caguirofie

哲学いろいろ

               第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録四 共同主観夢

38 註:共同主観夢の眠り または 共同観念夢として慣習化されてしまった眠り

使徒パウロの書簡のなかで 《ローマの共同主観者への手紙》は 罪のちからである律法〔大雑把に〕すなわち共同観念夢じたいに対する共同主観夢を 原理的に正面から取り上げている。それに対して その慣習化された型式を 《ガラテアの共同主観者への手紙》を初めとする諸書簡は 扱っている。現実に形態化した罪の問題である。むろん 同じ観想にもとづいての議論である。
これらの中から いくらかの節を引用して それに註解を付すというかたちで 表題のテーマに今 迫ってみたいと思う。ここでの 註解の特徴は 日本人である共同主観者にとっての問題という視点になる。おおかたの批判を仰ぎたい。
ガラテア人への手紙》2:15−6:16

〔1〕すべての人は信仰(共同主観夢)によってすくわれる。(2:15−20)

わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって 異邦人のような罪人ではありません。けれども 人間は律法の実行(共同観念夢のなかで その掟に従って 罪を犯さない)ではなく ただイエス・キリストへの信仰によらなければ 正しい者とされないと知って わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

  • 原夢がそのまま共同主観である生きた一人の主観という模範。しかしかれは この時間的存在であるだけではなく 原夢・原主観の原理(はじめ)であった。

これは 律法の実行ではなく キリストへの信仰によって正しい者としていただくためでした。

  • 踏み絵の源としての共同観念夢の遵守と信仰によってではなく むしろ共同観念夢すらの源としてのその原理である存在 これへの信仰によって われわれが また共同観念夢の社会が ただしく生きると キリスト・イエスによって信じた。

なぜなら 律法の実行によっては 人間はだれひとり正しい者とされないからです。

  • 共同観念夢の信仰=宗教=政治によって これを守り 罪を犯さないことと 共同観念夢がなぜ存在するのかを知解することによって 共同観念夢の社会を またはわれわれ自身を活かすようにして 罪の共同自治をはかることとは ふたつの別の事柄だと知ったから。
  • マルクス主義者は この原点を不問に付したまま あるいはすでに常識だと暗黙に了解したままのかたちで 突っ走っていた。

もしキリストによって正しい者とされるように努めながら わたしたち自身も罪人であるなら キリストは罪の仲立ちをする者ということになるでしょうか。けっしてそうではありません。なぜなら もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば わたしは自分が違反者であると証明することになるからです。わたしは神に対して生きるために 律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは キリストと一緒に十字架につけられています。生きているのは もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今この世に生きているのは わたしを愛し わたしのために身をささげられた《神の子》に対する信仰によるものです。

  • マルクスも こういった原点としての自己還帰ということを言っていた。自己還帰は 知識ではなく 異和の生きた動態であり それじたいが それとしての実践である。
〔2〕 すくいの原理は 律法か信仰か(3:1−14)

ああ ものわかりの悪いガラテアの人たち だれがあなたたちを惑わしたのでしょうか、あなたたちの目の前には イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではありませんか。あなたたちにひとつ確かめたいことがあります。あなたたちが聖霊を受けたのは 律法を実行したからですか。それとも 福音(共同主観夢)を聞いて信じたからですか。そんなにものわかりが悪い(―もしくは 良い――)のですか。聖霊(共同観念夢の社会をとおして 共同観念夢の中の核となる共同主観の部分である律法を与えた神のこと)の力によって始めたのに 人間の力によって仕上げようとしているのですか。あれほどのことを体験したのは むだだったのでしょうか。むだであったはずはないでしょうに・・・。あなたたちに聖霊を授け また あなたたちの間で奇蹟をおこなわれる方は あなたたちが律法を実行したから そうなさるのでしょうか。それとも あなたたちが 福音を聞いて信じたからでしょうか。それは 

アブラハムは神を信じた。それで かれは 正しい人とみなされた。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)15:6)

と聖書に言われているとおりです。

  • いま唐突に 少し触れる程度に次のごとく。――《この倭の国に 吾を除きてまた王は無き》オホハツセワカタケのスメラミコトが 

ここにかしこみて 

恐(かしこ)し 我が大神 現(うつ)しおみ(≒《人の子》)あらむとは覚らざりき。

とまをして 拝みたまひ
古事記 (岩波文庫) 雄略オホハツセワカタケのくだり)

