第一部 第三の種類の誤謬について
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付録一 共同主観者にとっての夢
21 そしてわれらが夢
偶有性・可変性の世界において ある切っ掛け・ある出遭いによって 必然的な関係を結ぶようになる。その関係にかかわってこそ 現実のことがらは無論のこと 時には 夢で見ることがらが 意味を持つことがありうる。特に自己の主観の形成にとって 小さくない意味と契機を持つことがある。これについて 肉付けしていかなければならない。
まずやはり ここで吉本隆明のその後の展開を見てみよう。
かれは 次のような軌跡を描く。まず総括的に述べるならば かれは一方で 夢にも意味がある場合がありそうだと言い 他方で この命題の肉付けをおこなうというのでもないが どういうふうにして 意味を持つ場合があるのかといった角度から 理論する。
夢は本来的になにごとか意味をもっているだろうか?あるいはなんの意味もない恣意的な荒唐無稽なものであろうか?
体験からいえば ある夢では なにか意味がありそうにおもえるし ある夢では かくべつの意味がなさそうにみえる。
(吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》p.219)
夢が意味を持つ場合 それはどういうふうな経路をとおってそうなのかに関して 次がかれの理論である。
わたしのおおつかみな想定では 《入眠》時の心的領域でも・・・〔覚醒時に人びとが用いる言語にかんれんして また これに対して――引用者〕 《入眠言語》とよぶべきものが成立しうるとかんがえられる。そして この入眠言語が 抵抗なく流通しうるならば 夢は形成されずにすむものと仮定する。しかしなんらかの原因から 入眠言語が流通しえなくなったとき 夢は形像または非形像によって形成されるのではないかとかんがえられる。
(同上 p.221)
これは いま詳述して紹介しないが フロイトの理論とフロムの理論とを通過し ビンスワンガーの理論を基軸にして 論じられている一つの結論である。流通するしないとは その夢を見る人にとってである。すぐあとで紹介して論じるように かれは 覚醒時におけるから眠りにおけるへの・受容と了解の変容を前提して この《変容》を 《〈入眠言語〉の形成》といった概念で よび変えることになる。だから 夢の意味性の発生は この《入眠言語》すなわち 心的な了解の構造の変容の 具体的なあり方に求められるというのである。
それゆえ 形像的な(または 非形像的な)夢の意味性は 形像(または非形像)がそのままでみせる意味にはなく むしろ それが意味しないところにもとめられる。いいかえれば 《入眠》時の心的世界の逆立的な構造のなかに である。
(同上 p.226)
覚醒〔時の〕言語と 入眠言語とが 互いに《逆立》するとき すなわち先の引用文のことばでは 〔覚醒から睡眠へと入るときに あの変容によって成立するとされる〕《入眠言語が なんらかの原因から流通しえなくなったとき》 夢は形成され 意味を持つものと思われるということになる。
これに対して批判する前にもう一度言いかえるなら つまり人が 或る変容の世界である入眠言語〔の成立〕に際して そのまま抵抗なくその世界に入ってゆけないときが それであるという。入眠言語の流通に対して《違和》を感じるとき 夢は形成され意味を持つというのである。
- 単純に どうしてこんなまわりくどい分析をするのかと思うが その過程の自然科学的な観察や分析は必要だと考えて ついていくこととする。
われわれの考えでは この理論を援用し 先に触れたように少し角度を変えて見ることによって 次のようなとき その場合じたいにおいて 夢が意味を持ったものとして 現われると思われる。《入眠言語》という概念を想定することを受け継いで言うとすれば この入眠言語が 成立したあとで 流通しえなくなるというよりは この入眠言語が初めに成立しないことによって 夢すなわち不眠なる夢とでもいうべきものを見るのだ と。
ここでは ふつうの言葉にしろ新しい用語にしろ それぞれに新しい別の観点からの意味をもたせることになるので 少しづつ ていねいに 述べてゆきたい。
