caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

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ヤシロロジ(市民社会学)と時間

36 国家という時間意識を超えて

真木悠介時間の比較社会学 (岩波現代文庫)》の〈二 氏族の時間と国家の時間〉は 国家成立の前後の過程を 理論的に再構成して把握しようとするものである。われわれはこれを割愛して  〈三 世間の時間と実存の時間〉に移る。
ここでは 《古今和歌集 (岩波文庫)》の歌うたが取り上げられ論じられている。だから 国家形成からその集の成立は 二百年ないし三百年ののち また歌うたは 万葉集以後のものということである。

国家成立の以前以後

いづれにしろ 《やしろ》の時間が 《A圏(ツクヨミを含む)(スーパーヤシロ)‐S圏(ヤシロ)》の連関形態から成る構成 つまり国家の形態 つまり《市民(スサノヲ)と公民(アマテラス)》との原則的な分離連関としての動態へと 形成され確立され それ以後 その安定的な時代に入って どう変化したかを――歌によって――把握しようとするものである。結論的に著者はこう述べる。

・・・万葉の各分類の巻頭におかれた《規範歌》こそは

  • つまり 誰もが国家の一員として在る時間のその意味で望ましい・またはすでに現実的となった形式をあらわす規範歌こそは――引用者註。

時間のうちに生成するものの《分類の原理》としての恒常性 すなわち原系列(トーテム)に他ならなかった。それらは 古代社会の《現代記》としての万葉の本文中の歌群と対峙して 規範としての《古事記》の時代から移植・分祀され 《相聞》や《挽歌》や《雑歌》における人間の生のよろこびや死のかなしみの情念を分類する恒常の原型をなした。

  • この意味で ヘレニズム都市国家におけるような円環的な時間意識が確立されたと言ってもよい。ただしそれは 《情念の分類》などというように 日本的にあるいはアジア的にであるが。

それはまさしく 家持の感性においてみてきた(省略)ように その一切の神話とともになお生動しつづけていた氏族の共同体からの

  • つまり《反復的な時間》の原始共同体の類型である。ただし 先に引用して挙げた人麻呂の歌に見られるように その時にはすでに  《不可逆的な時間》も見出されたと言わねばならないだろうが。その氏族の共同体からの

たえざる吸血のうえに花開いていた白鳳・奈良の古代国家の 時間意識の構造を映す構成に他ならなかった。

  • ここまでは 大雑把ながらすでにたどってきた事柄である。

古今の――古今和歌集の――構成がもはやこのような構造をもたず

  • われわれは これを 《もたない》のではなく そのように《もたない》とさえ見られるがごとく 潜在的な一つの時間形態の大前提となったと言おうと思う。そうして

むしろこれとは対照的に 抽象的に客観化された《時間》のわくぐみとしての暦制を準拠においていたということは 少なくとも平安貴族の 《野生の思考》からの離陸と 時間・内・存在としてのその生世界の存立をよく証言している。

  • 抽象・客観化については 古事記万葉集の中になかったかといえば 必ずしもそうは言えない。上(35節)に取り上げた人麻呂の歌のように 擬人的な表現形式を採ってはいるが という条件で。
  • 暦制は 国家形態において 《一日》の概念把握にあやまりのある無しを問わず より広くより一般普遍的な時間観念を作ると考えられる。
  • 平安貴族は むろん古今集の享受者である。
  • 最後の結びについては つまりわれわれの視点からは 国家という円環的な時間の中で そのように抽象・数量(時刻)的な時間観も 支えられるようにして生まれたことと見たい。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫) pp.145−146)

この帰結は 現代の視点に立って どう捉えればよいか。
一つには 図式的にいえば これらの時間意識が現代にまで 過去のこととしてにしろ現在としてにしろ 受け継がれてきていると見るならば すでに行論の中に註解したように またすでに現代日本の・世界史の中におけるすぐれて特徴的な事柄だとして見ようとしたように 時間意識の四つの基本形態 これらが 綜合されて その意味で現在の問題として 混在しているであろうと思われることである。つまりこの後 歴史の推移とともに 近代市民のもとの直線的な時間も 十全に摂り入れられたとするなら そのようであり また このことは ひとり日本社会にのみ見られるなどということを言おうとするのではなく 生成ないし摂取の度合いあるいはその仕方が おそらく世界の他の社会にもまさって すぐれて実質的な生きたかたちとなって現われているのではないか まずこのことを単純に確認したいという思いがある。

