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哲学いろいろ

――シンライカンケイ論――

もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407

第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-05-01 - caguirofie050501よりのつづきです。)

第五十九章 思想原則をあたかも消去法で探し当てるかの如く・・・。

? 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

(23) 作者は 想像上 風の世界をここですべて消してしまってみるという一つの実験に取り掛かった。
その意味でこの作品は 特殊な成り立ちである。
(24) 《世界の終り》なる仮想 あるいは《世界の終り》なる世界の仮想。人間関係の空虚から虚無へ そしてその世界の崩壊へと 想像上 進めてみる一つの方向〔(9)〕 これとかかわっているのであろう。あらかじめの結論としては 一つに ここで・そしてここでも 語り手の分身であると疑われる鼠に似た《》が登場していること また もう一つに その《世界の終り》なる壁の中の街にも 心を捨て切れずに心(?)を持ってさまよう人びとの棲む《》が想定されたこと これらによって――上に言う実験の結果―― 語り手もしくは作者あるいは春樹氏じしんは 風の消滅を捉えきることは出来ず 世界に 虚無のみ!!の宣言を打ち出すことを得なかったものと思われる。
また同時に消極的にだが このの中での図書館の女の子が 壁を超えるべき風なるシンライカンケイの望みとして 語り手にとって 捉えられているのだと思われる。壁の中に居残ることを選ぶ語り手であるにもかかわらず かすかな望みが生まれているかに描かれた。それは 全くかすかな望みであり むしろ単なる思い入れのようなものであり そしてこの思い入れにすぎないこと自体が 幸か不幸か 実験の失敗したことを示す。初めの実験つまりこの一作品全体の実験がである。そして 幸か不幸か である。
しかも ある種の見方で言うとすれば この街を仮想したことじたいが 大きくは鼠の志の観念にかかわっている恰好にもなっている。死者としてのではなく 事実経過にさからってでも 経験現実を生きる鼠ないし影の意志にかかわってである。それ(鼠らの意向)とは測りようのないというほど遠い隔たりを介してだが その鼠または影の存在じたいには逆らえない あるいは単純に生命原則には逆らえないその結果としてのように。つまり シンライカンケイは この《生きる原則》なる大前提を抜きにしては もはや想定すら出来ないということが 正当にも(おそらく)尾を引いている。ただし 実験の方向と内容とから言って 《羊男》の登場する余地は ここにはない。
(25) また この《世界の終り》なる仮想の現実性・そこにおける出来事の現実性 これを補うために 他方で ワンダーランドにおける語り手の物語が 添えられている。脳の中に第三回路をはめ込まれるという手術を受け 死――または 風の世界の想定上の消滅――を迎える。この死は 消滅の想定であるから むしろ虚無のみ!!というその意味での永生の状態が 仮想されたことだと考えられる。そのように 壁の中の街へとつながる。そういう実験を 語り手は 作者によって 強いられ これを甘んじて受けた。
その結果は すでに見たように この仮想のありえないということなのだと考えられる。その実験上の仮想を 肯定的に断言しえなかった。
(26) ただし ここで 上に触れた影の存在は むしろ捨てられたのだと思われる。影の存在という問題がかつてあったのだという認識が はっきりと確認され――シンライカンケイの大前提たる生きる原則が 確認され―― それとして新たな一段階に入った。しかも そのような遠い関係にある存在の問題としては・つまり 鼠物語が新たな段階においてとらえられる限りでは どういうわけか のちにも この鼠や影のことが 引き継がれていくようである*1。しかも 最小限の生きる存在関係としては 共存するという大前提なのであろう。

