caguirofie

哲学いろいろ

第一部      第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

ヤシロロジ(市民社会学)と時間

32 原点を過程する時間的存在

推論の難しくないところで もはやわれわれは 恣意的に議論を引っぱってきた。その議論をわたし個人の考えによって勝手に引っぱったのではないことについては 少しでも明かしていきたい。具象・質的なそして歴史的な時間として 先人のことばを引きつつ 思惟を運ぼう。

私たちは顔蔽いを取り除いて 主の栄光(共同主観の原理である)を鏡に映すように見つつ 栄光(共同主観・その時代の)から栄光へ あたかも主の霊によってのように(なぜなら 生・時間の最終制作者はわれわれではない) 同じ似像(《〈永遠〉が 時間的存在=肉となったその像》の類似)に変えられるであろう。
パウロコリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:18)

永遠 また永遠の像(あるいは 神の背面)すなわち キリスト・イエスを見ることは われわれに難しいかもしれない。信じるという状態がつづく。しかし この書簡の著者パウロは われわれと同じ時間的・歴史的な存在であるにほかならない。キリスト・イエスもまったく同じ人の子であった。同じ人間がかつてこのように生きたという時間は 人間の言葉・人間の有(もの)であって 人間の言葉まで・人間の有までである。時間論が 人間の思念――それは 人間の能力・行為として具体・実態的ではあっても 論理実証的な精神とともに 抽象・仮象の・しかもそれじたいは普遍的な概念とその操作に陥らないとは言えないその思念――によってのみ運ばれ この思念じたいを・またはこの思念をとおして見ることのないとするなら それは そのことによって ある種 時間の呪縛のなかにすくんでしまわないとは言えない。
なぜなら アマテラス語の思念による抽象・普遍的な展望の理論は そこに主観の運動がないからである。言いかえると 主観ないし自己は その場合はこのアマテラス語の領域にのみ参与しているにすぎない。これは 主体的な生きた時間を論じつつ しかもその時間の蔽い(アマテラス者というペルソナ)の中に論じて むしろその時間論は 自己の時間の呪縛となるであろう。

  • あるいは 呪縛を取り払おうという呪縛のような言説になる。おれは 呪縛を取り払いたいのだという呪言。

客観的な展望であるのだから 呪縛にはならないとはならない。人びとは このアマテラス語の展望を 蔽い(二枚目)として着るかのごとく その限りで観念的なスーパーヤシロ次元から届く時間観念の共同性へと あのマツリゴトの次元で 導かれていかないとは言えない。
もし 時間論が思念の操作による――そう思っていなくとも――その時間的な思念の呪縛にすくむことのないようにするためには この《顔覆い(照れ隠し=二枚目気取り)を取り除く》時間論が より生産的である。愛欲を自由に語って そこから自立するという場合 二枚目では難しいことがある。これは この主観は――たしかに主観は―― 《あたかも主の霊によってのように》 具体・普遍的であろうとしており(なぜなら 人は誰も 自己ないし自己の神を持つ) さらにいま《鏡をとおして謎において見る》であるがゆえにそこに見られる主の霊に属(つ)く人びととともに(それ以外ではありえないだろう) 生きた客観(つまり共同主観)なのである。

  • われ考えるゆえにわれありというアマテラス語の世界は そのアマテラス概念をとおして見ることでなければ 顔覆いとなると思われる。あるいは 鏡そのものを見ている。
  • 逆に この《鏡をとおして見る》という裏打ちは 《不可逆的・線分的な時間観》としてのヘブライズムに対するだけではなく 他の三つの時間意識の形態に対しても 同じようにあてはまるものでなくてはならないであろう。強引であるかもしれないが すでに結論づけてよいと考える。

すなわち 一方で 時間意識の第一・つまり原始共同体の反復的な時間については 逆に この上に述べた裏打ちが むしろ 必ずしも明確になされていないかとも捉えられる。もしくはある種 先行的な裏打ち形態として為された時間意識の第二 つまりヘレニズムの円環的な時間については すでに裏打ちされた現代の視点からこれを捉えるということにならざるを得ないであろうし また他方で 裏打ち後の近代社会の直線的な時間については これら四つの時間形態の綜合される場として 以下においても全体として 論じ続けるべきであろうと考えられる。