まず吉本の定義とのちがいは 次の点にある。
入眠言語の成立ののち その流通に対して違和を感じるときではなく われわれの考えでは この入眠言語の成立じたいに対して または だから その不成立において 夢を形成するのだと。それは 経験的にいえば いわゆる寝付かれないというときの 不眠状態にも相当し この不眠なる夢が 意味のある夢だと考えることになる。つまりこれが 一般に正常なる入眠時の状態なのだ。
- この状態・この事態そのものは 吉本も同じことを言っていると思われる。しかも視点の問題としても かれは 夢を見るという場合 《夢を〈表現する〉》というふうにも言って 上の視点すなわち 《意味性のある夢の形成》という場合と やはり同じ内容だというようにも思われる。もしそうだとしたら われわれは 吉本説をより明らかに・もしくはわれわれ自身のことばで のべようとしていることになる。ここに 明確な一線を引くべきではないと思われるが ともかくここに着手した作業にわれわれは さらに進むことにする。
われわれには 《入眠言語もしくは眠りそのもの》と《眠りの不成立・入眠への違和・そして入眠時の不眠(つまり われわれの言う夢)》との関係は 共同観念と共同主観との関係にたとえられるように思われる。言いかえると 共同主観は 共同観念に寄留しているのであって 共同観念の饗応の《成立》のなかから その流通に対して 抵抗・違和を感じ何が何でもこれを訴えるというものではないように 夢は 入眠言語の成立ののちに これに対して抵抗・違和を感じて形成されるものではないと言ったほうがよいように思われるのである。
- 共同主観は 現行の倫理秩序=共同観念の揺り籠のなかにおさまってもよいのだから ただし夢は そのおさまるか否かの抵抗感・違和感を覚える際に この違和感が意味を帯びて何らかの夢の原形がかたちづくられ そのあと何らかの時に(それは 睡眠時であろうが)夢見となって現われるのではないかと考えられる。(たんなる憶測と推理ではあるが。)
- 共同主観は そもそも 共同観念のだらしなさに対して 摘発し反抗するというものではない。その反措定をみづからの使命とするのではない。(だから 摘発も反抗もしてよいわけだが。)睡眠へ入るときの入眠言語が成立するかどうかという話は よくわからない。成立しその流通に抵抗するから 夢を見るというには 思われない。入眠言語の成り立とうという際に もし古き人の倫理観念に違和感を覚えていたなら 抵抗があるのだと思われる。この抵抗にもとづいて 夢の原形(素材)が泡だってくるのではないかと推し測られる。睡眠は睡眠として取るはずだ。
- 仮りに その抵抗がとてつもなく大きくて 入眠しえず 不眠状態がつづくという場合には しかしながら 心配は要らないと考える。なんの明確な証拠もなく言っていいとすれば そのときには たとえ短時間であっても聖なる眠りがその人には用意されていると思う。
もし入眠言語が成立すると仮定するならば その成立ののちには――つまり 目覚めるまでのあいだに つまり眠っているあいだに――夢表現の問題は起こらないと考える。そのときに 現実の(?)・実際の夢がかたちを持って見られることには間違いないが 形成されるのは その睡眠時ではないように感じられる。(自然科学的な知見でないので 愛嬌になるかもしれないが。)
- この見方は 意味を持った夢に限定しているからかもしれない。しかもこの意味というのは 夢が夢の体を為すということではなくて われわれのしかも個人的な主観にとって 生きた意味があるかどうかの問題であるのだから。
われわれは 夢を見る。いくつも見ることがある。覚えていようがいまいが 夢を見ることは現実である。そしてこれは 睡眠の問題であって 夢の意味性の問題には ただちにはならない。眠るということの快い――たとえ不吉な内容であっても――色採りとしての夢は 自由に見るがよい。われわれは夢の意味性の問題を論じているのだ。
