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哲学いろいろ

                 第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録三  夢の展開と主観形成

26 夢における異和という自由

夢に現われる異和そしてその補償力を中心にすえて 話を進めている。
すでに大胆に 無意識なる概念の転換を模索し そのあたらしい概念像を問い求めようとしている。
吉本隆明の《心的現象論序説 改訂新版》を論議の対象として なかで夢にかんする用語 原夢・固有夢・一般夢あるいは正夢などを吟味しつつすすんできた。この結果として さらには 夢の解釈例を取り上げ検討するなかに 考察を推し進めようと考えた。
〈Ⅵ 心的現象としての夢〉の第9節〈一般夢の解釈〉の事例に即して見てゆこう。
一般夢とは おおむね社会に優勢な考え方を担う共同観念に従う内容のものである。時に その中核は――たとえば殺すなかれというような――共同主観と同じ内容に基づいている。
ここでは 昔話に例が採られている。それでも 吉本の基調は 共同主観の形成へ向けての議論である。伝承民潭から 《橋》という形像にかかわって一般に見られるという夢(そのパターン)を取り上げ これに一定の解釈を与えている。

何某という人物が重い病に臥している。そして夢うつつの状態でよく見なれている(あるいは見たこともない)道をゆくと 河がありそれには 橋がかかっている。橋をわたってむこう側へゆくとなにかすばらしい光景が待ちかまえているように思う。しかしどうしたわけか橋をわたりながらむこう岸にはゆけず 途中でひきかえしてしまう。そのとき意識が蘇ってくる。もし夢でその橋をわたりきってむこう岸へいってしまったとすれば 何某はきっと死んでいただろう・・・。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》p.258)

これについて

わたしは一般夢にあらわれる《橋》の形像は 宗教あるいは民俗信仰に属する《橋》から 村落や都市に架けられた《橋》にいたるまで 心的な共同性の象徴のようにおもわれる。
(同上 pp.258−259)

というのが 解釈の第一である。この《心的な共同性》というのは われわれの言う共同観念のことだと言っていい。
次に

もしこのような《橋》の風景のなかで さきほどの何某のように 途中からひきかえした夢をみたとすれば この夢の意味は なにはともあれ 《橋》のむこう側が 夢見た個体にとって心的に《未知》の世界を象徴していることはたしかである。
(同上 p.259)

が その第二である。ただちに われわれの見解を示すとするなら。共同観念の世界(《心的な共同性》)のなかで 《〔夢見た個体にとって〕心的に未知の世界》とは 共同の観念つまり掟つまり一般に律法を 越える世界である。律法を越えるとは 次のような世界から出立することだと考えられる。すなわち (1)律法の命じるままに行ない(関係と了解)をなすことと そして(2)これを破ることによって ① 律法がその違反に対して命じるところ(処罰)に従うか または ② その律法の網の目をどうにかしてくぐり抜けるかすること これらから成る倫理的な共同自治の世界(あるいはその様式)から つまりいま一度繰り返すなら これら全体から 何らかのかたちで 出立することであると考える。出立とは 避けずに離れるということである。超えるということである。

  • これは この第一部のはじめの主題に出てきたあの鉄格子の世界の問題でもあった。
  • 共同観念の網の目と蜃気楼とは この律法からの出立を 《橋をわたったむこう岸》として つまりそれに付け加えるに 《むこう岸へ――夢の中で――渡ってしまったとすれば 何某はきっと死んでいただろう》として想定する観念共同(ムライズムあるいは そうとすればムラハチブ)を用意している。
  • また 現実に 個々の具体的な《踏み絵》として現われるそれであると考えられる。
  • 悪い方面でのみ捉えることもないが 共同観念のはたらきは そちらに傾きやすい。

だから 問題は まず大前提としていま 言わば共同主観夢が いわば共同観念夢を超えているとするならば この超えるというときの 超える対象が何であるかにある。超える手前では 共同観念夢の律法・掟が 一般に その対象であり なおかつ 成文法でない場合には・もしくは成文法であっても個々の具体的な場面では その掟の内容が 問題として吟味されなければならないということになる。いまの事例では夢のなかで ただ一般的に《橋》というのではなく どんな情況・どんな内容の《橋 をわたること》が 掟や道徳として言われているか これが問題の焦点となってくるように思われるのである。
そこで いまはさらに 吉本の解釈例を見ることから進めたい。その第三は こうである。註解を差し挟みつつ。――

