caguirofie

哲学いろいろ

第一部  人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第二章 《根子‐日子》連関としてのオホタタネコ原点

――自己が自己へ到来するとは どういうことか――
人間は すでに誕生しているけれども かれが 人間として自己を知るという誕生について 問い求めようとしている。
いま第一章において 人としてオホタタネコが自己について知っていることがらは つぎの内容がそれであった。
大地のうえに生きる存在として《根子》は 他の生物また無生物とちがって 理性的動物であり この理性ゆえに《日子》である。人は 《根子(身体)‐日子(精神)》連関体である。あるいはつまり おおきく《根子》が そのみづからの内に 《日子》を宿している。
根子がその内なる日子をとおして 意富多多泥古・大田田根子と言われるべき カミの子であるというのは 木やその根は 自分自身たる《もの》の根源を知りえないから。しかるに オホタタネコは オホモノヌシの神すなわちヒトコトヌシの神を知りうる。

  • カミを立てない場合は 科学的な真実という意味での原理・法則を知りうるというにとどまる。原理の原理 法則の法則を カミと言って 議論をつづけるのである。
生命の木

また 木や犬も オホモノヌシなる法則を無意識・無自覚のうちに知っている。そのような法則に従ってそのような法則のうちに存在している。とするなら それらは カミを思うこと(《意富》であること)は出来ず 人間がカミを愛しうる。

  • つまり カミを立てない場合は 経験世界において経験法則を知りこれをとおして 人間が人間を愛しうる。
  • カミを愛さず人間をも愛さず 科学の法則のみを愛するという場合にも 科学的な原理や法則をよく発見する能力を人間は持っている。
  • だれも 死あるいは 幸福でないことを ほんとうに欲する者はいないであろうから 善く愛しうる もしくは善く生きることを互いに愛しうる。これが一般だろうが 科学の真実のみを愛するという人も 自由に いるかもしれない。
  • 愛するというのは 経験的に何かを欲するということ つまり 欲望・欲求の概念で捉えて まちがいではなかろう。カミを立てないときには そのような経験的ないし学問的なコミュニケーションの領域で 議論すべきであろう。
  • その場合は たとえば愛が 絶対的な法則としての愛(人間関係)ではないことを 暗黙のうちに前提している。この現代科学的な暗黙の前提と同じことを 《表現の問題として 宇宙の原理といった意味で カミを立てている》と言いかえ・考え換えて 議論する。

すなわち この意味での《根子-日子》連関者であるオホタタネコは ただの物体・ただのモノとしての木を知るだけではなく オホモノヌシすなわち言うなれば 生命の木を 意識(こころ)においても知ろうとするし 知りうる。このカミである《生命の木》を――それは 表現じょう立てていたものなのであるから―― 人は知りえないし また 知る(詮索する)必要もない。このことを モノの根源・コトの究極を オホモノヌシまたヒトコトヌシとよぶのと同じように モノとしての木などにもはたらく見えない原理としてのチカラと考えて この内容にかんするかぎり 《生命の木》と表現するのである。

善悪を知る木

そうしておくと モノの木が じっさいに育つコト(そのような経験的な現象や過程)について観察されるいくつかの個々の法則 これを 唯一絶対の法則すなわち表現じょう神であるとは 人びとは見なさないことを 保証するものと思われる。
人間は モノの木(要するに 広く自然の資源)を 所有し 加工・操作・利用するわけであるが それは 科学的な知識・その意味での経験法則にもとづいておこなうのであり この能力は 固有のはたらきとしては オホタタネコの《日子》性のものである。このとき かれは 純粋・中立の知識のみでこれをおこなうというのでもなく 人間の社会的な関係のなかで 一般に善くおこなおうとする。のであるから このオホタタネコの《日子(精神)》の能力は たとえて見れば 《善悪を知る木》であると表現することが出来る。
しかも このとき 人間の知識とそれを運用する知恵であるところの《善悪を知る木》が 唯一絶対・不可変的な真理つまり《生命の木》ではない。だからむしろ 積極的に カミを立てて これの内容を生命の木と表現し 把握しておくことは 人間の誕生とその自己への到来に際して 有益であると考えられる。

  • しかし 古代市民は また ヨーロッパ等の近代市民は だからこの意味で 一応 世界史的にみて人びとは カミを立てていた。
  • 一般に近代市民の科学が 経験法則をただ知るだけではなく 人びとはこの経験原理もしくはそれの応用の仕方としての知恵を 愛しうるという意味では 表現じょうカミを立てるという行き方も まだ 捨て去られたわけではない。それは唯一の方法ではないけれど ありうべき別の方法と おなじ内容を意味表示しうると思われる。
  • このとき カミを想定していた日本の古代市民の《古事記》等にあらわされた思索を問い求めることへ 入ってゆくことができる。