  • また このことが 一個人における生活態度としてのシンライ原則にかかわるだろう。

繰り返すなら 壁の街から脱出していくそんな影のことも むしろ作品の全体から見て 語り手にとって(あるいは 聞き手であるわれわれにとって) 社会関係のもとに大きくは共存する存在であると 再度 確認する。風の消滅という想像上の実験が 幸か不幸か 失敗に終わったという結果から見ても そのように語ろうとしたことになるであろう。ただし 段階と局面とが 作品の著者=読者の視野にとって 新しくなったはずである。鼠の自死や影の脱出を経たことになるわけである。
(27) このようにして 語り手ないし作者は 物語の結末とは別に 大きく広くは 《いま・ここ》に帰ってきた。風の消滅はありえない――もしくは 無風すらも 大きく基本的に風の物語に属するのだ――と学びつつ 同時に 《事実》としてシンライ関係の全く空虚なる世界の真っ只中に。だから 情況は これからも これまでの作品と変わらない。むしろ語り手自身はいま・ここなる経験現実に帰還して 新たな段階へと自らを変革したことになる。風の歌を聴くに 一歩 近づいたと言うべきだろうか。しかも風は 非経験・非思考・非対象である。
(28) なお 壁の中に閉じ込められた街は 日本社会の実情をたとえたものとして捉える視点に立つならば 作品全体がよく把握できるという議論がある。

かんたんに言って そのような見方をとったときにも 作品をめぐる事情は変わらないと思われる。
(29) 《世界の終り》と名づけられ 風の消滅を仮想した一つの世界が 日本社会に喩えられたという時 そこにはまず 次の三種もしくは四種の人間がいるわけである。
? 心(意志の自由選択)を失くした人びと。穴掘りを 穴掘りという目的のためにのみおこない 生きつづける。少々色をつければ 人生はすべて仏道修行であるといった大いなる悟りまたは諦観のもとにあるとでも言うべき。スノビズムとしても論じられている。
? まだ心を保っている人は 古い夢を読み続ける。過去の歴史に・あるいは研究という仕事一般に いわばそれとしての自己の修行道を見出したというかたちになっている。特には自由意志の攻撃的なまでに旺盛な欧米の人びとの思想を ただし自分たちにとっては夢としてのように 読み続け研究しつづける。
すでに悟りに達しそれゆえ心を失くしたという人びとは その強さが 弱い一角獣たちの上に 自分たちのそれでも経験せざるをえない苦や煩悩を押しつけ しわ寄せさせることによって 成り立っている。いまわれわれがおこなっているこのような一つの分析のたぐいを提出することまでは つとめておこなっていると見られている。
? 上の二種いづれの立ち場をも採りえない人は (鄯) 心を捨てきれずも無力感の内に 森に逃れてそこに棲みつづけるか (鄱) 無力感に甘んじることを採らないなら この街全体からの脱出を試みる。
(30) 従って これら三種ないし四種の人間のあり方を分析したぶんには 《世界の終り》なる街の像は 日本社会論である。と同時に 小説物語は これに満足しているわけにはいかない。まさに《一般論》を拒むかのように 一個人として・しかもこの街にとどまる一個人として そこに自らの動きを問い求めようとしている。
そのとき かれもやはり 四種ないし三種の人びとから自由な立場を採ることを得ず 図書館で古い夢を読み〔?〕 森の中に棲むこと〔?(鄱)〕を選ばざるを得ないとしても その語り手ないし作者あるいは春樹氏自身としては このような物語を紡ぐ意志の地点に 存在しようとしている。
そして実にこのことすらやはり 三種ないし四種の類型からどれだけ自由であるのか 非常にあやしいものだとも言わなければならない。
ただ ここで言えることは これらすべての実情と分析とのほかに わづかに この作品を一連の風の物語における一つの段階において 一つの実験をおこなったものとして提出するというやはり意志が 示されたと見られることであろう。
この点で 《世界の終り》なる街が 即ち日本社会論であるという見方を交えても 事情は変わらないものと考えられる。

? 《ノルウェイの森

ノルウェイの森(上)

ノルウェイの森(上)

ノルウェイの森(下)

ノルウェイの森(下)