  • このように拝んだことより 《アマテラスとスサノヲ》の連関による共同観念夢のかたちが 成立することになった。
  • この社会の存続は 共同観念夢の律法を実行したからではなく この原理(共同主観夢)を信じたからではなかったか。

ですから 信仰にょって生きる人びとこそ アブラハムの子孫であるとわきまえなさい。聖書は 神が異邦人を信仰によって正しい者となさることを見越して 

お前のゆえに異邦人は皆 祝福される。
創世記 (新聖書講解シリーズ (旧約 1))12:3 / 18:18)

という福音をアブラハムに前もって告げました。それで 信仰によって生きる人びとは 信仰の人アブラハムとともに祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも のろわれています。

律法の書に行なうように書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆 呪われている。
申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4))27:26)

と聖書に書いてあるからです。律法によってはだれも神の前で正しい者とされないことは 明らかです。なぜなら 

信仰による正しい人は生きる。
ハバクク書2:4)

からです。律法は 信仰をよりどころとしておりません。しかし 

律法の定めをはたす者は その定めによって生きる。
申命記 (デイリー・スタディー・バイブル)21:23)

のです。キリストは わたしたちを律法ののろいからあがない出してくださいました。――

木に懸けられた者は皆のろわれている。
申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4))21:23)

と聖書に書いてあるのです。――それは アブラハムに与えられた祝福が キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり また わたしたちが 約束された聖霊を信仰によっていただくためでした。

  • オホハツセワカタケのスメラミコトに〔見ることを〕与えられた聖霊は スメラミコトの子孫であるわれわれに約束されており これをわれわれが 律法=共同観念夢によってではなく その約束における信仰(共同主観夢)によって受け取るためであった。
〔3〕 キリスト者の自由(5:2−15)

さあ わたしパウロはあなたたちに断言しますが あなたたちが割礼を受ける

  • それは 割礼=踏み絵を踏むことというよりも 人に踏み絵を差し出したり これに加担したり また そのようなことを行ないながら それを知らずにすごすということ。踏み絵を止むなく踏むというその現象的な行動という意味で 割礼を受けることじたいは どうでもよい。

なら キリストはあなたたちにとって何の役にも立たない方になるのです。割礼を受ける人すべてに もう一度はっきり言いますが 割礼を受ければ 律法全体を守る義務があるのです。

  • だから 途中から 共同観念夢の義理と人情を抜け出すということはできない相談である。たとえ過去に踏み絵の儀式につらなったとしても その後初めて気づいたときに その共同観念夢の網をいかに捉えるか 遵いながら これへの宗教的な信仰(観念共同和。無宗教だという信仰)へとは導かれないかが 問題となる。

律法によって正しい者とされようとするなら あなたたちは誰であろうと キリストとは縁もゆかりもない者とされ いただいた恩恵も失います。わたしたちは 正しいとされた者の望みが実現することを 聖霊により信仰(異和の補償力)に基づいて待ち焦がれているのです。

  • だから わたしは言うが 共同観念夢の象徴とされるアマテラスその人の祖先 オホハツセワカタケのスメラミコトに この恩恵の約束がなされたのであって――ワカタケがこの約束をどう受け取ったかはわからない―― この望みの実現は 共同観念夢の社会をとおしてその子孫に約束されているということは 共同観念夢形態によって正しい者とされその恩恵を保持するということ(それは 誰もが不可能)とは 二つの別のことになる。後者は 前者の異和のなだめられたかたちの幻想共同的な実現 すなわち恩恵の喪失によるそれにほかならない。

