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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-05-02 - caguirofie050502よりのつづきです。)

第六十章 シンライ原則が動き出すとき・・・

Ⅵ ダンス・ダンス・ダンス

ダンス・ダンス・ダンス(上)

ダンス・ダンス・ダンス(上)

ダンス・ダンス・ダンス(下)

ダンス・ダンス・ダンス(下)

(44) 前作の《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》において 女性主人公と見なされる直子のほかに 小林緑という女性が登場した。かのじょは その出発点のあり方として 《いま・ここ》にいるということが 確実な人であった。そうではないあり方をする主人公は だからというわけではないが そのシンライ関係の相手として かのじょ緑を選ぶかに見えた。
物語の最終部分で そのような方向が現われたのだが その後 緑とは 別れることになったか それとも かのじょとの間に 出発点の人間関係を互いにきづいていこうとする生活が始まろうとしたか わからない。その二十年後では うまく行かなかったようである。物語の最後の部分につづくまだ若い期間のこととしては 別れているにしても 互いにコミュニケーションの関係を確立させようと その試行錯誤がつづいたと考えられる。
この試行錯誤の過程とさらにその一つの帰着点のありかたとして この作品において ユミヨシさんと呼ばれる女性との関係過程が 報告された。そのような事情のもとにあると思われる。それが この作品なのだと思われる。
(45) さらに推測として予め思われることは このユミヨシさんとの関係をも 主人公は 欠落感の強いせいか 超えていくように考えられる。ひとりで その先へと進んで行ってしまう。人を捨てるといったことを意味しない。この点はすでに強調した〔(42)〕。その上で逆に言えば この風の物語としては その相手が とくに女性として 重層的になっている。
(46) 鼠は すでに死んでいる。そのことが はっきりとなお 語られる。
(47) 羊男が再び現われる。この羊男が 主人公とユミヨシさんとの関係に介在しているとすれば その二人の関係は より一層 風の出発点にかかわり かなり特別である。まさにそこで経験現実が深められていくというべきである。
そして同じ理由で 逆に 二人の関係はまだ 出発点に到らないというふうにも思われる。なぜなら あたかも風の代理の如くこの羊男が現われていること つまりそのような介在を表現上持ち出さなければならなかったこと このゆえである。まだ旅がつづく余地を残すといっているのと同じであるから。
(48) それにしても この作品に到れば 小林緑との場合とはちがって しかも同じように場面は物語の最後のところで ユミヨシさんとは 実際の生活を共に始めることになろうとしている。

現実だと僕は思った。僕はここにとどまるのだ。
ダンス・ダンス・ダンス〈下〉 (講談社文庫)=文庫版 p.364)

と言うまでに到った。なおもこのユミヨシさんが自分の前から消えてしまうのではないかという不安をどこかに感じつつ――《この世界は脆く そして危ういのだ。この世界ではあらゆることが簡単に起こり得るんだ と僕は思》いつつ―― 最後に

《ユミヨシさん 朝だ》と僕は囁いた。
ダンス・ダンス・ダンス〈下〉 (講談社文庫) p.365)

こう語って話を終えている。
(49) 上の不安は 死の主題にかかわっている。つまり裏返して 生きる原則のことである。

・・・そしてあの部屋にあった白骨はまだ一つ残っているのだ。あれは羊男の骨だったのだろうか? それとも 別の誰かの死が僕のために用意されているのだろうか? いやあるいはあの白骨は僕自身のものかもしれない。それはあの遠く薄暗い部屋で僕の死をじっと待ちつづけているのかもしれない。
ダンス・ダンス・ダンス〈下〉 (講談社文庫) pp.363−364)

つまりこの死の主題は 羊男にもかかわっている。死にかんしては 初めの《風の歌を聴け (講談社文庫)》から出ているが たとえば《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》では わざわざ目立つかたちで こう書かれていた。

死は生の対極としてではなく その一部として存在している。
ノルウェイの森 (上) (講談社文庫)=文庫版 p.48)