言いかえると オホタタネコは その殊に原始時代つまり明らかな形では 狩猟・採集・漁労の時代において モノとしての木から採って 食べて生きていた。パン(木の実)だけで生きるのではないが これを採って食べなければ 生活することを為しえない。ということは 取りも直さず パンだけで生きるのではないという現実をそのまま表わしてのように 生命の木によって・すなわち モノとしての木にもはたらく根源的なチカラによって・ということはオホモノヌシの神によって すなわちさらに言い換えると そのコトバとしての認識・その根源であるヒトコトヌシの神によって 生きていた。表現じょう こうなる。
表現じょう これが 全体の現実である。
また ここまではまだ あたりまえの現実である。生活の全体として まずそうだということが出来る。

《モノの木(自然)‐善悪の木(人)-生命の木(神)》

こうして 《根子‐日子》連関であるオホタタネコは 《モノ(たとえば木の実)‐オホモノヌシ(原理・生命の木)》のあたかも連関を捉えている。つまり オホモノヌシは はじめの前提で 全体ないし宇宙の原理のことなのであるから 言ってみればこれも あたりまえのことである。
ただ この《モノ‐オホモノヌシ》の連関のような全体世界をとらえる視点は オホタタネコという主体において 《日子》の能力もしくはそれとしての《善悪を知る木》なのであるから 《根子‐日子》連関という《善悪の木》の主体が 上の世界連関のなかに位置するという基本的な認識が 古代市民にとっても現代のわれわれにとっても ひとつの重要点になると思われる。

《コト(現象・行為・ことば)-ミコト(人)-ヒトコトヌシ(神)》

つまり世界は 表現じょう《モノの木(自然)‐善悪の木(人)‐生命の木(神)》から成る。

  • 近代科学は そのはじめの出発点はいざ知らず 最後の《生命の木》を もはや殊更 言わなくなったのである。《知は 力なり。》《われ考える ゆえにわれあり。》は 《善悪を知る木》のことである。

つまり オホモノヌシと同一の存在であると考えられるヒトコトヌシとそのコトバの世界すなわち同じく 《コト(現象・行為また言葉)‐ヒトコトヌシ(原理=はじめ)》のあたかも連関世界 これを捉えている。このとき 《善悪の木》の主体は 《みこと(霊言・美言・美事・命・尊)》と表現されたのだとしたなら さらにやはり同じく 《コト(社会自然)‐ミコト(人)‐ヒトコトヌシ(神)》から成る世界であると捉えられる。
さらにくどいように 善悪の木の主体も 《わたしは これこれというモノ(者)です》と表現しうるとすれば 先の世界は 《モノ(木)‐モノ(善悪の木・考える葦)‐オホモノヌシ(生命の木)》という連関の認識となる。これらは したがって その個体内部における根子-日子の連関者であるオホタタネコが カミのハタラキを分有し この意味でカミの子ではあるが カミそのものでもない。だから かれはこの日子性をとおして 自己が自己の内外にわたって《モノ(コト)‐オホモノヌシ(ヒトコトヌシ)》のあたかも連関する世界に生きているのを見出すということ これらを確認するための一つの理論なのである。
オホタタネコが モノとしての木の根源・コトとしての木の原理 つまりオホモノヌシまたヒトコトヌシを知ったということは 結局 愛である。または かれが 生きているとコトじたいである。ネコの内なるヒコが カミではないのだから――ネコも カミそのものではなかったから―― 《ネコ‐ヒコ》連関者つまり自己あるいは 自然・宇宙そして社会を捉えて言うとき ただ認識し知解するというよりは 愛(つまり《意富》であること)と表現することが いっそう ふさわしいであろう。
共同生活の原理 共同自治のチカラ(推進力) また ヒトの自立のみなもと などとしての愛である。

生命の木なる愛

ところが かれオホタタネコは カミの子であり カミの法則を分有しうるが(経験法則を知り これを活用しうるが) カミそのもの・原理そのものではないというのは どういうことか。
それはもちろん 表現じょう カミを想定していたというはじめの前提そのことを言うのであるが ここからは 第一章の基本的な内容の 具体的な展開を 問い求めていかなければならない。
オホモノヌシなる愛 ヒトコトヌシたる真理そのままに かれオホタタネコが生きるのではないということが 基本的な前提内容であるのだが これの具体的な展開をみてみなければならない。それには まず 前提内容の拠ってきたるべきさらにその前提をつかまえておかなければならない。これが オホタタネコは 根子‐日子の連関であるということなのだが――つまり 議論は循環するのだが―― かんたんに次のように考える。
ちょうど モノとしての木の実や 獣〔毛‐だ‐モノ。毛のあら*1モノ・柔(にこ)モノ〕や海のモノ〔鰭(はた)の広モノ・狭(さ)モノ〕やが 食糧として有限であるのと同じように 真理の認識 愛の愛 としてのその《根子すなわち身体》あるいは《日子すなわち精神》は 有限である。また 移ろい行くものである。いま 共同自治の推進力たる原理は あたかも根源的に無限の愛であるが 共同生活のそれぞれ主体である根子ないしつまり日子は 枯れ得る根であり 没し得る日である。こう言ってのように 宇宙の原理たる愛のチカラから 逸脱しうる。逸脱した。単純に このことだと考える。