わたしたちは 心身の既体験のことしか夢にみることはできない。

  • これには 註解が必要である。まず この文章そのものとしては そのままでは《原夢》を想定した意味がなくなる。つまり《既体験》という意味を 原夢の無意識であったときの何らかの体験を含んだものとして用いている。
  • 吉本がここで このように言う意味は もともとは別のところにあって それは この原夢・無意識を フロイトのような解釈におけるものとしては しりぞけているということ。言いかえると フロイトの言う無意識をここに含ませることを拒否してそう言ったもののようである。
  • いまの《橋》の夢にしても この一般夢の中に原夢がひそんでいるとして そのように言う場合 フロイトによれば《橋》は 性的なものとしてみなされているが そのような無意識概念において 解すべきではないというのが 吉本の・またわれわれの解釈の基本であった。
  • 言いかえておくならば 原夢が 胎児期のそれとして フロイトらによってしばしば性的なものを基調として考えられるとき それに対して吉本は 上の《橋の夢》の解釈の例として 《心的な共同性の中での心的に〈未知〉の世界》と考えることに それを求める この系譜を汲みたいと思う。
  • もっとも 心的な・観念的な倫理や律法の共同性を超えるというとき それは 性的なものごとにおいても 現われるであろうとは言わねばならないかもしれない。そのように関連づけた場合 それを否定するのも難しいことかもしれない。

たとえ未来の事物や生物についての空想的な夢であっても その各部分は既体験のなかから素材をとってきている。夢のなかで 橋のむこう側へどうしても渡れなかったとすれば 《橋をわたる》という夢のなかの行為に対応する潜在思想(心的な共同性と個体の心的な世界とのあいだの矛盾をとびこえること)において 渡りきるということが 心身にとって未体験であるということだけを語っている。

  • すぐ上の一文で《だけ》に傍点が付されている。

吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》pp.259−260)

この解釈例には 表現上すっきりしない面があると言わねばならない。引用文のなかの《潜在思想》とは ここで たとえば原夢というようにして 主観に 潜在的にはたらく要素であると まず考えられる。だがもしそうだとすると 文章の全体としては矛盾が出てくることになるかと思われる。すなわち 原夢あるいはこの潜在思想が《既体験》のことがらに属しているとすると 実は夢のなかで ここでの例として 《橋もしくはこの橋をわたる》という事柄は 《心身にとって未体験》のことではありえない。なぜなら この《潜在思想》は 単なる固有夢(各主観のそれぞれ個性)に属するようなことがらではなく 原夢もしくは原主観の問題につながっているそれであると思えるから。
また一般的にも 単純に物理的な行為現象としても 橋を渡る・渡りきるということは 橋という形像そのものに関連した行為としては われわれに・そして何某に 当然 既体験のことである。だれでも橋を渡ったことがあるだろうから。そしてこれは まったくの顕在〔思想〕である。そうして なおかつ この物理的なだけにしてもその顕在思想(記憶)が ちょうど何事についても観念的に《心的な共同性》を形作るという世界のなかで 《観念的な〈橋〉》を想定し しかもこれが 潜在化するというとき いまの夢の例すなわち橋の夢のパターンが 共有され伝承されるようになるのだと考えられる。橋のむこう側が 別の社会 異族の住むくにだといった情況を思い浮かべればわかりやすいと思われる。
この素材としての《心的な共同性》は まだ中味が中立の状態にあると考えられる。共同観念の心理による共同和・観念的な和の共同が ムライズムのしてのように 集団の結束をはかるためであろうか 集団への従属やらその掟への従順を 夢もしくは伝承物語のかたちで 要請して来る。
ただしこの点 吉本のこの解釈例は すっきりしない面があると言える。つまり われわれの考えるようには 言っていないであろう。ただ 吉本の言うところは つづけて

そして これが未体験であることは 個体の心的な世界(主観)が 心的な共同の世界(共同観念)に完全に同致しきるということが もともと人間にとって不可能だからである。

  • 括弧内は 引用者註。

(同上 p.260)

となっている。これによって上に述べたわれわれの解釈と同じことを言っているようにも思われることにもなる。《個体の主観が 共同観念に完全に同致しきる(律法や集団主義を完全に守り村イズムの和を決して乱さない)ということが もともと人間にとって不可能だから》 しかし そうだから《未体験である》と言うよりは 少なくとも原夢において 《橋を渡る・律法から出立する》ことは 《既体験》のことがらに属すと言ったほうがよいのではないだろうか。もちろん この《既体験》は 原夢にからめて 精神分析学から自由な立ち場での《無意識》の問題であるはずだ。または カントのように《先験的》なことがらと言っても成り立つのではないか。このように読み替えるなら 吉本もわれわれと同じ方向で議論していると見える。
もしここで 一つの循環を終えてのように この無意識が ふたたびフロイト理論のように《性》にからめて捉えられるとしたなら どう考えればよいか。けれども 簡単である。この無意識に対してはたらく神に 性はないと言えばよいだろうか。話が飛躍しただろうか。
原夢(原関係と原了解)は 性関係から自由な状態を示唆していると考えられる。そうだとすれば もし既体験ではないとしても 未体験であるのでもないであろう。