まずこの問題は 《ノルウェイの森 (上) (講談社文庫)》の特に直子物語に対するわれわれのおこなった批判を補うためにも ここに 扱おうと思う。上に引用した一つの命題のあと こう続く。

言葉にしてしまうと平凡だが そのときの僕はそれを言葉にしてではなく ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。
(同上・承前)

この段階でわたしは これについて《平凡》でも明解でもなかったので 触れなかった。触れ得なかった。

  • この死にかんする命題は 西欧では歴史的な伝統の一つで よく知られているとの解説が出されていたかと思うが 解説者個人の具体的な説明はなかった。
  • 《汝自身を知れ》や《メメント・モリ》にしても それらは人間存在が有限な時間過程にあるという重要な内容を指し示すと思われるけれど 一般論であることを免れない部分を有しているであろう。

ただ こうして《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》に到って ユミヨシさんや羊男にかかわって死の主題が出されると 経験現実の問題であるとまずは 納得するようになった。《いま・ここ》なる基盤――もしくは生きる原則――が 固まったからだとも思われる。その上で捉えるなら まずは予めの結論として 風は自分勝手に吹く のである。つまり逆にそれとの関連で言えば 《空気のかたまり》と説明されただけでは 実感も確かな想像も だから何か批評することも出来なかった。
この作品は 主人公をめぐって 鼠・キキ・メイ五反田君その他の死者を数えるから その意味でも ひととおりの議論を展開しておかねばならないと思う。
(50) あらためて《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》では上に引用した命題をめぐって さらに説明が加えられている。長くなるが ひととおりの全部を引用してみよう。わたしには 理解しがたかった箇所である。もちろん シンライカンケイ論に重要なかかわりを持つと思うからである。

・・・文鎮の中にも ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きていたのだ。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり 《死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで 我々は死に捉えられることはないのだ》と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり 死は向う側にある。僕はこちら側にいて 向う側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして 僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。
ノルウェイの森 (上) (講談社文庫)pp.48−49)

親友の《キズキを捉えた死は そのとき同時に僕を捉えてもいた》というのは その歳でのわれわれにとって 何の嘘でもなければ誇張でもないと思われる。しかも 風の物語としてなら この表現のままでは まずいとわたしには思われる。
それは まずはかんたんに言って ただの心理情況を言い表わしたにすぎないからだと考えられる。そしてそれ以上の内容と重みがあるというときにも いまの限り 人事としての経験事実の領域にすべておさまる問題のはずだからである。経験事象の観察と実感としてなら 《死は生の一部である》と言っても いいわけである。しかも それだけのことだと言えると思う。
(51) これに対していささか図式的な理解を持ち出すとすれば それは 《現実だ》と思い 《ユミヨシさん 朝だ》と囁いた情況でこそ そして羊男にもかかわってこそ 死の主題が 自らの経験現実の中に捉えられるようになったということに まず もとづくと見なければならないように思われる。心理情況や経験事象が落ち着いたところで しかもそれらは有限で相対的な出来事なのであるから それゆえこれらの領域を超えるようにして 死の主題が 実感され腑に落ちるということのようだと考える。けれども もっと単純にやはり 次のようにわたしなら表現したいと思う。

