caguirofie

哲学いろいろ

第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第五章 ミマキイリヒコ社会の第一原則:時間が生起したということ

――復活した人びとの共同体――
オホタタネコらの社会の原理にかんして さしあたってどのような内容(=形式)を措定しておくべきであろうか。

崇神天皇の段などを参看すべきであろう。

  • われわれは 徐々に・もしくは第二部で 具体的な歴史の過程をおさえるよう進めたいと思うが さしあたってこの第一部では その準備のための議論としても なお人間の誕生という原点――そのような歴史知性の本質的な内容――を問い求める。
アマガケルもっぱらの入り日子

オホタタネコ原点の――したがってミマキイリヒコ社会の――第一原則は 人間が生きるときそこに《時間》が生起しているということになる。これが 《歴史知性》の――ほぼ自同律だとしても――内容の第一である。同じくこれの知性・理性・精神の面に特に注目するなら 日子の能力として ミマキイリヒコ視点というものである。
いわゆる四次元の世界にわれわれが 生きているということだ。
これが かれらの社会科学が 単独分立してもっぱらアマガケル入り日子たちに与えた解答の一つである。このあたりまえと言えばあたりまえの また 近代科学から見れば形而上学的に見える第一原則が 社会科学の具体的な理論の展開にあたって 一方で 脱ぎ捨ててよいというものではなく 他方で覆い被っていればよいというものでもない。《社会科学》が科学するのではなく 人間が科学するのであるから この人間が 時間の生起した世界に生きるという原則は 形而上学の抽象的な規範なんかではありえない。
この第一原則はオホタタ根子が《泥古》になりうる そしてミマキイリ日子が《比古》になりうるというかれらの視点に現われている。新しい・古いというのは 時間の概念であるから。一たん《入り日子》となった歴史知性が この日子の能力によって単独分立し もっぱらの日子となってアマガケルというのは 善悪を知る木に縁って より一層あたらしいものを追い求めて 古い呪術知性の《ヨリ》と手を結んでしまったのである。《比古》となって 《ヨリ》歴史知性の残存に対しては むさぼるなと説教するところのむさぼりの科学を(和を乱すなと説く和の撹乱の科学を) 創造してゆく。ふつうの根子・入り日子が 和をつくるのではなく 自分たちの説くところのアマガケル入り日子による和の観念(それとしての善悪を知る木のオキテ)が オホタタネコ歴史知性をつくると唱え出したのである。
善悪の木にヨリついたと言って言えなくはなく かれらは もっとも新しいものたろうとして 古い歴史知性(歴史知性以前の心性)とつるんでしまった。
時間の獲得――および そこから さらに再び時間(必然の王国)の上を精神主義的にアマガケルという時間知性―― これは おおまかに言って 日本では弥生人が獲得したのである。縄文人が 四次元の世界に生きていなかったと言おうとするのではなく 一般に 自然と一体の呪術的な生活原理のなかで 狩猟採集漁労の社会を営んでいた。とするなら わかりやすく言って この中に歴史知性は 眠っていたのである。ここから 《時間》が・すなわち世界の第四次元が 芽生えた。自覚的に 芽生えた。
稲などの農耕という生産とともにである。生産物が 価値となり 価値は 一般に時間行為の関数であると考えられるようになった。また このような時間観を生じさせたのは 単なる貯えとしてのモノではなく 日常生活にとっての剰余の価値を持ち始めたコトのなかからであったと考えられる。
農耕は 共同体に属する労働であるが 《わたし》の田・稲・農耕作業そして生産物という主体的な時間が生起したものと思われる。木とそして木の実とが 分離した。もしくは 《木(稲)》と《木の実(コメ)》とのあいだに 自然のチカラのみではなく人間の・わたくしの労働が はっきりと介在するようになった模様なのである。これが 歴史知性の誕生を促したと見なければなるまい。もちろん 狩猟採集漁労がなくなったわけではない。しかもそれらにも 《時間つまり価値(時間意識や価値意識)》をもって対処するようになった。
つまり勿論このとき モノとオホモノヌシ コトとヒトコトヌシが 明確に概念としてそれぞれ分けて把握されるに到ったのである。つまり 社会的なモノゴトをめぐってそれらの主体たるヒトとしてのミコトが 《モノ(コト)‐オホモノヌシ(ヒトコトヌシ)》から成る世界の中にそのしかるべき位置をあらためて見出したことになる。このような《弥生人》と《縄文人》との歴史知性としての違いは 現代人のあいだにも 不幸か幸か 見られるとも言わなければならないのではないか。
弥生人の前段階(母斑)たる縄文人との比較とは逆に その後段階たるいま古墳時代人との比較をしようと思えば 次のことを明らかにしうるはずである。
一般に古墳時代は 木(稲)と木の実(こめ)とを分離して認識するだけではなく この労働を介した時間過程を 逆に《木の実》のほうから捉えるようになったのである。時間の所産 労働の生産物――そしてこれは 一般に労働が協働としてヒトとヒトとの関係 つまり二角関係から成り立っているとするなら 協働二角関係たる時間過程から創出される第三角価値――これの 主体的な所有 わたくしによる所有 時にむさぼりによる所有によって求められるようになったのである。
このような利潤・利息・第三角価値の集積された例が ほかならぬ古墳の築造である。
つまりここでは 日子が単独分立し――私益を考えるようになり―― 社会的には もっぱらの日子(そういう精神主義をかかげる勤勉家 industrialists )が いわば《第三角の価値(時間の剰余)》の所有者の代表だと考えられるという歴史を経ている。ミコト(オホタタネコ)たる仲間のなかの第一人者・スメラミコト(皇)だというわけである。
オホタタネコとミマキイリヒコの時代には ミマキイリヒコに古墳があると伝えられているように 弥生人の時代ではなく この古墳の築造を開始した社会に属している。しかし この古墳時代の草創期というほどに 弥生人のあいだに芽生え形成されてきた歴史知性は この期のオホタタネコ原点・ミマキイリヒコ視点として 綜合的に継承し確立していったものと思われる。
これ以後は 《ネコ‐ヒコ》原点をさらに継承しつつ 同時にその上に(上部に) 《もっぱらの日子》の圏域がきづかれるに到ったのである。いわゆる支配者の圏域(二階建ての第二階)であるが このもっぱらの日子と・したがって もっぱらの根子とから成るその後の社会は 構造的にひとつのまとまった社会形態として《国家》を採ったと考えられる。このもっぱらの日子らに対して 《善悪の木に寄り頼むところの善悪の木》の隆盛は 一般市民・根子たちをして 《くに譲り》をなさしめた。錯乱に道を譲ったと言ってもよい。ただ譲るのではなく 《すべからく たすけるべし(須佐 之男命)》と言って あの歴史知性の同一にとどまろうとしたのである。もっぱらの日子たち の善悪の木の法制化(共同観念としてのオキテの確立=律令)とともなる・いわば高度経済成長論が その勢いを得たのである。
ここでさらに時代を飛んで あらかじめ議論をなすなら のち 古墳時代の終焉は ただちに オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点の社会に戻るというのではなく たとえば天武天皇による国家形態(われわれの言葉では 《アマテラス‐スサノヲ》連関体制)となって ひとまず落ち着きを見出した。
ちなみに 天武体制の確立ののち 柿本人麻呂が 次のようにうたったとき かれが この《アマテラス‐スサノヲ》連関形態のまったくの具現者であったというのは 当たらない。