要約して述べる。眠りに入ってからは 精神と身体との休息に全面的にあること以外のことではなく そこで見る夢は どうでもよい。眠りに入るときに 寝付かれず 不眠という夢を持つとき この夢は 覚醒言語の世界にあって 精神が――もちろん 身体裡にあって――作動している。しかも これは 人の入眠時の正常な状態のひとつにして 共同主観の一つの〔特殊な〕形成過程なのでもあると考える。人は まだ醒めていて 現実の〔偶有的な そして偶有的ゆえに成り立たせた必然的な〕関係の世界を 思っている。この寝付かれない時間の量の多寡は問題ではない。それは 反面で 精神・身体の休息の必要度に応じるかたちで 正面では 現実関係へのその人の価値判断の決定のための主観形成(こころの試練)を意味するものにすぎない。また それだけの重みがある。
わたしは言うが もしここに 強迫を感じたり なお この心の試練につくなら 不安神経症や強迫神経症になると思っていたりするとすれば それは 昼間の共同観念の世界における倫理的な饗応(要するに 生活・仕事をつうじての人間関係)の中に 不安や脅迫――なぜなら その倫理の世界では 善悪を知るから――を感じているということであろう。この昼間の不安や強迫が ちょうど各自の主観に 共同観念(網の目のような世界)という覆いとなって かぶさってくる それが 夢として現われる。もしくは人は そのように夢として 表現しているのだ。
この不眠なる夢を持つ人は むしろ共同観念という昼間の世界の入眠言語に対して――あくまで 昼間の 世界への入眠に際しての言語の成立とその流通に対して―― 抵抗し違和を覚えてこれを表現しつつ 存在している。夢はここに 意味を持って来る。また これは 共同主観の 共同観念への寄留の一形態なのであり この寄留の形態は 一定の時代と社会に応じて 変えられていくとわれわれは考えている。
共同主観者にとっての夢を――やっとのごとく――キリスト史観につなげたかたちで述べることになった。それも ほんのちょっぴり。
さて この上に最後に取り上げた 入眠時の不眠という夢 そしてその意味性が 必ずしもまだ 課題の肉付けをなすものというわけではない。
あらためて われわれの扱おうとする夢は こうである。まず 扱わない夢は 入眠が成立してから 睡眠時に見る夢であり 精神と身体の休息として これは睡眠の問題だとする。この夢も ただし 主観が試みられるようにして 価値観にかかわると見るときには 自己形成のための夢となる。これを 入眠時の不眠あるいは非睡眠という夢として扱う。別の言い方では 睡眠から覚醒時に入るときの夢のごときものが もしあるとするなら これも 主観形成の夢として扱いたい。
要するに 覚醒時に主観形成する思考過程と同じ内容を持つものであれば その夢はすべて ここで取り上げたい夢である。入眠時・間睡眠時あるいは入覚醒時を問わず 不眠ないし非睡眠状態において見る夢である。このような夢においては 人は自己の精神の秘所なる扉をたたかれている あるいは 実際自己がたたいているはずである。
- くどいように言えば 吉本が次のように説明する場合は われわれは 基本的に言って あつかわない。
《入眠》時の心的な領域は もしも《夢》がみられることがないとすれば 覚醒時の心的な領域を第二次的な《自然》と見做したときの第二次的な心的な領域であるが 《夢》がみられるや否や逆立的な構造に転化する。
(吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》p.226)
- という場合の夢 これは 睡眠の問題として見るかぎり 扱わない。
- 身体もしくは環界を第一次的な自然としたとき 覚醒時の心的な領域を第二次的な《自然》としているようだ。その覚醒時の心的な領域を 第一次の心的な領域とすれば 入眠時のそれは 第二次的な心的な領域だという。
夕べがあり 朝があった
《ゆめ・いめ》とは むろん眠っているときに見る像(たとえば 《い(寝)−め(目)》)である。しかし《夕べがあり 〔夜に触れることなく〕 朝があった》のである。
初めに 神は天地を創造された。地は混沌であって 闇が深淵の面にあり 神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
《光あれ。》
こうして 光があった。神は光を見て 良しとされた。神は光と闇とを分け 光を昼と呼び 闇を夜と呼ばれた。夕べがあり 朝があった。第一の日である。
神は言われた。
《水の中に大空あれ。水と水を分けよ。》