  • 国家成立の以前以後において それぞれ 《氏族の時間》たる反復的な時間意識と そして円環的なそれとが 見られ また継承されてきているであろうと見られるなら――さらにあるいは これらの過程的な時期をつうじても 不可逆的な時間意識が存在したであろうとも見られ その後 西欧流の直線的な時間意識が移入されたと見られるなら―― これら四つの基本形態は むしろこの日本社会の中に すぐれて現在して混在されているであろうと考える。
  • いま論証はなさないが たといそうでなくとも 現代の課題はそれであると考える。この課題としての認識は いま前提として進めてきたものである。
国家というヤシロの形態における時間

そこで もしこの前提をもって 書物に則して いくらかの例証を 現代の視点からも 見てみようと思うなら 次のごとくである。
古今集以後の歴史については空白が生じることになるが これまでの議論とともに 歴史の時間におけるあの原点の展開 あるいは 現代的なその確認をもって しめくくろうと思う。
著者は 古今集の時間意識では――それは ここでわれわれは 国家形態のなかの存在としての時間観が 一つの安定した・そして時にすでに形骸化もした意識形態だと見たいのだが。しかもこれは 現代とも共通でないとは言えないと思うからだが この古今集の時間意識では――  《観念化・抽象化・物象化》とは まず国家という枠組みの成立によるものであり その枠組みの中の暦制(それは もちろん労働にも関係する)によるということからであり 《物象化》とは貨幣経済の浸透にもよるであろうと言い このような主題とともに さらに別に  《こころ ないし 対(つい)の関係 ないし 性関係》の主題についても これを取り上げ論じている。これらのテーマは いづれもやはり現代的でもあろうが ここでは最後の点を取り上げ 論じることとしたい。

  • 貨幣は やはり抽象普遍的でもあり その意味で一つのアマテラス概念である。
性関係をめぐって 国家形態における時間

《こころ ないし 性関係》について 時間の基本的な四つの形態が どのように現われ推移し また現代とどのようにかかわるか これである。
まずはじめに 順序を逆にするかのごとく 著者が次のように論じるとき そこにはすでにこの時代に あの直線的な時間意識の萌芽が しかしそれは当然のごとく あったと言おうとしている。

濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば
古今和歌集 (岩波文庫) 133)

もまた〔このように〕 消尽してゆく人生の時間とのたたかいの意識の濃厚な歌である。
時に感動することはあっても時間を対象化することのなかに初期万葉以前の人びと さらに時間に傷心することはあっても 自己の未来に向けられた恐怖のなまなましさとして実感することのほとんどなかった後期万葉の歌人たちとも異なって ここでは 自己の未来に向けられた時間意識の恐怖としての老と死との心像が 個我の意識と自立の影として 花月にふれる感動をいつも独自の仕方で立体化してしまうような固有の奥行きを構成している。
時間の比較社会学 (同時代ライブラリー (325)) pp.139−140)

というようにである。そこで 全体として《・・・性関係と時間意識との相関は・・・当時の官人貴族の しばしば政治的地位をもふくむ全人生的な規定力をもちながらしかも独自の不安定な形態をとった性愛関係が 特有の実存的な色彩をおびた時間意識を歴史の中にうみだした要因の一つでもあった》(p.142)と前置きされるテーマについてである。
この点について 著者は 在原業平小野小町のそれぞれ歌を掲げて論じるのだが まずおおむね著者の評価は ネガティヴな側面に傾く。

