caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

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ヤシロロジ(市民社会学)と時間

35 時間のあたらしい構成に向かって

古代日本人の時間意識をめぐって すでに 国家という社会形態の歴史的な移行の問題に入った。かんたんにしか触れることができないが 著者・真木悠介の具体的な議論をも取り上げながら いくらかいまの社会形態としての時間観についてその内容を捉えておきたい。
著者はここで 《万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)》の歌うたを取り上げ そのいま論じる時間意識についての見解の裏づけをおこなう。われわれはここで 一歩を進めて 出来るだけ現代の視点にも立って それらの歌を読んでいきたいと思う。

玉たすき 畝傍の山の
橿原の ひじりの御代ゆ
生(あ)れましし 神のことごと
栂(つが)の木の いや継ぎ継ぎに
天の下 知らしめししを
そらにみつ 大和を置きて
あをによし 奈良山を越え
いかさまに 思ほしめせか
天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど
石走る 近江の国の
楽浪(さざなみ)の 大津の宮に
天の下 知らしめしけむ
天皇(すめらき)の 神の命(みこと)の
大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども

春草の 茂く生ひたる
霞立つ 春日の霧れる
ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも
万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 巻一・29番)
楽浪の志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ(一・30)
楽浪の志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまた逢はめやも(一・31)

すなわち大胆に 《大宮(大宮人)・昔の人》がツクヨミすなわち官僚であり いま《国家》形態から別の社会形態への移行に際して  《ささなみの志賀の唐崎はそのまま遺っていたとしても》 そこは もともとかれらの住む場所ではなかった――その意味で《S-A》連関が倒立していたのである――ところの主導者としてのA圏には かれらはもはや見出せないであろう これである。 《ここでは長歌 反歌をとおして 自然との対照において 人間の時間――歴史と人生――の不可逆性がうたわれている》(p.102)と著者によって指摘されることは 現代の視点に立って こうであるとして 生きた主観を形成したと思うのである。官僚制が 形態移行すると考える点である。

やすみしし 我が大君
高照らす 日の御子
神ながら 神さびせすと
太敷かす 都を置きて
こもりくの 泊瀬の山は
真木立つ 荒山道を
岩が根 禁樹(さへき)押しなべ
坂鳥の 朝越えまして
玉かぎる 夕さり来れば
み雪降る 安騎(あき)の大野に
旗すすき 小竹(しの)を押しなべ
草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)一・45)
安騎の野に宿る旅人 うち靡き 寝(い)も寝らめやも いにしへ思ふに
(一・46)
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
(一・47)
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
(一・48)
日並みしの皇子(みこ)の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向かふ
(一・49)

《我が大君・日の御子・日並みしの皇子》はいまから思えば 近代スサノヲ・キャピタリスト(かれらが A圏にあることを思えば アマテラス・キャピタリスト だからかれらは すでに市民政府を建て 《真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして》来た)であり このとき 《玉かぎる 夕さり来れば》《安騎の野に宿る旅人》は 《いにしへ思ふに》《寝も寝ら》れず――なぜなら 《日並みしの皇子のみことの馬並めて み狩り立たしし時は〔われわれ新しいスサノヲ者のあいだに 復活するごとく 時は〕 来向かふ》からだ。このよみがえりとともに―― 新しい《一日》を告げる《かぎろひ》が《東の野に立つ見えて かへり見すれば 月(ツクヨミ)かたぶきぬ》ゆえ この不可逆の時間経過とともに ある観点からは 国家以前の時間へと可逆させようともしつつ 時間の新しい構成へとむしろ踊り出してゆくのであるかもしれない。こういったとき 《見よ 今は恵みの時である。見よ 今は救いの日である》というのは 正しいと思う。つまり 留意されるべきだと思う。真木悠介は こう評する。

《東の野にかぎろひの》の歌が もはや近代人の考えるようなたんに雄大なる叙景の歌ではないことはいうまでもない。かたぶく月と昇り来る日のシンボリズムはいうまでもないが 悠久の自然のうちに このように回帰する《時》のたしかさへのあらためての覚醒を背景として  《時は来向かふ》の歌は一気によまれることになる。それは過去・未来・現在をその一点の《時》に収束することによって歴史的時間を撥撫し 神話の時間を再現せんとする呪歌である。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) p.10)

われわれは 上に述べたように解した。《神話の時間と歴史の時間》とが われわれの生きた主観において 重なるものとしたからには。そうでなければ 《歴史的時間を撥撫する》意味は アマテラス語の科学としてはそのように より精緻に再生産されてゆくことはあっても 知によるのではなく生による解放= 主観の確立は またあとへと延び延びになってしまうからである。《今が恵みの時》だから。

  • それでは 主観の恣意的な確立でないという保証・つまりその意味でまさに主観的な確立でないという保証はあるかと問われて あると言おうとするのではなく 歌の解釈にはそれが成り立つことも可能であるといったほどの意味である。

(つづく)