神は大空を造り 大空の下と大空の上に水をわけさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり 朝があった。第二の日である。
神は言われた。
・・・夕べがあり 朝があった。第三の日である。
・・・夕べがあり 朝があった。第四の日である。・・・
(旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 1:1−31)
アウグスティヌスは 次のように捉えている。
たしかにわたしたちが知っているように わたしたちの経験する《一日》というものは 太陽が沈むのでなければ《夕》とはならず 太陽が出るのでなければ《朝》とはならないのである。ところが聖書の言う最初の三日は太陽なしに過ぎ行き その太陽は四日目に造られたとされているのである。すなわち まず最初に神の言葉によって《光》が造られ 次に神は《光》と《闇》とを分け その光を《昼》と呼び 闇を《夜》と呼んだということが告げられている。・・・
・・・(中略)・・・聖書はそれらの《日々》を順に数え上げた際に 決して 《夜》という語を挿入しなかったのである。《夜があった》とはどこにも言われず むしろ《夕があり朝があった。第一日》と言われている。第二日も そのあとの日も同様である。
たしかに 被造物の持つ知識は自己の中にあるかぎりでは 創造者の知恵・・・の中にあって知られている時に比して ずっと光彩を失っていると言うべきである。
このようなわけで 《夕》というほうが《夜》というよりも一層ふさわしい表現である。しかし今言ったように 被造物の持つ認識〔の《夕》〕は それが 創造者への讃美と愛に関係づけられるとき 《朝》へと向かって急ぎ行くのである。
そして被造物がこのことを自己自身の認識においてなすとき そこに《一日》がある。
(アウグスティヌス:神の国 3 (岩波文庫 青 805-5) 11:7)
《昼》とは言っても 《夜があった》と言われないときには ゆめは 睡眠の問題とは別に むしろ覚醒時の〔共同観念への共同主観の寄留としての〕問題にかかわって捉えたほうがよいとわれわれには思われた。睡眠とか 精神・身体の休息とか言うことはあっても つとめて《夜》と言うことは適当ではないとも思われ その夜にかかわらせた夢は 通過する対象のように思われる。
いま問題の夢が はかない夢として比喩につかわれるか あるいは 抱負・志の別語として使われるかは この間の事情が説明しているであろう。昼があれば その対語として 夜があると言うのは 歴史的に普遍的な捉え方ではないであろう。
人間――それは 時間的な存在だ――にとっては 覚醒時の言語(または昼)と この覚醒言語の休息(夕方と朝とのあいだ)とがあるのみであって たとえば入眠言語(いわゆる夜)は 存在していないのではないか。存在の欠如として 時間的に推移するかたちを取っているのではないか。
入眠言語という用語を批判するものではないが 世界の受容と了解とが変容を受けるというその入眠言語の領域は そこに入った人間は存在しているが だから覚醒言語をたずさえた人間が存在しているが この入眠言語という領域じたいが独立して存在しているというのではないと考えられる。
存在は それじたいが 善であって――生きるということ自体が 善であって―― 言うとすれば 覚醒言語が この善(思惟・内省=生産・行為の形式)をあらわし 入眠言語とは この覚醒言語の欠如したすがたを言うといってよいように思われる。言うとすれば 善である覚醒言語の欠如が 悪である。
悪なる悲惨な状態から その存在の善によって おのれの主観形成を為すのは 信仰の問題に入ることであり これが いまここでは 夢をとおしても為されることがあるという問題である。信仰の問題というのは 存在の確認の問題である。次の文章は ここで聞かれるべきである。先のアウグスティヌスからの引用で 中略の部分である。
ところで 被造物(時間的な存在)の持つ知識は 創造者(永遠)の持つ知識とくらべていわば《薄暮》のようであるが それが創造者への讃美と愛に向けられるなら 光を増して《朝》となるのである。
そして被造物への愛のために創造者が見捨てられない限り それは《夜》に変わることはないであろう。