(31) 空虚なる信頼関係がまったくの虚無のみなのではないという経験現実 少なくともそれを問い求めつづけるという位置に 主人公は 立っている。あるいは その位置でさまよっている。そのように物語がつづき そこから新たな出発が始められる。
従ってちなみに ここでの《森》は 前著で扱われた壁の中の街にある森とは 別であろう。後者は――つまりその全体としての想像上の実験は―― ご破算となっている。
(32) その主人公である語り手は ただし すでにおよそ二十年後の時にある。二十年前の自分をめぐる世界を回想しつつ 風のかかわる出発点 それとしての人間関係を 模索する。あるいは まだすべて受動的な姿勢にあるから 成り行き任せの如くそして回顧の中で発展途上の過程を再形成するかの如く 自らの経験現実の流れに立ち会っていく。
二十年の時の隔たりは 人間関係にかんして なおここでそう言ってよければ 試行錯誤を歩んでいることを示そうとしている。積極的な結論は 出されていない。少なくとも 二十年前から生き残っている人びととの関係が 二十年後の今と 必ずしもつながれていない。
ほとんどの人びとは死者となったから当然のようであるが 中で どこかで暮らしているはずの小林緑が今どうしているかも わからないし 死者たちについても その理解が もう一つ明らかなかたちでは 示されない。
あらかじめ言うとすれば 二十年後にしてこのようであるなら あのシンライ原則が この作品では 一歩後退したかの感も否めないように思われる。
(33) 少年時代からの親友キズキも 語り手にとって 風のかかわる信頼関係のもとにあるのではなかったと言おうとしている。親友にしてそうだというのであろう。
ある種の仕方でむしろ自らに固有の出発点ではないかと疑われた永沢との関係も 語り手にとって 実際に初めからそう思われていたように 風の問題として長く続くものではなかった。なのに 永沢として《永》の字が入っているのは 信頼関係の空虚が 自らのことでもあると捉えられたこと その自らの空虚(欠落感)がつねに虚無と接しつづけていること これを示したものだと考えられる。
ここでは 全般的に 物語は 発展途上にある。
(34)それはまた すでに別れを見たと思われていた鼠ないし影との関係が なおここで 親友キズキとの関係に――そのキズキの死後も―― どこかに 一面では正当にも そして消極的にだが 続いていることの自覚に通じているのではないか。これは 一面では正当にもである。
あの星印をつけた羊が人に入り込むという観念の王国 という観念 これとは もはや遠く隔たっているけれども なおその経験現実において むしろ風のそよぎのもとに このこと(すなわち 観念をめぐる志)を執拗にとらえつづけている結果であるように思われる。

  • もっとも キズキ自身にかんしては 思想の上でそんなに重きを置かれていないかも知れない。かれのばあい かれは主人公に対して親しい関係にある自分として見せる以外の自分を 見せようとしなかったと書かれている。
  • これは 演技原則でもなく 出発点の《わたし》がつまり自分が 自らの意志で分割されていて そうとすれば これを使い分けするということであろうか。考えられないことである。ありえないことである。人間以前の状態にある人間である。