  • この点 暦制や貨幣経済の生成・発展などにかんして これまでわれわれの側の認識も どこかそれに対する否定的・対立的な側面のみ強調した結果となっていたなら これについては 慎重に まずそうではないと言わなければならない。それが 時間観の充実や好転をよくもたらしたのだといった反対の極の側の認識をも避けるべきだが 一般に 過去から非連続に連続して受け継がれてきている事柄に対して そのいまある意識を 再構成しようとすることはあっても 存在することじたい これをまず否定しようとは思わないし また これはできないことである。
  • そのもの(暦制や貨幣経済)の中に潜むアマテラス語の主導性をよく捉え それを自己のもとに置くがごとく さらにこれを再構成しようというのが われわれの主張である。

だが ともあれ ここでは歌に対する著者の評価とは逆に ポジティヴな面をも取り出して それらを見てみたい。そうして 総合的な評価が得られることと思う。著者の捉えるところは 次のようである。

今はとてわが身時雨(しぐれ)にふりぬれば言の葉さへに移ろひにけり(古今 782)

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありけり(797)

秋風にあふ田の実こそかなしけれわが身むなしくなりぬと思へば(822)

わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(938)

小町のこれらの歌のあやなす技巧のうしろには 時代の性愛関係が そのつどの残響する倍音のように個体のうちに刻印し蓄積してゆく 固有の時のながれの意識のいたみが顔をのぞかせている。
古今の貴族社会の愛の多角性と一時性 非・自然化(ソフィスティケート)された遊戯性が 対者との《生きられる共時性》からのその都度の余白のように 個体の時間意識を析出してしまうのだ。

月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(747)

という業平のよくしられる歌も 自然の時間からの実存の時間の剥離を切実たらしめるよすがとしての 《対(つい)》の関係の非条理を言外に指し示している。
時間の比較社会学 p.143)

これに対してわれわれは いま時間観を総合的に一歩 進めたいということであった。
これまでの いささかぎこちない前提的な紹介を振り払うように 一歩 進めたい。つまりここで ある意味で著者の視点とは逆に このような《時代の性愛関係から ふと離れてひとりいるとき 浮き上がるようにして顔をのぞかせる固有の時のながれの意識〔のいたみ〕》 あるいは同じことで 《貴族社会=A圏の 愛の多角性・一時性・遊戯性が 相手との共時性から 個体の時間意識を しらじらと析出してしまうこと》 あるいはさらに  《自然の時間(スサノヲもしくは プレ・スサノヲ)から実存(アマテラス化するスサノヲ)の時間を剥離するがごとくこれを獲得し――それは 国家形態という一つの市民権 / 公民性共同の時間が あずかって力あった―― そこにおいて〈対〉の関係を 実存的に・〈聖〉性をつちかおうとするがごとく きづきあげたいというとき 顔をのぞかせる愛の非条理性》等々 これらが わたしにはしかし あの永遠の感想への一過程であって そうでしかないと思えるこのことである。

  • 愛の非条理性は 一般的に言って A圏の・つまり もっぱら抽象普遍的な公民であろうとすることによるA者としてのものだと考える。条理を自覚する前の情況(スサノヲ以前=プレ・スサノヲ)については いまの議論に入っていない。
  • この愛の非条理性を見ることは 永遠の観想への一過程だということ これは もちろん 負の事態からの再起の過程としてである。れっきとした罪であり あやまちであって そこからの再生である。