(《神の国について》11:7)
これで 肉付けがなったとすれば 表題の 共同主観者にとっての夢は 論じ終えられたことになる。
異和をなだめる補償力
ここでは吉本に沿うかぎりでは 《心的現象論序説 改訂新版》の〈Ⅵ 心的現象としての夢〉の章の中から 〈1 夢状態とはなにか〉〈3 夢の意味〉の両項目にかんして触れたのであるが かれは ほかに〈4 なぜ夢をみるか〉と題した小さな一節を用意している。これにも触れておきたいのだが かれがつぎのように言うのは 実は複雑である。
夢が表現されるためには 《入眠》時の心的領域が覚醒時の心的領域と《接触》するとともに その《接触》によって心的な《表出》力が働かなければならない。いいかえれば このような《接触》を異和とおぼえるような補償力が 異和をなだめるために作用しなければならないはずである。
(吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》 p.228−229)
これについて論議すべきだと思われた。かれは 入眠言語と覚醒言語との接触を言う。しかしてその後 夢を あくまで入眠〔言語〕 変容の世界へと取り込むことのほうに傾く。《接触を異和とおぼえるような補償力が 異和をなだめるために作用しなければ〔夢を見るには〕ならないはずである》と述べる。補償力というのは 覚醒言語のほうのものであろう。だから人は この異和を 主観形成の力とするはずである。吉本は 逆にこの力を 入眠言語のほうに置いているというべきだろうか。しかしこれは 《夢で会いましょう》はいいとしても 必ずしもそう声をかけあっているというわけにはいかないであろう。
《接触を異和とおぼえるような補償力が 異和をなだめるために作用》するのを人は たしかに見るであろう。そのような強い力がはたらくものと思われる。ところが神は この人びとの異和の《避けどころ》となったのである。キリスト・イエスは この異和の 覚醒言語(理性)における《慰め》を用意したのである。たしかに――吉本も論じていたように―― 《倫理が破壊されるまでに追いつめられた人びとに対して かれらが いわゆる宗教的な救済におもむき 倫理の極限化に走りゆかないようにと 〈聖霊=慰め主(つまり 現実観)〉を与えた》のである。宗教なる《アヘン》はアヘンなのだよとおしえたのである。共同観念は 共同主観にとって 変な眠り薬なのである。
この〔われわれの言う〕補償力は 入眠言語のそうとすれば悪(悪魔)に捕えられていた人びとを放免する力となった。少なくとも そう約束がなされた。だから この補償力・この聖霊は 《保証金・手付け(earnest)》と呼ばれた。
入眠言語(この言語なる夜の世界によって 罪はこの世につきものだと人は思う)を用意する悪魔は――つまり 眠りが 罪を許容する悪であるとするなら 悪魔は そもそもにおいて人を善悪の認識へみちびきつつ 死の眠りの制作者であり 罪は この死のとげであると言われるその悪魔は―― みづからが それによって死(つまり 死の死)に追いやられるためにのように キリスト・イエスを 〔人びとをして〕十字架上の死に追いやるまで 人びとのあの異和をなだめ かれらが確かにイエスを死に追いやってしまったところで 上のこと・つまり神による聖霊の派遣が成就したと信じられた。
異和をなだめる力は 両様ある。補償力の質がちがう。神の言葉と言われるイエス・キリストは みづからそれ(死)を欲してのように この地上の善悪の倫理と罪の共同自治の世界から去った。あたかも悪魔こそが欲していたかのように この死なる限界の上に倫理を及ぼす死の世界の死が 訪れた。死が死ぬことが 明らかになった。悪魔が征服され 悪魔は自分がそれまで夜の世界をとおしてつなぎとめておいた人びとを 放免せざるをえなくなった。放免されて 夜へとは引き渡されず 夕が去り朝を迎えた人びとは 共同主観者として 昼と夜とから成る共同観念の世界の中から起こりつつ 集いつつ ちがった新しい《一日》を形成するであろうと考えられた。それは 悪魔の征服を可能にした・あるいは可能であることを示した謙虚の理性的な模範は 十字架の盃を恐れたひとりの人間(肉の存在)でもあったことによると考えられる。