  • ヘレニズムの円環的な時間にかんしては 《ヤシロ‐スーパヤシロ》連関からなる国家という社会形態の《円環》という一基軸において やはり全体としての考察のなかに 問い求めていくことにしたいと思う。

しかしその前に 次の点にかんしても 明らかにされねばならない。アマテラス語・その概念は そのまま一義的に 顔覆いをこうむるものであるか これである。アマテラス語理論は すべて二枚目気取りとなってしまうものなのか。

33 原点の時間的存在とは 主観のことである

抽象観念の普遍性を追求するアマテラス語の問題の前に われわれは これまでの論述に対して 自己の時間の裏打ち あるいは裏打ちされた自己について 問い求めておかねばならない。
すなわち 次のように語ることは 飛躍のしすぎであろうか。あるいは 社会のほうが すでに顔蔽いの問題として 行き過ぎているのではないだろうか。問い求めの途上にありつつも すでに見出した者のごとく語るとするなら 次のごとくなのである。問い求めの場については これを見出したと言わなければならないと思うからである。
《われわれは 神の奉仕者として 自分たちを ただしく勧め》たであろうか これである。キリスト・イエスを愛し かれの栄光の中にいるわれわれのわれわれ自身の姿を示しえたであろうか このように主観的に問わなければ 何も始まらないと考えられた。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは 神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって あなたがたは もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは 代価(十字架)を払って 〔祖国へ〕買い取られたのだ。それだから 自分のからだをもって 神の〔祖国の〕栄光をあらわしなさい。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 6:19−20)

だから この神の栄光(共同主観の原理)を われわれの身体(時間的主観 の共同)で示すことに努めえたであろうかと。時間的存在であるからには いま 始められるべきなのか。また 時間的存在であるにかかわらず 終わりなく 栄光から栄光へ 棕櫚の枝(主の国から召されるという賞)を求めてのごとく 人間の旅路を歩み行くものなのか。しかしきみは はじめに召されたから これを受け取ったから 時間的な巡礼の旅を 独立主観において歩み行く存在となったのではないのか。そうではなかったのか。
きみはこれが 時間論だと言うであろうか。われわれは ヤシロロジ(市民社会学)における時間論(自我論・関係論をそこに宿す)を示しえたであろうか。
この言葉 いま上に述べたすべての言葉 これらは 正しく人間の有としてではなく 足の生えた思念=アマテラス語商品としての人間の有(これも 人間の栄光である)となったまま 幻想再生産されてゆくことのほうが 本当であろうか。
脚で立った人間の有としての思念ではなく それじたい足の生えた幽霊によって われわれのあの祖国が侵略されたままでいてよいと言うのは 不従順の子ら アマテラス予備軍である。
だからわれわれは 《知恵ある者を責め》ることを欲した。あるいは  《知恵のある者の知恵を滅ぼし 賢い者の賢さをむなしいものとする》ことを。だからいま さらにこの問いを問う。《顔蔽いなくして》その勧める仕事をなしえたか。生きた時間論を提出しえたか。

ところが 神は 知者を辱めるために この世の愚かな者を選び 強い者を辱めるために この世の弱い者を選び 有力な者を無力な者とするために この世で身分の低い者や軽んじられている者 すなわち無きに等しい者を あえて選ばれたのである。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)1:27−28)

つづけて使徒は 《それは どんな人間でも 神の御前で誇ることがないためである。》(Ⅰコリント 1:29)と述べているように 時間論は 永遠論と切り離されて論じられるべきではなく 祖国に向かって帰るがごとく旅するこの時間の中で 時間的につまり はじめあって終わりあるがごときものとして 神の前に あたかも父から得る棕櫚の枝を走り求めてのごとく わが身をむしろ誇ることを欲してのように〔時間論は〕始められるのだというべきなのか。《〈欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたもう神による〉(ローマ9:16)のは わたしたちが欲するものを獲得し 欲するところに到達するためである》*1といわれるゆえ。