死と生とは別だ。死は死で 生が生だ。生は死に何のかかわりもない。死は死で死にかんする風が吹く。・・・

これは 《対極存在》であるかどうかの観点とはちがう。対極存在の捉え方は 経験思考と論理の問題であり 風はここにおさまらない。つまりたとえ風の想定をしなくとも 互いに対極であるかどうかは その論理を超えては わからないという意味である。従って その捉え方で決め付ける必要がない。
(52) いま・ここなる経験現実にあって ユミヨシさんとの朝が朝であり それはやがて夕べとなりまた次の朝を迎える こういった時間過程にとどまるのだと言ったとき 生が生となり 死はもはやその生とは関係のない死となったのだと捉えたい。そのときには 《空気のかたまり》は 削ぎ落としている。
すべて 非現実(非思考・非対象)のことは 風に任せた。従って その生の反面で 確かに考えてみれば 有限なる時間過程なのであるから その生の欠如としての死は 起こり来ると思われる。けれども そうだとしても またそうであるからには そのような死は死で 言うとすれば 死のほうでの風が吹くことになる。
同じ風であるはずだが 同じであるなら余計に われわれは――つまりここでユミヨシさんと主人公とはそれぞれ―― その風のもとに 生きている。生きていることを見出している。死は 別の話だとなる。ただし風は 想定にもとづいている。
(53) 同じくただし ここで その話の中に羊男が表現上 介在するなら それは想定上 風の出発点(それの代理表現)であるから そこまで言ってしまっては・つまり 羊男の白骨であるかどうかと規定しようとするまで触れてしまっては これも まずいと思われる。
従って むしろげんみつには 羊男にかんする明示的な表現を必要としないところで 死の主題だけは必要なら介在させつつ もはや生が生であるというその経験現実に立ったとするほうがよいだろう。ひとまずとしてでもである。《配電盤》は 想定上 生死を超えていると思われる。
もし図式的に乱暴に言ってしまうとするなら これまでのところ つまりこの作品の今の今まで むしろ生の主題が 欠落していた。主人公の信頼原則なる思想をめぐって 見え隠れするかたちであった。言い換えると 人間関係の空虚やその欠落感あるいは死の主題が すでに生の主題を凌駕していた。あるいは ノルウェイの森に直子物語と緑物語といった二つの世界として見られたように 死と生との両主題が 心理上 綯い混ざりあわされていたのである。
これは 初めからの如く 空虚と虚無との綯い交ぜでもあった。これが 風の主題を 量的に覆うかのように 色取っていた。だから 鼠や指が四本の女の子から 直子や緑に到るまで 基調として一般に 出発点の形成途上にあったと見られる。
だからここで 上のノルウェイの森での《死に捉えられること / そんな空気のかたまりを身のうちに感じること》 これらの表現内容を わたしとしては 吹き飛ばしたいと思う。これは ノルウェイの森での直子物語が 失敗だという物言いと一体である。直子のある種のこころざしやそれのために死に向かうこと そしてそれらに対する主人公の態度 これは キズキにかんして述べられた死の主題と 一体のものであろうから。
(54) いや待てよ 上に《風は勝手に吹くのだから》と書いている それなら シンライ関係の出発点に立つというのなら 《風に吹かれ 風に捉えられること》として 《死は生の一部である》となるのではないか。
いや ならない。想定の上でいえば 《生は風の一部である。そしてもしお望みなら 死のことも風の一部である。》とならなければならない。望まなければ 死は われわれにとって どうでもよい となる。
死は死のほうで自らの面倒を見る。けれども 羊男は 風の代理表現であり 風じたいではなく シンライ関係も 出発点にあって いわば無力の有効 / 有効だが無力(つまり 虚無に支配されずしかも空虚でありうる) なのだ。
だから――表現やその手法の問題で争うわけにはいかないが―― 《風に捉えられること / そう感じること》 これも 実際には ないと言ったほうがよい。非思考なのだから。
確かに事情は複雑だ。完璧な文章など存在しない。

《完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。》
僕が大学生のころ偶然に知り合った作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが 少くとも それをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない と。
風の歌を聴け (講談社文庫)冒頭の文章)

  • ちなみに この引用文の中では 《完璧な絶望が存在しない》に注目できる。証明不要であるかのように持ち出しているからである。空虚が 完全な虚無なのではないということを あたかも人びとに成り代わって 処女作から一貫して 疑い続けているというのが この風の物語であると言ってしまえば 味気なくなってしまうだろうか。 

(55) この生死の主題で ノルウェイの森をめぐっては かなり出しゃばった物言いをしたけれども この《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》での主人公の述べる考えと じつは 遠くない。その生死観もしくはシンライ原則では 一致しているとすら思う。
(56) それは 少女ユキの母アメの恋人であるディック・ノースが交通事故で亡くなったあと ユキはかれに生前にひどいことを言ったことがあるのを後悔して そのことを主人公に相談する場面に出て来る。主人公の答えたことは まず つぎのようである。