  • たとえば共同観念の法律も 現代では 《人は――少なくとも その法のもとに――平等である》と これは言ってみれば先験的に うたっている。性や身分の別なく 差別されないと。これは 原夢にもとづいているとさえ考えられる。
  • 原夢においてあたかも――性による差別がないということが――既体験ゆえに 大きくちょうど一般夢のごとく憲法においても うたわれたという解釈すら為し得る。
性関係から自由な主観

もう少し この第三の解釈事項にかんして 述べておきたい。
人は 時間的な存在であった。ありていに言って 人は 両親の生殖行為によって生まれる。精子の供出と 卵子との結合・受胎とは 時間的な間隔をもって行なわれる。言葉・概念(concept=受胎)は 性差にかかわらないであろうが 一人ひとりの人において 時間的に生起する。存在の時間的な性格は 生命の誕生からして 人間の性にかかわってそうであると言えるかもしれない。胎児・原幼児の原夢が またその意味での無意識が フロイトの言うようにであるかどうかを別として 性につながって捉えられるというのかも知れない。そういう一面はつねにあるかも知れぬ。
けれども いま 夢の例における《橋》が性的なことがらを表わすとするなら 《橋をわたる》というのは 別様の解釈では この性関係を超えるという原関係(――既体験? それとも未体験?――)をも意味表示するということもあるかもしれない。そういう新しい解釈の模索をいまおこなっている。
夢における《橋》が性的なことがらを意味するとしたとき 《橋をわたる》は 性関係を超えるという別様の意味表示をも持っているかもしれない。すべてが 性関係によって支配され圧倒されるとも限らないかもしれない。さらにあるいは 原夢・原主観のすべてを 性的なことがらの連想が 意味表示の点で 蔽うとは限らないのではないか。だから 《橋の向こう側へ渡ってしまうと 何某はきっと死んでいただろう》というパタンは 時間的存在のむしろ自立性を つまりこの場合は 性が存在しない領域(もしくは 性関係によって左右されない領域)がありうるという意味での自立性を 逆に・積極的に 示唆したものであるかもしれない。原主観・原夢では 積極的に 橋を渡っていたであろうということ そして他方では 消極的に 渡らないで・もしくは渡った原夢を背景にして 社会的ないわば共同観念夢のなかに 倫理的に 生きていかざるを得ないかもしれぬということ このような両面の内容を示唆しているようにも思われる。

  • フロイトの話につきあうとしたなら このあたりまでは 議論をさしはさむべきなのではないか。そのための空想である。
共同観念の幻想の和から自由な主観

つづいて吉本の解釈の第四(そして最後)は 次である。

わたしたちは 自己にとって未体験なものの最大の象徴を《死》にみいだすことができる。この未体験にむかって幼年時代から強迫観念にさいなまれ 不安であったものが わたしたちのもっている宗教者の心的な世界であった。そこでかれらは空想によって《橋》のむこう側へわたりきったまま生きていることはできなかったし 生きているものはすべて《橋》の途中から また《橋》のむこうからひきかえしてきたものばかりであるほかはなかった。《橋》のむこうの世界について人間が語りうるのは もちろん覚醒時の空想をもとにしてである。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》p.260)

この結論における最大の誤謬は 解釈の第三点とのかんれんで もしわれわれが《夢では心身の既体験のことしか見ることができない》とすれば そして《橋の向こう側が仮りに未体験のことを表わしている》とするならば 夢の中で 《橋の向こう側の世界》を見ることは当然のごとく不可能であるのに この分かりきったことに どこからか《宗教者の心的な世界》を持ち出してきて これをからませて議論をはこんでいるという点である。
もっとも 次のような反論がとうぜん出てくる。
《〈橋をわたる〉という夢のなかの行為に対応する潜在思想(心的な共同性と個体の心的な世界のあいだの矛盾をとびこえること)において 渡りきるということが 心身にとって未体験であるということだけを語っている》(同上p.259−260)のだから 《橋の向こう側の世界》を見たとは誰も言っていない。《宗教者の空想》は それを死の世界だと見なして その不安を解消させるために 渡りきらないという話の要素で 死を封じ込めたということである。これをひとつの解釈例として言ったまでであると。
そうすると 原夢が問題である。この原夢じたいも 空想の産物となる。原夢についての吉本の説明はこうである。