だから あたらしい一日は 覚醒言語と覚醒言語の休息の世界とから成り つねに朝へと牽き行かれる一日であると考えられた。
この謙虚の理性的な模範に われわれは 似るであろうと言われた。なんなら 倫理が破壊されるまでに追いつめられ たしかに不安と恐怖に打ちのめされて 死を死んだのち その復活のあとにである。しかし
兄弟たち わたしたちの主キリスト・イエスと一致してわたしが持っている あなたたちに対する誇りにかけて言いますと わたしは日々死んでいるのです。
(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:31)
と使徒パウロが述べていることを われわれは見逃しはしないであろう。この謙虚の外なる人の模範は たしかに――偽使徒のようになってわたしも言うとすれば―― 《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたのか》というキリストの死 そのような内なる人の秘蹟とつながってのように われわれは 倫理(律法)に生きることによって倫理(律法)に死ぬのである。だから 復活が信じられたのである。外なる人の模範・《新しい〈一日〉》が 《夜と昼とのあたかも一対から成る一日 すなわち 善悪・律法・倫理による〈一日〉の構成》に内なる人(これは 倫理に生きていた)が死ぬことによって かつ同じ内なる人が またこの死においてこそ神に見捨てられていなかったというように 復活することによって 形成されるであろうと――日から日へ 形成されるであろうと―― だから 信じられた。《日々 死んでいる》のなら 《日々 かれは よみがえっている》のではないだろうか。――おそらく 夢は この結節点でもあるのであろう。信仰が弱いときの よき暗示を与えられる機会である。
接触を異和とおぼえる補償力が この生と死と復活とから成る新しい一日への保証金(ヒント)である。死の捕囚から放免された人びととともに 十字架上の死から復活したかれは 保証金たるその聖霊を受けよとかれらに言った。だから 神は愛である。保証金(arrabon)たる聖霊が 愛である。十字架上の死までは 到底 欲しつづけることのできなかった不従順の子らであるわれわれに道としてその目標に通じる模範(すべてのもののはじめ)となったその神の知恵を 愛させよ。かれの用意したその保証金に固着せよ。しかし かれの力によってもし悪魔が征服されたとするなら 聖霊を受けよと言われるその聖霊は すでにわれわれ不従順の子らも受け取ったものである。共同主観者は この人を見ならう。
人もしこれを欲するならば 神これを為したまうであろうと信じられた。
自己が存在することじたいが善であり 悪でないならば あの補償力は 善なる存在そのものであろう。この補償力さえ 人間のものであるならば 《その存在の似像であるといわれる人間は その神なる存在に・しかも人間キリスト・イエスにのみ 似るであろう》と言われるその聖霊なる保証金は この補償力を証拠として 人間に与えられていると考えられる。
次の現実観――。父なる神の高い計画(はかりごと)の中に この世に遣わされ その最後までかれに従順であった神の子キリスト・イエスは その父とともに この計画とそれへの従順という〔両者のあいだの〕愛として すなわち第三のペルソナである聖霊なる神を 人間には保証金として 発出し遣わすと。この聖霊を受けた人びとは 神の国の外交官である。すなわち 地上の国 共同観念の世界に寄留しつつ その昼と夜との一対から成る一日ではなくて 新しい構成の一日を形成する共同主観者として だから言いかえると 不安神経症や強迫神経症を むしろその異和を 積極的な補償力と変えて 外交活動を展開すると。夢は その転換点である。
これらの思惟じたいが われわれの存在の根拠というのではない。これらの思惟をとおして 存在の根拠が観想されてゆくものと考えられた。したがって 誰か厚かましくも この補償力をとらえて しかもこの力は あの異和をなだめにかかるなどと 証言するだろうか。《まあまあまあ とにかく ひとつ》と言ってあの倫理的な饗応の中に生きることを余儀なくされるわれわれのその理性が薄暮であって 不従順の子らであるわれわれ人間にとって しかし この異和は 入眠時の・間睡眠時の・入覚醒時の 正常なる健康な夢状態であるとかんがえなさい。この補償力は われらを夜へは渡さず 薄暮に光を増してのように 朝へ牽き行く。異和をなだめるために作用するような補償力とは――この場合たしかに吉本の説くように―― 光の天使に擬装した悪魔の力であって(しかし 夜や眠りや死が 経験的な事象であるなら この悪魔を 幻想的に空想的と考えるほど われわれは非理性的であろうか) それはすでに しかし 蜃気楼であると考えられた。