アマテラス語天使たちをわれわれに仕えさせる

しかしわれわれは ひるがえってアマテラス語の思念(言葉・思想・人生観・ことわざ・教訓等)が ただ単に蜃気楼ないし空中を駆ける幽霊であるのではなく 神の御使い・天使・光の天使でもあることを知っている。これは 《悪魔でさえ自分を光の天使に擬装するのです》と言われるような天使でなく またはそれとしては同じものであるところの 神からただしく遣わされた天使としての・人間に有益な思念・言葉等の類いのことである。
たとえば 著者・真木悠介は 著書の冒頭を次のように始めている。

序章 時間意識と社会構造
 一 《死の恐怖》および《生の虚無》

この世の生の時間は一瞬にすぎないということ 死の状態は それがいかなる性質のものであるにせよ 永遠であるということ これは疑う余地がない・・・。

このことはひとりパスカル(《 Pensées et opuscules 》)の恐怖であったばかりではなく やがてみることになるように たくさんの明晰な近代精神の いやおそらくは 近代的理性そのものを究極においてふちどる恐怖であった。
《私》の生命の延長を人類の生命のうちに実感し あるいは私の人生の《意味》を人類の未来のうちに見出しえたとしても その人類の生の時間も 永遠であるという根拠はない。《私》の生の時間が一瞬にすぎないという視座をとるかぎり ――すなわち《永遠》を視座にとるかぎり――人類の生の時間もまた一瞬にすぎないはずである。

人類は消滅するであろうなどとわれわれが断言するのを 何ものといえども許しません。人おのおのは死にますが 人類は死ぬべきものでないことをわれわれは知っています。
ボーヴォワール:〈ピリュウスとシネアス〉《人生について》)

このようにボーヴォワールは書いている。もちろんどのような実証的根拠もなしに。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) pp.2−3)

と。われわれは この思念 自己の思念を見ようとする思念が たとい導入部分における文章として その書斎性をまぬかれていなかったとしても この一個の天使(それは 時間論の一省察であるから)が 天使ではないと はたまた 悪魔の変身した天使であるなどと言い得ない。そこには 時間的存在にとっての一つのぼんやりとした共同主観が あるいはなんなら共同主観をわれわれが問い求めようとするその場がある。

  • それは 死の制作者・悪魔に征服されたままのではありながら・それでも だからといってその状態を 何らかの主題別に 人間の思念によって論理実証しようというのではなく・そこにはむしろ《永遠》を問い求めるわれわれ誰もの姿がある。

しかし問題は 時間論においては われわれがこの天使に対しても ただしく立ち向かうことでなければならない。
パウロは 《ヘブライ人への手紙》を書いて このことに触れている。

神は その天使たちを風とし
自分に仕える者たちを燃える炎とする。
詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 104:4)

と言われ〔た〕。・・・天使たちは皆 奉仕する霊であって 救いを受け継ぐことになっている人びとに仕えるために 遣わされたのではありませんか。
パウロヘブライ人への手紙 1:7/14。ヘブル書・ヤコブ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教)
いったい神は これまで天使たちのだれかに向かって

あなたはわたしの子
わたしは今日あなたを生んだ(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 2:7)

とか

わたしはかれの父となり
かれはわたしの子となる(旧約聖書 サムエル記 (岩波文庫 青 801-3) 7:14)

とか言われたことがあるでしょうか。また 神はその長子をこの世界に送り込むとき

神の天使たちは皆 かれを礼拝せよ
申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4))32:43 / 詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 47:7)

と言われました。
(へブル書 1:5−6)

さらにつづいて

神は わたしたちが語っている来たるべき世界を 天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある人が聖書のある箇所で 次のようにはっきりと証しています。

あなたが心にとめられた人間とは 何者なのですか。
また あなたが顧みられる《人の子》とは 何者なのですか。
あなたはかれを天使たちよりも わずかの間 低い者とされたが
栄光と栄誉の冠を授け
すべてのものを その足の下に従わせられました。(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 8:4−6)