  • カミを知ったと言っても 分有するとは知ったのだが すべてをあからさまに知ったのではなく まして カミのチカラを一身に体現して世界を支配したということでもない。つまり はじめの基本的な前提を 経験的な動態として・過程として 言いかえたことになる。
落ちゆくオホタタネコとその復活・そして罪の共同自治

この言いかえを もう少し見ておくべきである。
オホモノヌシの愛の推進力は 汲めども尽きない源泉であるけれども オホタタネコの愛(共同自治への意志)は 《古》くなって《泥》の中に落ちうる。人間は 堕落しうる。堕落した。堕落しても堕落したと認識しうる存在である。その点で 人(オホタタネコ)でありつづける。ヒトコトヌシの真理の光は――いま これを 表現じょう 議論の展開じょう 想定しているのであるが―― 変わりえないヒトツの意志であっても オホタタネコの《意富》は 《多多泥古》であって 薄暗がりの多様な光である。多様でゆたか(富)な意志(愛)であるオホタタネコのほうが ヒトツのコトの光(ヒトコトヌシの神)よりも 暗いというのは 不思議である。あるいはまた じっさい 原理・真理としての光は 曲がりうると考えられるのだろうか。
けれども その根拠は 人間オホタタネコが 人間自身の光(日子)であるコトバによって モノを知らなければならず コトを行なわなければならず それゆえに 共同生活のための知識(科学) 共同自治のためのおきて(法律)を持つようになったことの中に問い求めることができる。
木の実に毒があるかないかを知って確かめなければならず 共同生活のために その木の実の有限さゆえに 《むさぼるな》と・あるいは《他人のものを盗んではならぬ》と言うオキテを持って 共同自治しなければならないようになっている。堕ちたのち 罪の共同自治をしていなければ 生活していけなくなっている。
根子が あの愛によって 自分たちの日子のチカラをはたらかせて生活していれば そのような必要(必然の王国)は生じなかった。と説明されるたぐいの議論が それである。つまり このつてでいけば オホモノヌシの原理 ヒトコトヌシの愛から 離れたゆえに 離れて自分の光 自分自身の《日子》としてだけの愛と知恵に寄り頼んで 木の実を わたくしするところがあった。生命の木から離れて 目に見えるモノとしての木の所有(生産・消費)をはかろうとしたゆえ 《〈モノとしての木〉‐〈オホモノヌシとしての生命の木〉》のちょうど連関(そういう世界観・生活原理)を逸脱し そこに 自分自身の日子(知恵)だけによって あたかも《善悪を知る木(精神の 規範・おきて・律法(法律))》を介在させたというのである。
あるいは この善悪を知る木の規範の介在が――生命の木・オホモノヌシのハタラキ(それは愛であるゆえ)によって―― 生じるようになったというものである。
さらに今度は 善悪を知る木によって 自分たちだけのチカラで 罪の共同自治を始めようとした。生命の木から離れることが オリジナルな《つみ》であったとかんがえられる。

  • はじめの前提的な想定を さらに社会歴史的な動態として捉えた内容を このように考える。
オホタタネコにとっての世界原理

言いかえると オホタタネコつまり人間が 生命の木なる愛つまりカミの子であるという同じくはじめの世界原理には 変わりなかったのである。なぜなら 人が罪を治めなければならないという罰がくわえられたことによって 世界原理の不変性が 証明されていると考えられるから。やはり表現の問題としてこう議論を進めたい。
つまり言いかえると この第二章で見ようとしたことは オホタタネコが 自分を《根子-日子》連関たる存在として自覚していたというのは 実際には すでに 生命の木(やはり表現じょう 日の老いたる者・義の太陽)から 自分の意志で離れるという罪をおかしたあとのことだったのである。《善悪を知る木(また 日子の規範・精神のおきて・律法)》をすでに介在させたあと ふたたび《根子‐日子》の連関として  《モノとしての木‐オホモノヌシとしての生命の木》なる世界原理を観想しうるに至ったことになる。
言ってみれば 古事記があらわしたオホタタネコの出現(そのような 歴史知性の獲得 歴史認識の実現)は すでにそのことが 世界原理(これがあるとしたなら)への人間の復活にほかならなかったと表現することも 考えられる。もしくは《古事記》には明らかなかたちで そうは書いてないから いま このように関係づけてとらえたいと思う。
したがって ここまでも問題がなければ まずはこのように仮説を想定し またこの仮説を検証してゆくことが この第一部の課題となる。まずは ふたつの章で 仮説たる基本前提をのべることができた。
ただちに これに対して いままでの議論のかぎりであらかじめ われわれの感想をのべておくとしたなら つまりこれは 人間の誕生 ないし自然身体の誕生のあと歴史知性の獲得というその第二の誕生なる歴史的な出来事であった。以下 このことを 古事記に即して 検証してゆかなければならない。自分勝手に言っているのでないことを明らかにしなければならない。
(つづく)

*1:あらの漢字は 鹿を三つ三角のかたちに重ねて書く。