そういう考えは本当に下らない・・・後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない。
(《ダンス・ダンス・ダンス〈下〉 (講談社文庫)》p.211)

その意味はこうである。

・・・君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら 僕は君にそんな風に後悔なんかしてほしくない。口に出して《酷いことをした》なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり 節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ。
(同上・承前)

長くなるし 途切れ途切れだしするのだけれど もう一節 その続きを引用しておこう。

僕の言ってることは 大抵の人間にはまず理解されないだろうと思う。普通の大方の人は僕とはまた違った考えかたをしていると思うから。でも僕は自分の考え方がいちばん正しいと思ってる。具体的に噛み砕いて言うとこういうことになる。
人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているより ずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に できることなら誠実に。そういう努力をしないで 人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に。
(同上・p.213)

これが シンライ原則のはずである。
シンライカンケイへの踏み出しであり つねに自らの出発点(時間過程)としてすでに踏み出しているということであろう。言いかえると これが 生の主題である。生きている今が すべてであって じつは 死は存在していないと言っていて よいのである。
《死は生の一部である》と表現した命題から同じ結論が出たというようなことになったけれど これはありていに言うと この命題は今のシンライ原則の重要さを説得するための表現であり もしそのシンライ原則にすでに立ったならば死はその生とは別であるという表現が得られるものと思うことである。立ち場で変わる。
書かれた物語に即して見るなら まず 自らの身に感じた《空気のかたまり》としての死にかんする観念や思考を介して 《悔いの残らないように公平に できることなら誠実に 人と接する》という事態が起こっている。もし風の物語としてなら このように自らの思想の一部に ある種の根拠(すなわち表現じょう 風)のようにして経験思考にもとづく生死観(=いまの命題)をかかげることは その風を 経験事実の領域に引きずり降ろしてきたことになる。だからである。
非現実とすでにかかわった自らの経験現実として すでにそこにわたしは風の歌を聞いている それにもとづいて公平かつ誠実な人との接触を心がけているのだ と言う場合 この場合にも そうだとするなら シンライカンケイは それを自らの意志で成立させようと思えばすることが出来ると語ったことになりかねない。これは 志であって その空虚ではなくなる。まず空虚でなくなり 欠落は埋められる。だが それだけでは(あるいはその成り立ちでは) シンライカンケイとしての出発点における《無力ながら有効 / 有効ながら無力》の想定とは かけ離れる恐れがある。
ゆえにわれわれの経験現実なる生において 死はいっさいかかわらないと表現したほうが 妥当なのである。自らの思わくによって 生死観を定めたり それゆえその考えにもとづいてこそシンライ原則を公平・誠実な交通として――自力で――実現させたりすることではないと思われる。
(57) ちなみに この生命原則とシンライ原則との出発点は 一見すると 例の一期一会の考え方によく似ている。どう違うかをも述べて この問題を締めくくろう。
ふだん会うときそのつどが 一生一度の出会いだという茶道の思想は それゆえ慎重に振る舞うべきだと言っている。だったら 《公平に できるだけ誠実に》というのと 同じではないか。この意見にかんしてまず 《公平》も《誠実》も そして《慎重》も いづれもそれほど確かな内容を指し示しているとは思えない。あるいは逆に 《死んでから後悔しても始まらない》という点では 共通のようである。だが要は そこに 《一期(一生)》ごとの人生があると見るかどうかに 違いがある。
一生・二生・・・と続くと見たり あの世で会わす顔がないなどと想定したりするなら これは 生と死との綯い交ぜという全体条件に立っていることである。その前提に立つ場合にも 果たして《後悔先に立たず》が成立すると言えるかどうか これが問題となる。来世ないし次の人生で償いが出来るということになれば 《後悔しないように》という原則は 矛盾が起きる。《一期一会》という原則が 第一生・第二生とつづく人生で それぞれのステージに応じて反復されることになろう。