《すべてのものを かれに従わせられた》と言われている以上 この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし わたしたちはいまだに すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。しかし 《天使たちよりも わずかの間 低い者とされた》イエスが 死の苦しみを経て 《栄光と栄誉の冠を授けられた》のを見ています。それは 神の恵みによって すべての人のために死を味わわれるためだったのです。
というのは 多くの子らを栄光へと導くために かれらの救いの創始者を種々の苦しみを通して完全な者とされたのは すべてのものの目標であり源である方に ふさわしいことであったからです。事実 人を聖なる者となさる方も 聖なる者とされる人びとも すべて一つの源から出ているのです。・・・
(ヘブル書:2:5−11)

この言葉についてわれわれは何と言うべきであろうか。《鏡をとおしてアマテラシティ(象徴・《謎》)において 共同主観の原理なる永遠の源をわたしたちは見ている》のであったからには 《天使の思念 思念である天使たち》は この《アマテラシティ amaterasity / Amaterasität / amatérasité》であり かれらは 《共同主観の原理(神格)》でありかつ一個の《主観(人格)・共同主観者》である存在に《奉仕する霊であって しかも 救いを受け継ぐわたしたち人間に仕えるために 遣わされた》のではないなら われわれは 何と言うべきであろうか。
《この世の生の時間は一瞬にすぎないということ》 《〈私〉の生の時間が一瞬にすぎないという視座をとるかぎり ――すなわち〈永遠〉を視座にとるかぎり――人類の生の時間もまた一瞬にすぎないはずである》という天使の思念は このアマテラシティの観想そのものにおいて 《〈わたし〉の生の時間 わたしたちのはじめあって終わりある一瞬の巡礼の生の時間を 〈永遠〉なる存在に ただしく関係させうる》といういまひとつの思念にみちびかれないでは たしかに《〈死の恐怖〉と〈生の虚無〉》からわれわれが解放されえないと言うのは 正しい。言いかえると 前者の一個のアマテラシティは 後者のあの《アマテラシティの源》を同時に指し示すことを 同じ文章(思念)が暗に語っていることでなくしては 何と言うべきであろうか。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着 この死ぬべきものが死なないものを着るとき 聖書に書いてある次の言葉が実現するのです。

死は勝利に飲みこまれた。
死よ おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ おまえのとげはどこにあるのか。
(ホセア書13:14。ホセア書-ミカ書 (現代聖書注解)

死のとげは罪であり 罪の力は律法(アマテラシテそのものに則った行ない・その規範)です。・・・
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:54−56)

から。

この世の生活でキリストに望みを託しているだけだとすれば

  • それは キリスト(永遠)についての思念を 自己のアマテラス者領域で 普遍的だが抽象的にのみ 思念しているだけなのだから

わたしたちはあらゆる人間のなかでもっともみじめな存在です。
しかし 実際 キリストは死者の中から復活し 死の眠りについた人たちの初穂となられたのです。

  • 時間論において こう言われるべき もしくは 信じられるべきとわれわれは言う。

というのは 死が一人の人(最初のアダム)によって入って来たように 死者の復活も 一人の人によって始まるのです。・・・キリストは すべての敵をご自分の足の下に置くまで 国を支配されることになっているからです。最後の敵として 死が滅ぼされます。・・・
そうでなければ 死者のために洗礼を受ける(ヤシロをとおしてかれら英霊を愛惜し 祀り祈る)人たちは 何をしようとするのでしょう。・・・もし 死者が復活しないとしたら 

食ったり飲んだりしようじゃないか。
どうせ明日は死ぬ身じゃないか。(旧約聖書〈7〉イザヤ書 22:13)

ということになるでしょう。
コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 15:19−32)

