯す》《不敬虔》とは われわれが 横しまにも その時間の形式(関係)・内容(価値)を曲げるところのあのもっぱらアマガケル=その意味で国家幻想へとアマテラス化する日子の能力である。精神の横しまである。
死は 悪である。ゆえにわれわれは これを避ける。同時に あの世界原理は われわれが 時間的存在であり死ぬべき人間であることをおしえている。歴史知性が 自己の同一にとどまるというのは どういうことか。
すなわち ここでも一項目として カミの議論じたいを出さなければならないことには 上の引用文につづけて こう書いてある。

実に 私たちは罪によって死へ来るのであるが 生命の仲保者は義によって死へ来たりたまうのである。したがって 私たちの死は罪の罰であるが 仲保者の死は私たちの罪のために犠牲として生起したのである。
(同上;承前)

オホタタネコもヤマトタケルも 《罪すなわち よこしまな日子の肥大によって死へ来た》のである。そうして かれらに たしかに歴史知性の生起と その継承の歴史を見ることが出来たなら かれらは 《私たちの罪のために犠牲として生起した仲保者の死》を証言したのである。ここでは 悪である死が善用されている。《だから 死は一人の人間によって来たように 一人の人間によって死人たちの復活が生起するのである。》(三位一体論4:12)これが オホモノヌシすなわちヒトコトヌシの神秘であり オホタタネコ原点ないしミマキイリヒコ視点たる歴史知性の動態である。動態というのなら 社会が動くのである。しかしわれわれは 動態でしかありえない。
《避け得なかったもの すなわち肉の死》を人間はむしろ 日子のよこしまなハタラキによって避けようとするように――縄文人から弥生人へ移行するにしたがって 自覚的にそのように――なったのである。だから 死者には 墳墓を必要としたのかとも考えられる。しかし同時に 存在の無化 善の場つまり主体性の欠如 つまり死は 悪であるから これを避けるべきである。死者の墳墓も同じく このことを語りたかったのかもしれない。ゆえに 社会が動くのである。
言いかえると 自己は 自己還帰した自己の同一にとどまる。第一原則:《時間の生起》には 《時間の必然に勝利する》ことが含まれていたと思うが 言わばこれが 《社会が動く》という第二の原則でもある。社会科学は このあたらしい主体が科学するのであって 旧い主体が科学することによって あたらしい社会と科学を創出していくのではない。また あたらしい歴史知性というのは 《オホタタネコ》のことにほかならず アマガケルもっぱらの日子らに その錯乱に道を譲ってのように 国譲りをし 自己の同一に留まりえてのように  《須く佐くべし》と言っていた人びとであるにほかならない。
ところが 古事記崇神天皇ミマキイリヒコの段には その子・ヤマトヒコノミコトの註に

此王之時 始而於陵立人垣。(この王の時 始めて陵に人垣を立てり。)
古事記

と書いてある。ヤマトヒコノミコト(倭日子王)の陵墓に人びとを生き埋めにした これは歴史的に初めてのことだというのである。もしこれが史実だとしたなら 理解に苦しむ。と同時に 理解の糸口はある。前者の点は これまでの議論と矛盾するゆえにである。
後者の点は しかし 《悪魔は カミの神秘的な配剤たる医薬 すなわち 生命の木の仲保者の犠牲の死 これをも受けるに値しなかった》と聞くからである。はじめからの真理(生命の木)のもとにいなかった悪魔(これが 日子を単独分立させもっぱらのアマガケリに誘う)に 自分から捕囚されていった人びとが 生命の木を証言するオホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点を避けて 避けるようにして 避けるがゆえに ミマキイリヒコの子の陵のまわりに人垣となって死んだということは ありうることである。なお生きて よこしまを働きつづける つまり不敬虔を避けず 肉の死を避け続け 死が死なないという第二の死へ陥るよりも 善であったかも知れない。われわれは 復活した人びとの共同体のことを語り合っているのである。語り合って行くのである。
これによって 社会が動くという第二原則を 観想してゆくべきである。
もちろん 悪魔というのも 表現じょうの問題である。
自己の同一にとどまるというのは ありうべき歴史知性の動態にかんして 表現において 自己の存在(自己が生きているということ)の冪(べき・連乗積)をつくっていくことである。実はこのオホタタネコの歴史動態を もっぱらの日子の能力によってただ善悪の木の領域において 錯乱の幻想体系として 類型的に同じモノとしてつくり上げていくのが アマガケル歴史知性なのだ。かれらは 一たん《イリ》歴史知性となって 生命の木に触れた(触れられた) のち 善悪の木に縁って《ヨリ》知性に戻った。
そこでは  《イリ日子》視点を 先取りし 真似て 道徳の体系・社会科学の理論体系・自然科学の技術体系また 罪に対しては特に法律体系によって 幻想的な自己の同一にとどまっていると考えている。現在 このアマテラス・マツリゴトのアマガケリは 行き着くところまで行き その最高の形態にまで到達した。だから 社会が動くということが 第二原則である。オホタタネコの実践は スサノヲノミコトつまり《須く佐くべし》にある。ただし またはなぜなら 善悪の木そのもの・人間の日子の能力そのものは オホタタ根子つまりミマキイリ日子のものでもある。精神が憎いというような問題ではない。