  • そういったところで 永遠の全人生(輪廻転生?)をまとめて ただ一つの《一期一会》なのだとしても 人間のやることは 有限ですべて相対的なことである。のだから その相対性をさらに一つの世ごとに分割して 相対化することもない。

けれども 死んだらおしまいなのである。こう言って初めて 死の問題に・従って生の主題に取り組むことができるのである。
あるいは死んだらおしまいとなるかどうか 人にはわからないし 決められないのである。だから一切それ(向こう側)については 考えないがよい。詮索しないがよい。そういうかたちで おさめておくのがよい。そうでないと シンライカンケイは 永遠の輪廻転生となる。六道輪廻とは 好悪原則の繰り返しのことである。
シンライ原則にかんして 永劫回帰は まちがいである。永劫回帰なる観念と思考とが 非経験の風の領域を侵すことになる。とともに 当然の如く 出発点の人間関係は ありえなくなる。人間関係が どうでもよくなる。のっぺらぼうで 何でも有りとなり 一般に飲めや歌えやで済む。よく言えば その都度の真剣な慎重さで振る舞えということは 人間の人間による人間のための志で すべては済むという思想である。
だから もちろん 間違いを犯すことはありうることであり そのときには 反省もすればそこに悔いを伴ないもするが その後悔を口にすることはないということであり 後悔を抱いて反省する時は もはや来ることがないというのが 生の主題にとってのシンライ原則であろう。人間の経験思考にもとづく志や道徳で 後悔を述べることはないという原則である。
もし一期一会の思想が このような内容を言ったものであるとするなら 話は別であるから わたしの不明をわびるとともに もはや議論を終えてよいはずである。
(58) 勝手ながら こう捉えた上で 他の登場人物について見てみたい。キキや五反田君らとの関係を考えておこう。ユミヨシさんとの関係で具体経験的に シンライカンケイの確立されゆく土壌が出来るに到ったと思われるが いまは そこに到る途中の過程での出来事である。
(59) 耳の女キキは この作品ではすでにほとんど初めから死んでしまっているから 以前の作品に戻ってみなければならない。われわれの(19)〜(21)の議論をうけつぐことになる。
つまり《羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)》に戻るとき そこでは主人公が 黒服の秘書である人物とわたりあうところで 一個人としてシンライ原則とよぶべき一つの思想が形成されつつあり それがよく描かれたと考えていた。断片的に文章を引いて 部分的なかたちで例証しないほうがよいとも考えた。実際これは 今も変わらない。当然の如く この秘書との対立をとおしてでも 二人のあいだに シンライ関係は捉えられ そのことを扱わなければならないのであるが 煮詰めた議論としては もしここにシンライ関係が成立しがたいとすれば それは主人公の側の責任であるよりは 秘書の側に原因があると言い このような意味で 主人公一個人としてのシンライ原則を捉えようとした。
つまり 言葉による表現を通じて意思疎通をはかるとき これをすでに暴力に訴えて実現させるというのは あたかも 具体的な一個人の特定の志を 真理として正義として至上命令であるとして 是が非でも実現させようとすることと 同じである このような事態が シンライ関係の不成立の原因であろうと。従って主人公の側にシンライ原則が形成されつつあると見てよいというのは 次のような実情をその理由としてよいからだと思われる。必ずしも死が生の一部であると捉えたゆえではなく すなわち その意味において死の観念を抱き それについて思考をめぐらし秘書からの要望に対して対策を立てるというかたちではなく このときの主人公にあっては 生が自らの経験現実を捉えている このような実情にもとづき シンライ原則の確立を見てよいと思われたことによる。

  • 主人公は 黒服を前にして危機に直面し 神妙であり このとき 生がみづからの経験現実をしっかりと捉えている このゆえに 自己の自身に対するシンライ原則を樹立しようと努めたのであろう。