おほきみは神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも
皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨
万葉集 巻三・235番)

かれはただ 《ミマキイリヒコイニヱノミコト(そういう地位にあった指導者)》を継ぐと称する者が ヒトコトヌシノカミに意識的に等しいと当てはめているようなアマテラスオホミカミ(その子孫)であると名のるようになったかもと述べただけである。言いかえると 《根子‐日子》連関たるミコトから さらに もっぱらの日子が スメラミコト(皇)として突出独立したと 価値自由的にコトを認識してみせたにすぎない。《そうなのかな。そうなのかも。》と。《神》を観念しているとするなら 《コト‐〈ミコト(一般市民)‐スメラミコト(皇)〉‐ヒトコトヌシ》という新たな連関を編み出した。さらにそのあと その統一的支配者が  《L'état, c'est moi. ≒わたしが ヒトコトヌシである。》というスーパーアマテラス者をも編み出したかもしれない。
明治時代になるまでの中世では 《ミコト》が さらに分割され 《ミコト(一般市民)‐将軍(いくさのきみ)》という新たな連関が 形作られた。逆に言うと オホタタネコ市民の総意が推す指導者《ミマキイリヒコ》が 《将軍 / アマテラス(天皇 / 法皇)》などに分割された。この頃には 第三角価値すなわち剰余の時間も 一般社会的な経済活動(コトガラ)の中で 生産・所有・交換されるようになる方向が見られる。明治以降は この生産のチカラが飛躍的に増大したのである。