共同観念の世界の饗応のなかで 善悪を知らせる律法は しかしその倫理がつねに破壊されるまでに人は追いつめられることもあるというとき 経験的にしてかつ蜃気楼であることは 常識であろう。この蜃気楼の 現実的にして幻想的な力が――たとえば 共同観念は ムライズムやナショナリズムとして現われたが―― 大きければ大きいだけ 共同主観者には あの補償力がはたらいて この世界に 不安や強迫を見いださせるものであることも 常識である。この理性的な常識も しかしただ人間の共同主観であるとき それは 薄暮であると考えられた。したがって この薄暮なる覚醒言語を休めて 安らかに眠るがごとく われらは 代価(十字架)によって祖国に買い取られていたと気づいてのように その主 人間キリスト・イエスに 寄りすがらねばならぬというのが 現実である。そうして 人間の覚醒言語をとおして 神の国の外交官として そのからだによって 保証金たる聖霊なる神の宿る宮であることを示すことができる。そして 走ることができる。
《神は死んだ》というのは すでに触れてもいたように 《これらをただ 精神においてその思惟や知解した知識によって 共有している すなわち 天使の能力を欲するようになった》ということを表わしている。それは《聖霊を受けよと言う・十字架上の(その復活後の)イエス・キリストを飲みまつれと言われる身体の運動を 避ける人びと すなわち 信じない人びとにはばかげたことと見えるこの肉の復活の信仰を この身体の運動をつうじて 精神は天使の存在を欲してのように 精神みづからによって おこなう》こととは 区別されるべきである。
同じく《神は死んだ》ということは これらのことを 信教・良心・思想・表現の自由のもとに行なうべきであるということである。いわゆる宗教(共同観念と倫理)によってではなく 信仰の理性的な知解によっても為されるべきことを示唆している。もちろん 宣教・護教の時代には 《宣教という愚かな手段によって信じる者を救うほうがよい》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 1:21)と考えられたのであり これら全体を綜合するならば 現代において キリスト史観なる信仰は 共同主観( common sennse )あるいは 常識ないし〔新たな〕communismと捉えられるのがよいと思われる。また コミュニズムが確かに運動であるように 主観共同化の過程であって――いまは キリストあるいは神といった信仰次元の言葉を用いて述べているが―― 現実の共同主観へのはたらきかけとして 一般に社会的な行動をとおして 〔この身体の運動つまり生活を〕行なうべきと考えられてくる。
いまこのようにキリスト史観そのものを ともに共同主観しようとして考察するのは しかしむろんそれと別なことではないのであって ある種 共同観念となった信仰 すなわち宗教に対して この共同主観を明らかにしておきたいという要請にもとづいている。
ここからは たしかに われわれは 欲しなければならないし また 走らなければならない。ある種 快活な強迫とでも言うべき運動への方向が 言われてくるようになろう。《欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたもう神による》(パウロ:ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 9:16)のは われわれが欲するものを獲得し 欲するところに到達するためである(アウグスティヌス:《シンプリキアヌスへ》)と 共同主観されたなら。これらが われらが夢である。
- 次の22節で 三位一体について注解する予定。
(つづく)