キキとの関係 キキに対する態度 これも そのようなシンライ原則としての出発点に立つ主人公の振る舞いとして 捉えられるように思われる。
(60) キキという一人の人間にかんして それまでにかのじょ自らが人間関係の一般において隠していた部分 すなわちその耳の素晴らしさといった長所 これが もはやかのじょ一人の内に閉じ込められることなく 主人公との関係という社会へと開かれることとなった。つまりこれを かのじょから主人公は引き出した。単純にこのことは 主人公がすでに人間一般の出発点に立ち到っていることの影響と結果とであろうと考える。
この場合 キキの側からの主人公への影響も考えられるであろう。実際そのとおりであると同時に このキキにかんしては その社会的な立ち場が複雑であるとも思われる。そしてこの複雑な立ち場を 二人はいまだ解決していないようにも考えられる。
従って主人公に対するキキのもたらした影響は 主人公にとって 彼個人としてのシンライ原則の奥になおうずくまる欠落感 これの内なる運動を引き出し何がしか導いていくという内容である。そのようなきっかけを提供することは重要であり 重要であるとともに それは きびしく言えば なおも部分的にはつづく発展途上の過程そのものにおさまることだと考える。
しかるに 具象的に耳の秘密を開かせるという影響関係は 一般に人間存在の出発点じたいにかかわり 風の歌を聴こうというかの経験現実に立ちあわせ これは すでに発展途上の過程そのものを超えるかに思われる。従って ここでの焦点は 主人公からキキへの方向での影響関係にしぼりたいと思う。
(61) わたしは精神分析は好きでないし そのまますんなりと賛同することができないと思っているのだが 主人公がキキとの交通関係で見せた振る舞いは キキにかんする精神分析上の治癒にかかわるように思われる。
精神分析に賛同しがたいというのは 普通の人間関係における過程的なきっかけとしてみれば済むものを ある種の形而上学にまで引っぱっていき そこでの理論的にそして図式的に わざわざ説明するという嫌いがあると思うからである。それにしても 主人公がここでキキに対してきっかけになるというのは 単純に古い言葉でいえば かれの徳なのだと思われる。そして これをはたらかせうるのは やはり単純に 風の問題 すなわちシンライ関係にかかわる経験現実であると思うからである。
このような指摘をしておけば もはや特別の例示を必要としないと思われる。あとはキキの置かれた社会的に複雑な立ち場のみ 議論を残すものと思われる。
なお精神分析は これも 発展過程の領域の内におさまると考える。それは 《無意識》であるとか のちに話題としたい《井戸》=《いど(id)》(?)であるとか それじたいは 自己のシンライ原則の形成の上で きっかけになると思われるものの さらには出発点存在の一部であるとは思われるものの シンライカンケイの出発点それじたいでもなければ 風そのものとも別であろうと考えるからである。
キキは自分の耳の問題をめぐって イドもしくは無意識に達し これをきっかけとして シンライ原則へと導かれるのだと思われる。
(62) キキの社会的な立ち場が 具体的に主人公との人間関係において複雑にからんでくると思われるのは 次のような場面と事情においてである。
キキは 主人公と交際を始めていた途中の段階で 例の黒服の秘書から言い含められ 主人公に星印のついた羊を探しに行くように仕向ける役目を負わされたと推測される事情が まず考えられる。黒服は途中でかのじょに接触してきたのだという推測である。この事情をキキが隠したとすれば その段階ですでに半分程度は 主人公を裏切っていたのであろう。この推測をつづけるわけだが 十二滝町の鼠と出会うことになる別荘に共に二人で着いたあと そこからふっといなくなってしまう。これはそうとすれば 予定の行動であったかも知れない。つまりそのキキの失踪も あらかじめ秘書の男と交わした計画どおりの実行であったか それとも 秘書によってそこから連れ去られたかであるといった推測である。
キキは実際には 鼠じしんであるとも考えられる羊男に追い返されたのであるが 自分自身の内に隠れた負い目を持っていたことも 関係するように思われる。札幌で泊まるホテルを いるかホテルとわけもなくキキが指定したのは もともとかのじょは知らされていて主人公には隠していたという事情が推測されるからである。
失踪したかのじょの行方を その後 この《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》では主人公が 回顧をしつつ 思いやるといった恰好となる。
(63) 加藤典洋氏が キキの別荘からの失踪もしくは鼠=羊男による追放(そして主人公によるそれの承認)という展開を 批判している。