人間の個体にとって 〈そこに存在すること〉自体は どんな関係の空間性も了解の時間性ももたないが ひとたび〈そこに存在すること〉が対自化しうるようになれば(幼児) そこには自己内の関係の空間性と了解の時間性をもたざるを得ない。これを原関係と原了解と呼ぶことができ この条件のもとでは〈夢〉は行為そのものを指している。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1 《心的現象論序説》p.245−246)

《そこに存在すること》という自己関係じたい――つまり 原夢――は 既体験に属すると言わなければならない。すなわち《どんな関係の空間性も了解時間性も持たない》原夢が 既体験であるということから出発している。この原夢の持つ存在の風景は むしろ橋の向こう側であっても 一向に構わないと言うことではなかろうか。もしそうだとすれば この解釈の第四例では 宗教者の覚醒時の空想を持ち出してきても 話は成り立たない。不十分である。
橋ないしそれを渡るという夢の要素は ただ簡単に死やその封じ込めの問題と見るわけにはいかない。
原夢において既体験であるのに 共同観念の支配する一般夢にあっては もはや未体験として捉えられるようになってしまったことがら これを意味表示している可能性が考えられる。単純にいって 《現実と呼ばれる倫理的な体験の世界を 超えうる》というメッセージを 原夢は・つまりここで 橋を渡る夢は 伝えているのかもしれない。
つまりこうである。《その最大の象徴を〈死〉に見出すところの未体験に向かって幼年時代から強迫観念にさいなまれ 不安であったものが わたしたちの持っている宗教者の心的な世界であった そして宗教者は 覚醒時の空想をもとにして 未体験を〈橋の向こう側の世界〉として語り 〈死〉の恐れを封じた》という解釈に代えて 次である。

ただそこに存在するという主観の原形(原夢)は もともと人間にとって 既体験である。これが 他の主観に触れて 社会の中で さらにみづからを展開し その主観を形作っていくあいだに いつしか未体験のものに変容してしまった。
ただそこに存在する個体が社会的に体験していなかったことを時間的に体験していくことによって 主観は 自己においても他者との関係においても 時間的な喰い違いを覚える。記憶と知解と意志とのあいだに そして他者のそれらと自己とのあいだに すなわち異和が生じる。
この異和のなだめが 主観たちの集団には用意されていた。一般にその観念的な和解である。その中核は たしかに自己の存在を守るためには 他の存在を愛するという和解であるが この知解も記憶も 時間的にして つい 変化をこうむって忘れられたりする。そのため 人びとは 観念的にでもよい 幻想でもよい ともかく和を以って貴しと為せという掟を持った。この観念共同の和解は 最高の倫理命令にまでなっていった。この共同観念が 優勢になり 支配的になると この幻想が現実であり 幻想でなかったはじめの原存在観(原夢)は すでに未体験のことと見なされていった。
やがて《橋の向こう側は死の世界だ》という一般夢が 共同観念の一環として 成立してゆく。

橋の向こう側という夢で 一般に死の恐れを封じ込めた――宗教者であろうとなかろうと――ということに それほど悪い意味があるわけではない。この・それとして一種のなだめの装置に 悪意があるとは思わない。人は それほど強いものではなく 単独で生存しうるものであるとは 言わないほうがよい。
ただ 一般に比喩として《橋をわたる》ことの自由が これも 封じ込まれたとするならば 問題だ。一方で 人びとにとっての未体験である死の恐れを封じ込めることによる自由があり 他方で 《橋の向こう側にも世界があり それは むしろ幻想に支配された共同観念夢の世界が忘れてしまった主観の原形である》という自由があるとするなら 片寄ってしまうわけにはいかない。原夢にかかわる自由は 共同観念世界における異和の幻想によるなだめとしての和解が じつは 主観が結局寝かしつけられるという一種の社会的な死であって この死に対してむしろ善き死を死ぬことによって 共同主観のもとに生きる自由でありうる。死に対して死ぬ もしくは死が死ぬのであるから 再生であるにほかならない。
共同主観のもとに 観念共同の善悪倫理や性関係やそれらの幻想和を超えて しかも このあたかも鉄格子の世界に寄留しているという自由の生き方 これは 異和の補償力によって与えられているとわれわれは考えている。
この夢の問題は 節を改め いま少し議論しつづけたい。
(つづく)