キリスト・イエスに一致していれば 割礼があるかないかは問題ではありません。愛の実践を伴なう信仰こそ大切なのです。

  • 《キリスト・イエスに一致していれば》とは 共同観念夢をとおしてその向こう側の・オホハツセワカタケの《我が大神(ヒトコトヌシと呼ばれる神)》とその御子なる神(オホタタネコと呼ばれる神)に一致するようにして 類型的な形相の表象としてはそのようにして キリスト・イエスに一致していれば ということ。
  • 《割礼があるかないか》とは 律法集団=共同観念夢による自治への信仰(まつろひ)または服従があるかないか ということになる。これは 夢のどうでもよい部分だと考えられる。
  • 原理の約束における信仰が大事であり 《愛の実践をともなう信仰》とは 共同観念夢への不従順が 時に その観念共同夢の奥なる存在への従順となって かの聖霊(オホモノヌシと呼ばれる神)を受け取り 恩恵を失わない信仰につながる。このとき 《神は愛である》から これは あたかも神を知るというよりは神に知られるというようにして 自己と他者との愛に導かれる信仰となって生き 割礼の無・観念共同和への不従順が 共同観念夢の社会の実質的な愛としてよみがえることを言っている。そうでなければ 割礼の有・観念共同和へのなだめは ヒトコトヌシ / オホモノヌシ / オホタタネコなるそれとして三位一体の神(ないしその似像)を 律法の上でかたちだけ祀ることになる。すなわち もはや いつきまつらないことになるばかりではなく その恩恵を故意に喪失させようとしていることになる。
  • オホハツセワカタケのスメラミコトの子孫として この三位一体の神を信じて 生きた(死んだ)英霊たちを 共同観念夢の統治者のもとに いまの靖国神社に まつるということは 律法の実行ではあっても 愛の実践を伴なう信仰による祀りであるとは言えず それは共同主観夢のなかに 言いかえると 出身地の各ムラのヤシロに祀ってこそ 共同観念夢の社会の・共同主観夢にみちびかれた存続を 象徴することになると思われる。
  • 共同観念夢(国家という社会形態。また靖国神社)は 約束された共同主観夢の結果であり 結果の次元で祀ることは 異和の補償力(戦死者を生きた英霊とするということは 異和である)が 喪失されたとは言わないまでも あたかも下駄の上に靴を履いたその靴というかたちになって なだめられてしまっているか それとも そのように別様に(約束とは別様に)何ものかの覆いで包まれてしまうことになるから。こころ(共同主観夢)は 結果的にここにあったとしても はじめの約束による生きたかたちでは もはやここには ない。ということが はっきり分かるように現在では 国家の歴史における一段階に到ったと考えられる。

あなたたちは 立派に努めています。それなのに いったい誰が邪魔をして福音(約束された主観夢)の真理に従わないようにしたのですか。

  • アマテラス(アマテラシテ)体制=天皇制に従えとか これを打倒せよとか いったい誰が言うのであろう。天皇制は 一つの共同観念夢のかたちである。この制度がこれからどうなるのか 変えられていくのか これは仮りにわからないとしても この制度を一つの共同観念夢のかたちとして歴史を通して あの約束は有効でありつづけており 恩恵は神話に関する限り 少なくともこの今 ここからのみ われわれのもとへ実現するということにしかならない。
  • また その原理(はじめ)があらためて社会一般に認識され獲得されたとき 未来へ向けて 共同観念夢の一つの形態としての天皇制が 人間の社会にふさわしいかどうか おおいに議論をたたかわせていくであろうと考えられる。
  • だから 律法じたいを信仰せよとか いや信仰せず 反対せよとかの議論は いったい誰が言うのであろう。

このような勧めは あなたたちを召し出された方からのものではありません。わずかなパン種が 練り粉全体をふくらませるのです。あなたたちが決して別な考えを持つことはないと わたしは〔外交官として〕主と一致して信頼しています。あなたたちを惑わす者は 誰であろうと 裁きを受けます。

  • 恩恵を失わせるように勧めることは 何にも増して大きな罪である。もしくは そのような共同観念夢の崇拝者ないし逆に単なる弾劾者は スメラミコトの子孫としての存在をとおすかたちで 神の子とされたわれわれの恥部である。
  • 父なる神ヒトコトヌシと子なる神で人の子であるオホタタネコとを ただしく捉えていないからである。

兄弟たち このわたしが 今なお割礼の必要を宣べ伝えているとすれば 今なお迫害を受けているのは なぜでしょうか。そのようなことを宣べ伝えれば キリストの十字架によるつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたたちをかき乱す連中は いっそのことみづから去勢してしまえばよいでしょう。
兄弟たち 貴方たちは自由を得るために召し出されたのです。ただ この自由を 《肉》に罪を犯させる機会とせずに 愛によって互いに仕えなさい。律法全体は 《隣人を自分のように愛せよ》という一句を守ることによって果たされるからです。でも あなたたちは 互いにかみ合い 共食いしているなら 互いに滅ぼされないように注意しなさい。

〔4〕霊の実と肉の業(わざ)(5:16−26)