《この作中唯一生き生きとしていた登場人物》たるキキを ここで鼠も主人公も失うことは 後者二人それぞれの《自閉》状態を表わす。たとえそういう経過をたどるにしても 《どれだけの自閉の深さとひろがりが必要か》の問題になるだろうし その問題から見てこの作品では その描写上の《村上の弱さには村上のしるしがついていない》と。
これは 壁の中の街として内向する日本社会〔の文学〕の鎖国性にかかわり そのような《日本社会の欠落の影》をまず受けとめ 受けとめてはいるのだが 新しい世代として 自らにしるしづけているだけに終わるのではないかと。しるしづけは あたかも無意志によって社会の推移としての表層をなぞっただけで すべては自閉的な空虚が覆ったままであるのではないかと。
ここには 一般論としての日本社会の問題と 具体的にキキを主人公ら二人は追放するべきではなかったという問題点とがある。一般論のほうは かんたんに すでに触れた〔(28)〜(30)〕。そしてこれは 加藤氏じしんが 《一篇の小説の力はそういうところ(一般論)にはない》と見ているとおりであろう。
キキ自身をめぐる問題点は かのじょの社会的に微妙な立ち場にかかわらず 主人公らは自由に最後までかのじょの存在を受け容れているべきであったという議論である。これは 一方で 自閉ではいけないとすれば それに説得力があると思われると同時に 他方で キキ自身の側に ある種の疾しさがあって 自ら身を退いたという要因もあったのではないか。この別種の推測による見方をわたしは 捨てきれない。その見方によるならば 結末は不幸なのだが そのように自ら退くかたちで行動したキキは そのかのじょ自身のもとに むしろ自閉にとどまらず それを打ち破ろうとする動きが 捉えられるように思われるのである。主人公のシンライ原則 もしくは作品全体としての風の物語 これにとって そのようなキキの動きは 成功であると考えられる。
(64) あたかも精神分析じょうの自己治癒にかかわるようにして――互いに《意味生成の過程を歩む主体》どうしとなってのように―― 主人公が自らのシンライ原則をたずさえての如く関係過程を繰り広げるのは 五反田君の場合にも 明らかであり 同じようである。五反田君も キキと同じように 不幸な結果に終わるが むしろ外にあって外から来る社会心理じょうの付着物――つまりこの場合 かれの映画俳優としての虚像など――をすべて削ぎ落とし 単なる出発点としての自己存在を見出すに到る。これは 主人公の 主人公じしんには確立されつつあるシンライ関係のちからが きっかけとなったという見方である。
実際の結末は悲しいことなのだが あたかも出発点たる象が平原に還るといった経過が 捉えられるかに見える。――そしてじつは 言うとすれば 五反田君の場合も この死をえらぶ道をも克服することが さらに新たな課題となるはずである。実際 精神分析の側が 死の本能などということを説くのであり 理論的に言っても 無意識やイドは あくまできっかけであって 風の歌に達しない。そうとすれば この場合 象は平原に還りつかず その途中で挫折したことになる。きびしい見方として 五反田君は ノルウェイの森でのキズキや永沢の類型に入るのかもしれない。
(65) 長くなるので その他の登場人物や具体的な出来事は もはや別の議論としよう。
ただし一言。わたしは 小説を読む楽しみとしては この《羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)》と《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》の中に たとえばデュマ・ペールのダルタニャン物語(《三銃士 (少年少女世界文学館 18)》など)の面白さを見出した。性格内容がちがうけれども 物語の楽しさは 共通である。
次の《国境の南、太陽の西 (講談社文庫)》で 主人公は 出発点の《わたし》に近くある自らの状態を見出したかに見える。
(つづく→2005-05-04 - caguirofie050504)