(35) キズキの恋人だった直子 永沢の恋人だったハツミ あるいは一種謎の人物・小林緑 これらの女たちも――結論から言って―― キズキが去っていくことになるのと同じように 一方で 青年にとって信頼の感覚が持たれ合われたというかたちで信頼関係に立ちつつ(つまり 立ったと何となく感じられつつ) 他方で 後からの回想のもとにでも 風のかかわる出発点を形づくらなかったと見ている。
一言でいえば 再び 《風の歌を聴け (講談社文庫)》の中の空虚感に 戻ったと考えられる。
ただし 局面は新しくなっていた。新しい段階に立ったゆえ あらためてそのような欠落感の織りなす実際の歴史が たどられていったとも考えられる。
(36) 具体的に 直子にかんしては 結果論としてでも そのように空虚そのものとして実際にも語られている。事実経過としては むしろかのじょの意向をすべて受け容れ かのじょその人を丸ごと引き受けた恰好なのであるが その主人公は それゆえにこそより一層 欠落感が増すというものである。
かのじょとの関係は そこでの主人公の振る舞いとともに ひとまずは 突き放して捉えざるをえないのではないか。つまり作品じたいが そのことを 要請しつつ 物語るのではないだろうか。
(37) 具体的に。あの《1973年のピンボール (講談社文庫)》で主人公が《愛していた》同名の直子と同じような人物であるのかどうか。《ピンボール》のほうは 叙述が少ない。
この《ノルウェイ》の直子の場合も 主人公がかのじょに《恋をしていた》ぶんだけ かのじょとの間に風の物語にかかわって希望を抱いていた。姿勢が受け身だからでもあるが――あるいは もっと詳しくは 小説じたいの成り立ちから言って 主人公は単なるものさしの眼*2としてのようにのみ 存在しているからであろうが―― 愚直というほどに かのじょの存在を受け容れていたし 引き受けようとしていた。シンライ原則にかかわると見えつつ 二人のあいだの関係においては それ(受け容れ・引き受け)が 相手に届かなかった。けれども のちになって直子を理解したというその内容は 明言されたこととしてなら 《直子が僕を愛してさえいなかった》(〈第一章〉)ことだけである。
たとえば その恋心や親身になって注ごうとする愛情のことを別としてよければ 主人公が直子に 《肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ》とある種の助言を与えたとき 直子からは 《どうしてそんなこと言うの?》と むしろ突き返されることになる。このとき もし実際にも直子の言うとおり 《肩の力を抜けば体が軽くなることくらい》かのじょに分かっていて しかも《もし今肩の力を抜いたら 私バラバラになっちゃうのよ》というのであれば 主人公はこれに対して 《バラバラになっちゃっても そうしたほうがいいのではないか》とすら 返すべきであったと思われる。このとき《僕は黙っていた》ことはなしにして 仮にそのばあい薬の補助や医師の介助が必要であるなら それに頼ってよいはずである。主人公も 看護の手を差し伸べるはずである。
つまり このように対話が進められる道しかないと言おうとするのではなく シンライカンケイにかかわっては ここに こんな物言いを差し挟みたくなるような一つの問題点が おそらくほかの場面でのそれらを象徴するかのように 横たわっていると思われるからである。

  • 《バラバラになっちゃえ》という答えを返せとは言っていないのであって 対話を噛み合わせていくことが重要であるのではないかというものである。親身であり引き受けるということは 多少の波風を立たせるほどにまでは噛み合わせることをおこなうのではないかと。
  • こうは言うものの 日本社会の中で 日本人の間で 理論どおりに・思想原則どおりに ことが運ぶというのは 言い過ぎだと分かっている。若い人たちには 大いに 自由に振る舞って欲しいし 作者には ささやかにでもその省察を後知恵でよいわけだから差し挟んで欲しいとも思うが 日本人どうしのコミュニケーションが成立しがたいことは それが この評論を綴っている理由であるのだから 一朝一夕では解決しないかもしれない。そして むろんその問題として わたし自身の経験を第一部に公開*3した。

またこの作品での直子にかんする限り かのじょは むしろ初めから ある種 志の人*4であって そのあいだの距離関係を測り難く そもそも出発点の人間関係すら 形作りがたい状態に入ったと思われるからである。ひとまずとしては ここまで 突き放して見る必要があると思われた。
(37) 勿論 先ほどの《僕は黙っていた》という短い一文の中に すでに二十年後の主人公あるいはその背後の作者から見て たとえば上に触れたような突き放した見方を 間接的にじゅうぶん織り込んでいるのかもしれない。
実際そのようにも受け取りうる。つまり直子理解は 作品の全体として もっと広く深い内容に及ぶということであるのであろう。だが そうだとしても 例えば再び上に戻ってその《志の人》というのは この直子に即しては実際じょう端的に《処女》の思想の問題*5であって もしこれだとすれば まだ 風の歌にかかわる羊男の介在が持ち上がる段階ですらない。古い格言にちなんで言えば まだ《肩の力を抜くといった経験思考と実行との人事を尽くして天命を待つ段階に到っていない》ということである。経験上の人事行為の領域内でのみ いわばボタンの掛け違いのごとき喰い違いが起こっているのみだと 極論してよいように思われる。これは たしかに 恋していた主人公にとって のちの回想の時点でも《哀しい》ことであるが もし上のような言わば初歩の喰い違いのことが 作品をとおして読者に伝わらなかったとすれば そのことのほうが 哀しいと言うべきである。