ニヒリズムからの解放》は その《知ではなく生による解放》は このように《天使たちがかれを礼拝する》ごとく われわれも神を礼拝することによってこそ――それは 信仰の強要ではなく 共同主観の原理をただしく見まつることを共同主観するよう立ち戻ろうと言うようにして―― 成就する場が見出されうる。
時間論は 逆に言って その中に 《永遠(永遠観・信仰)》を主観のうちに秘めたものとして 説かれ得る。ないし はじめにそうであると説くことができる。また説かれているべきであって この断言(あやまち)を言葉にして表明せずしては アマテラシテなる思念の中に ただ人間的なる・ただ時間的なる理論の再生産がなされるのみに終わる。こう明言しなくてはならないのではないだろうか。《神が死んだ》という断言も このことのうちに つまり天使のみが生きてしまった(そして人間はこの天使にのみ仕える・天使に仕えるのみとなってしまった)ということのうちにこそ 理解されるべきではないだろうか。《あやまつならば(わたしが 欺かれるならば) われあり》(アウグスティヌス神の国 3 (岩波文庫 青 805-5)*2 11:26;アウグスティヌス三位一体論 15:12)とこそ 《生による解放》論は唱えているべきであって 《われ考えるゆえにわれあり》との思念的なアマテラス者のすがた そのアマテラス者領域じたいによる知によってでは それは なかったのだから。

同じく誰かが 《私は誤ることを欲しない》と言うなら その人が誤るにせよ 誤らないにせよ いずれにしても 誤ることを欲していないということは 真実ではないだろうか。たしかに 到るところで欺かれようとも しかも自分が欺かれることを欲していないということは欺かれないとき 誰がこの上なく厚かましくも 《君はおそらく欺かれている》と言うであろうか。
アウグスティヌス三位一体論 15:12)

と言う以上に 人間の時間にとって 具象・質的つまり歴史的な時間は 存在しない。
欺かれる手前で――もちろんそのとき きみは欺かれることを欲していないのだが――伝家の宝刀よろしく 普遍アマテラス語の思念 これを引き出してきて これによって あたかも自己の時間(行動)のまわりには 外堀をきづき なお《我れ考える故に我れ存在する》とうそぶくことが たとえ近代市民としてのわれわれの共同観念ともいうべき共通の慣行であったとしても 《死のとげ=誰もの持つ罪》をなお自己の内堀でそのまま暖めている(=時間が動かない)ということにしかならないというのは これが 真実である。
天使に仕え あたかも天使によってすくわれようとするのは 自己が自己のもとに立つようでいながら アマテラス語の思念的な顔蔽いをそのように共同のものとして その蜃気楼の中で 罪(このためにわれわれは巡礼する)の共同自治をおこなうという 古き人の栄光である。
死のとげが抜かれすくわれるようにして 自己が自己のもとに立つのは 神の恩恵によるものであり そのときかれは あの顔蔽いを取り除いているであろうと考えられるのであり (だから あのアマテラシテなる天使はこれをわれわれに仕えさせているであろうというのであり) しかも神の御子キリスト・イエスの十字架上の秘蹟をとおして われわれには 最終的に 死そのものが――なぜなら キリストは死の制作者を征服した―― 滅ぼされるという現実が与えられるのである。人間キリスト・イエスを長子とする人間のともがらは 死よ おまえの勝利はどこにあるのか と問うまでに なおこのアマテラス語共同観念の世界にあって 天使たちを仕えさせつつ 一瞬にしかすぎなくもあるこの巡礼の生を送るのである。
だから 《欺かれるならば我れ存在する》とスサノヲイストの信仰(その共同主観)に立って きみよ 知のパラダイムを変換せよと初めに唱えていることは 人間にとって不適当ではないであろう。

  • 神によってわれわれに与えられたキリスト・イエスの十字架上の秘蹟については 適当な場所で考察するであろう。

おそらく 《時間の比較社会学》のなかで 書評を与えるべき残された部分は――はじめに指摘しておいたように―― 《第二章 古代日本の時間意識》という一章であろう。節をあらためてかんたんにだが見てみたいと思う。

  • 著者の議論をなぞって述べることをしたくなかったところ 恣意的にわが田に水を引いた。その流儀には反省が残る。 

(つづく)