わたしが言いたいのは こういうことです。霊の導きにしたがって生活しなさい。そうすれば 決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは 霊に反し 霊の望むところは 肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので あなたたちは自分のしたいと思うことができないようになっているのです。しかし 霊に導かれているならば あなたたちは 律法に支配されていません。肉の行なう業は明らかです。それは 姦淫 わいせつ 好色 偶像崇拝 魔術 敵意 争い ねたみ 泥酔 酒宴 その他こういったたぐいのものです。以前言っておいたように ここでも前もって言いますが このような肉の業を行なう者は 神の国を受け継ぐことはできないのです。
これに対して 霊の結ぶ実は愛であり 喜び 平安 寛容 親切 善意 誠実 柔和 節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは 霊の導きにしたがって生きているなら 霊の導きにしたがって前進もしましょう。うぬぼれて 互いにそそのかし合ったり ねたみ合ったりしないようにしましょう。

〔5〕終わりの警告と祝福(6:11−16)

このとおり わたしは今こんなに大きな字で しかも 自分の手であなたたちに書いています。外面的なことで人からよく思われたがっている連中が ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに あなたたちにむりやり割礼を受けさせようとしています。割礼をすでに受けている者自身 実は律法を守っておりません。それなのにかれらは あなたたちの外面的なことで誇りたいために あなたたちにも割礼を望んでいます。

  • かれらは 一国の中ですべての人が共同観念夢の網の中に入ってこれを祀るなら そして踏み絵の不必要となるほどに皆が観念共同夢を見る者となるならば そうなりさえすれば あの神の恩恵の共同相続人と皆がなれると信じており 信じさせようとしているのだと思われる。
  • これは 神の共同主観がそう考えていないばかりではなく 当の共同観念夢の社会じたいもそのようには考えていないというほどに あやまった考えであろう。毒を食らわば皿までもと あの踏み絵の仕掛け網を 一般市民スサノヲに対してはもとより スメラミコトの裔としてのアマテラス者その人に対しても 時にちゅうちょなく 張りめぐらしているように思われる。
  • たしかに律法は ある種の霊であって ある種の秩序社会である。共同観念夢の秩序は 社会にとって ゆえのないものとはしない。しかし  これが 外面的・幻想的な社会秩序であることは 古代市民の神話の人びとさえ知っていたと思われる。《ヒトコトヌシ(父)-オホタタネコ(子)-オホモノヌシ(聖霊)》なる三位一体の神〔の似像〕の信仰(まつり)と これを 共同観念夢とする罪の共同自治(まつりごと)とは 別であるというふうにして。
  • この共同観念夢のまつりごとに入る儀式が 踏み絵であり 比喩的に 割礼を受けることである。

しかし このわたしには わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかには 誇ることが決してあってはなりません。この十字架によって この世はわたしに対し わたしはこの世に対して はりつけにされているのです。割礼があるかないかは問題ではありません。大切なのは 新しく創造されることです。このような原理にしたがtって生きていく人の上に つまり 新しい神の民イスラエルの上に 平安とあわれみがありますように。・・・

以上が ガラテアの共同主観者への書簡からの数節である。ローマ書あるいはコリント書などについては また別の機会を得たいと思う。
表題の《共同観念夢として慣習化されてしまった眠り》という点にかんしては かさねて次のごとく考える。
共同観念夢が――まず やしろの或る人に 原主観の約束が与えられ もしくは主観夢の共同化とその相続として与えられ その結果 《割礼》=《和を以って貴しと為すという観念和》というしるしが施され―― 掟ないし律法という形態のもとにその地上の国の共同自治を主張して 形成され あるいは そのように以前には《無意識》であったものが つまり主観の地上の(人間的な)範型として 時間的に認識され再形成されてゆき
ひとつに 国家(アマテラス‐スサノヲ連関体制)といった社会形態として確立された そしてこの国家形態としての共同観念夢に 現代においても 型式化された慣習の罪の共同自治の一システムといったもののひとつの大きな原因があるであろうことを述べたことになる。ここでは詳しく触れえないが 国家という社会形態の次への移行が もしスサノヲ主導のそして その上にアマテラス圏が もはや初めの成立の事情にふたたび即して 第二次的・仮象的に必要である程度でのみ のっかるという形態 すなわち スサノヲ(主導)‐アマテラス連関制へと移行することであるとすれば それは 共同主観夢が 共同観念夢への寄留形態を一段階として終えてのように その主観夢の共同化としてのくに(やしろ)を形成して行くと考えられる。詳しい議論は おおかたの議論に委ねることにもしたい。
また いづれにしても この時 人間は変わるという主観夢の認識(いまは予感である)が 生きるものと考える。