人麻呂のウタにも受け継がれたと考えられるオホタタネコ原点

言いかえると  弥生人の社会の進展とともに芽生えた歴史知性は弥生時代終結・次の古墳時代の開始にあたって オホタタネコ原点として 確立・確認されるようになった。この《時間の生起》ということが まず第一の原則である。ここに 目に見えない資本推進力としてのオホモノヌシを 立てようと思えば オホタタネコ原点をとおして かつ一人ひとりオホタタネコであるミコトの内に宿るチカラとして はたらくと表現することにほかならない。
あまりにも簡単な見取り図は ことをあいまいにしたかも知れないが じっさい このように時間的存在として自己を自覚した人びとが 時間的なモノゴトの管理 時間的な必然の王国の中にあって さらにこれに勝利するという世界原理は このオホタタネコ・ミマキイリヒコの社会と時代に獲得されたと考える。すなわち 復活した人の共同体は ここに・かつ歴史的に ある。と今は いくぶん形而上学に傾いてでも考えようとしている。なぜなら 経験的にも のちの国家形成は この《根子‐日子》連関者の中から出た善悪の木に寄り頼むアマガケル日子らの動きによってであると考えられるからである。
縄文人弥生人の歴史知性の歴史的発展は ここ(天武体制としての国家確立)に一たん終結すると捉えられるからである。古事記のオホタタネコ原点は 人麻呂のウタによく受け継がれていると考えられるからである。形而上学的にと言ったのは 表現の問題のことを見ようと思えば そこに隠れたところで点検すべき資本(愛)の推進力が 当然のごとく はたらいていると考えられるからである。この史観は それとして 動かない。
したがって はじめの世界原理が通史的であるごとく このオホタタネコ原点たる歴史知性も かれの時代にのみ限られるとするのではなく 通史的であって ここから その中にあって・またはその上部に身を移して 時にその後 復古的な動きや それに尾ひれがついたもっぱらの日子らのアマガケリが見られたりするであろうと――いま図式的に――考えてもよいと思われるからである。
したがって 天武体制の以後 もっぱらの日子の圏域にあって オホタタネコ原点を生きた人麻呂は 《アマテラス / スメラミコト》を推す人びと――たとえばのちに藤原不比等――によって 失脚を余儀なくされたと 一説として考えられている。この説の主張者は 同じく人麻呂の次のウタをもって かれは刑死したのだととなえる。

鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあるらむ
鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
(巻・二・223)

これが  《柿本人麿の石見(いはみ)の国に在りて臨死(みまか)らむとせし時に みづから傷(いた)みて作れる歌一首》というのであるから 根拠だというのである。
わたしは 人麻呂の失脚説を否定するものではないが また 時のスメラミコトないし不比等らから刑死をたまわったということが事実であったとしても かまわないわけであるが ここで言いたいことは 人麻呂が最後まで あのオホタタネコ原点すなわち自己の智恵の同一にとどまったであろうことである。
かれは 《石見の国で 鴨山の岩根を巻いて死んでいるわたしを 発見するであろうか。多分 そうかもね》とうたっただけである。

  • 人麻呂は 《鴨》が好きである。

じっさいには そう歌い そう思わせておいて その地で天寿をまっとうしたかも知れない。ここでは 妻をもあざむいたことが問題なのではなく――あるいは 妻らには きちんと真相を伝えたかも知れない。これにのっとって妻も死を嘆くウタを歌ってみせたかも―― あの《皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨》などなどと多くのウタを歌った自己の同一性 《根子‐日子》連関の主体性を そうして全うしようとしたことが それである。
この人麻呂の例を例として 歴史知性 オホタタネコ原点は 日本人の歴史を一貫していると言いたいのである。叙述の都合で 前もって言うとするなら このような社会人としての《わたし》が――そしてかれが 社会科学するのであるにほかならないのだから―― われわれのものなのである。
これは オホタタネコ原点の第一原則 《人に時間が生起した》という社会科学の第一命題なのである。この史観は それとして 動かない。古事記がこれを語ったのである。

  • われわれは いわば一章ごとに完結した議論をなそうとつとめているので いくらかの先走りをゆるされよ。

これが 復活した人びとの共同体の動態だと言いたいのであって その共同体の外的なかたち つまり社会の形態は 時代とともに変わってゆくであろう。また 変えてゆくであろう。国家形態も 次の段階へ移行するであろうと言わなければならないのであって それは ことさら この歴史的な変革をあげつらうためではなく――また より新しい・もっと新しい歴史知性をことさら求めて 社会形態の理想像を描くというようなことに腐心するのでもなく―― オホタタネコ原点を歴史をつうじて一貫する人間の歴史知性だとひそかに 顕揚したいがためにほかならない。
これは 《時間が生起した》というこの第一原則に要約される。これは はじめの世界原理の内容であったもの(自己到来)にほかならない。もっぱらの日子となってアマガケル歴史知性はこの時間の上に時間を作ったのである。はじめの時間(その形態)には 第三角の価値を含み これが古墳となって きづかれた。時間のうえの時間は アマガケルべく 巨大な古墳をつくりあげた。だから はじめの古墳は 時代情況に応じて 風習とか趣味の問題で捉えることもできるはずである。あとの場合は はじめの《根子‐日子》連関の時間(ふつうの市民生活)を もっぱら日子の能力によって 国家という社会の形態として描き これを 神聖にして侵すべからざる善悪の木として推し立て 規範・道徳・律法としたのである。かれらは ふつうの自己到来が いやだと言ったのである。あきたらないと駄々をこねたのである。時間から自由な天使となってのように しかし自分自身のチカラによって生命の木にヨリ憑き(または 自分自身たる善悪の木を生命の木と見なして) アマガケようとしたのである。
この第一原則にかかわる議論が 社会科学の第一歩でなくてはならない。

  • 人は これを階級関係の歴史として 分析し実証してみせることを出来る。ただ その分析科学が 国家主義者のと同じ類型で・かつ別種の《時間のうえの時間》にならないように つまり世界の第五次元を創出しているようなことにならないよう注意していなくてはならない。

(つづく)