一歩進めるべきは これゆえにであって これを正当にも明言して述べるべきであると思う。だれか この役目を引き受けねばならない。
繰り返すなら 《すでに自然の時間から実存の時間を持とうとして模索するとき しかし そこには〔殊にA圏の住民 貴族なるA者としての時代の性愛関係 すなわち その多角性・一時性・遊戯性あるいは非条理性のなかで あたかもそこからしらじらと析出されてくるような 一人ひとりに固有の時のながれの意識とその痛み つまりそこでこそ個体の時間意識が 剥離されたように 獲得されるということ》 これは一般に スサノヲ者のアマテラス化の過程の一段階であって あの永遠の観想がつらぬかれる必要があるということであるいわゆる実存の時間ということである。これはまさに 現代の問題である。しかるがゆえにである。
言いかえれば 直線的・線分的・円環的および反復的なそれぞれ時間類型といった知による分類は――もちろんそれは 一つの手段であり理論過程の一端であるが―― しかし あの顔蔽いを採らずして普遍概念によって構築する二枚目のうた つまりそのような時間論たる学的いとなみであるにすぎないということ。したがって そうではなく 逆にこの顔蔽いを取り除き 永遠への観想 つまり自己の時間の内面へ顔を向けるということ この時間過程を 明確に述べつつ 人はその人生を敢行すべきである。これが 時間形態の総合的な議論でなければならないと思う。そしてこれを まさしく現代の時間論の問題だと言っていいのではないか。
そこでまた 顔蔽い(たとえてみれば現代人としての 同時代人であることの互いの照れを隠すこと)が 時に 古代日本の社会にもある意味で共通であったろうと見るとき このような歴史のさかのぼりをも超えて そのまま共通にこのペルソナ(仮面)をあてはめて ながめ捉えるという時間意識なる結果になっていはしまいか。顔蔽いを取り除かずしては 直視はおろか あの観想はかなわないであろう。時間論は この永遠の観想(テオーリア)なくして その行為(生による生きた動き)はおろか その理論(テオーリア)もかなわないであろう。このとき悪い結果としてわれわれは 鏡をとおして もしくは 鏡から 見ているのではなく この鏡そのものを見ているのである。

  • 精神分析学の方面からは 日本人のナルシシズムが指摘されている。また いわゆる甘えもここから来ること 請け合いである。

もっと簡単に言うと 《愛の多角性と一時性(むろん裏切りとしての浮気性のこと) 非・自然化(ソフィスティケート)された遊戯性》 これは ヤシロないしスーパーヤシロにおけるその罪の共同自治様式としての鏡である。鏡に映った像そのものである。人は この鏡を 自己のペルソナとするごとく(そこに甘えて) 顔蔽いを着けて 互いにアマテラス化したスサノヲになったかのごとく もっぱらのアマテラスと化すのではないだろうか。これを アマテラス予備軍とも言う。

  • 甘えという罪を知っているゆえに 顔を蔽うのである。これは 愛を形成すべき他者への思いやりにまで発展する。どんなときでも 《気をきかす》ことが 罪の共同自治なのだと錯覚されるまでになろう。その出発点が まちがっていれば どこまでも やはりよそよそしい。

同時代人としての あるいは 同地平人としての(つまり 同じ時間意識を互いに持つと考えるときの)照れ隠しが 気を利かすとき それは 《その共同の時間意識から しらじらと脱け出たかのごとき 個体の時間意識が 析出される》のではなく ほんとうにはそうではなく 《しらじらとしたものは 実は はじめの顔蔽いであって それにしかすぎない》ことを――だから そのように 時間を 内(自己としてのペルソナ)と外(鏡ないし顔蔽いとしてのペルソナ)と あるいは 上(A語)と下(S語)と それぞれ互いに倒立させて あべこべに見ているのだ このことを――物語っている。
S語では あるいは 内なるペルソナ(個体)としては 実はかれは 実存の時間を真に見ている。すでに見ている。(すでに 永遠の観想を ほんとうは見ている。)少なくとも見ようとしている。欺かれることを欲する人は ひとりもいないから。しかし かれの時間観は あの顔蔽いを着けて 出てくる。ここまでは いい。誰もこれを避けられないかもしれない。ところが そのとたん かれは この顔蔽いを 自己のペルソナそのもの つまり実存の時間であるかのように思い ここから これを出発点として これが理論化 これが理論的な精緻化を アマテラス語のもとに 企てる。かくて このA語が 大手を振って まかりとおるのである。うまく丸めこめれば すべてが勝ちだとされている。
だから これとは 逆に S語を自己のもとにしっかりと保つべく  《時間が自己の思念の領域のなかに 倒錯したA語としてすくむことのないように》とは このことを言っている。《誰が思念を見ないであろうか。誰が思念を見るであろうか。誰がそれを見るであろうか。》

わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水のあらば いなむとぞ思ふ (938)

《時代の性愛関係が そのつどの残響する倍音のように個体のうちに刻印し蓄積してゆく固有の時のながれの意識》 その思念ではある。しかし誰が この意識の《痛み》と言って 死者(この歌の作者・小野小町は死者である)の復活を阻もうとするのか。誰がなおも かのじょに顔蔽いを着せようとするのか。だれがそれをするのか。この歌人は 自己の思念を この歌をあらわしたことによって このあとすぐに 見なかったであろうか。かのじょに ただちに スサノヲ語の実存の時間が 《言外に》あらわれたことを――しかもそれは もはや しらじらとではなく 自己のこころの真実を見てのように 現われたことを―― 誰か見ないであろうか。見るべきである。これを読む自己のうちの《死者――顔蔽いなる自己の思念を 自己そのものと思いなした者は 死者である――》を放っておかないためである。死者のために祈るとは このことのほかではないと思う。それは どこから見ても いま現在するわれわれの主観の問題であるように考えられる。

  • 人は この永遠を見よ。

《あなたたちに対する誇りにかけて言いますが わたしは日々 死んでいるのです》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 15:31)と言うその人が アマアガリ(実存)の恩恵とともに よみがえらないと誰が言うであろうか。《日々 死んでいる》というのは 《日々 よみがえっている》ということと同じでないなら 時間論は何を理論すべきであろうか。スサノヲの生きた時間 あるいは広く主観 そのスサノヲイズムは 国家という社会形態(その時間意識)に対して 何も主張すべきものは持たないのだと 誰か厚かましくも述べるであろうか。鏡を突き抜けて これをとおしてあの永遠の観想を持とうとする・誰もがそうするその道をはばむ最後の砦は この国家という時間なる鏡ではないだろうか。先走りするかのごとく はっきりそう見るべきではないだろうか。

国家の終焉

国家形態が やしろの鏡である時代は そろそろ終わった こういうことなのではないだろうか。業平も小町も なおそこに しらじらとした時間のながれを持たなければならなかったとしたなら それは かれらのある種 A圏の住民性 つまりもっぱらのA者であろうとすることの倒立性に現われているというように しかしそれは より本質的には 国家(つまり A-S連関体制)という時間なる鏡の閉塞性 ここにその原因は問い求められなければならないと。それは 身体的に言って スーパーヤシロの主導性が終わったということ またより内実的に このA圏の癒着する罪の共同自治主体つまり官僚(ツクヨミ)が スサノヲ圏に住所を移してこのS圏にこそ奉仕するということ したがって《A-S》連関体制は ただしくスサノヲ主導の《S-A》連関形態へと――なお国際関係上 A圏を残すも――発展的に移行するということ ここが スサノヲのよみがえりでなくして なんであろう。そうでなかったら なんと言うべきであろう。
生きた時間 すなわち自由 これが 現代人の時間意識と言えば時間意識 すなわち独立主観 つまり生きた客観 であると説く所以だと考える。この道はすでに用意されているのだと思われる。
われわれは ここにわれわれの時間観を示しえたと思う。強引にも よみがえる(amaagari)道を模索し 罪を悔い改め(――顔蔽いを被った・アマテラス語の思念を着た・倒錯した旧いアマテラス者が 自己のもとに 死ぬのだ。このA語は 律法のことである。自己のうちなるA者が死ねば S者としてよみがえると思われる――) 再出発を期す。その道はすでに 示されているのだと考える。誰もこれを 疑うべきであって 否定することはできない。すでに受け取ったなら この自由を一人ひとり 時間の過程として現わしていくことができる。また 単位社会を考え そのやしろとしても それぞれの民族社会の問題として その歴史的な時間意識を踏まえて あたらしい継承をはたしていくことができる。時間の比較社会学からは そのような方向が読み取れる。 
(《ヤシロロジ(市民社会学)と時間》はここで終わり)