  • 処女の問題などは 二人で とことん話せば なんとでもなる。言いかえると シンライ原則は 処女の問題を超えている。
  • だからシンライ原則の立ち場から――還相の過程で――処女の問題をこそ大事にするという見方もできる。
  • とはいうものの わたしは 多くの直子ファンに対して憎まれ口を ここで たたこうとしているのである。直子は ひとことで言って 素直な子ではない。

(38) 直子との関係は その出発点にまだ到っておらず 必ずしもその発展途上ですらないように思われる。
粗探しのために言ったのではないことの証拠に この作品は 直子物語としては 失敗であると考えている。これが 《完成された作品》*6だというのは そういう裏の含みを持って語られていると考える。
もう少し詳しく見よう。

歪んだ観察力や傾いた判断力にあわせて存在そのものを歪めたり傾けたりすれば けっこうちゃんとした文章は書けるのだ。
村上春樹:〈ローマよ ローマ 我々は冬を越す準備をしなくてはならないのだ〉 新潮 1988・2)

という如く 作品全体の結果として まともな見方に立ったまともな感動が 個々の筋の運びでのゆがみや喰い違いを残すにもかかわらず 伝えられることになったのではないか。もし仮に 《リアリズム小説》として主人公の振る舞いや歴史がそのまま 一つひとつまともな思想として受け取られるとすれば それはいわゆる日本社会の人情物語にすぎないと考えられる。それは 風の物語から 遥かに遠く はずれていくものと思われるのである。――これが 一連の長編小説の中で ほとんど唯一の物言い*7である。
(39) それよりはむしろ ハツミのほうが 出発点のシンライ関係を形作りえた人物として 登場しているように思われる。
かのじょは 自分自身 永沢とそういう関係をきづこうとして きづきえなかった。そして 破滅に到る。主人公は その二人の間に割って入ることができなかったのだから かのじょハツミとの特定の男女としての出発点関係にかんしては すべて想像上のことに属す。すべては 過去である。そして ハツミ自身の風の問題は まず永沢との関係にあって そのほかに成り立ち得ない情況(ハツミの志?)だったから 消極的に言って やはり主人公にとっては 去っていった人物である。
(40) 緑はどうか。言うまでもなく 物語の最後のところで 主人公は自分から――それまでの受け身の姿勢を始めて翻すかのように―― 互いに出発点の関係をあらたにきづき始めようと申し出ているではないか。それなのに この緑も 主人公にとって 去っていったと見るとは どういうことか。
それは この電話での申し出のとき 主人公は《どこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた》と言うのだから というのが理由である。単純に読んだ場合 その自らの申し出の内容に その直後に 疑念が生じたと考えられるから。直子事件を終え 自分の内にもそれをひとまず落ち着かせたのだが なおそれの単純な反動としてのように この電話での申し出をおこなったとも考えられるからである。まだそれにすぎないという見方も できる。
あるいは 推測としてなら 別様に考えられる。その電話でのとき 《僕はどこにいるのだ? / いったいどこなんだ?》と自らに問うことのほうが 風の出発点にふさわしいと推測してみる場合である。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド》の実験のあと その結果 ともかく新しい段階として《いま・ここ》に帰ってきたのだから そこでの経験現実は むしろ《今はいつで ここはどこだ?》と問いつづけていることのほうが ふさわしいと見る場合である。このような主人公は 自らと緑との間に 信頼関係を見ようとしていることになろう。
この場合 唯一の疑問は 緑が 主人公にとって二十年後の今 どこにどう位置しているのか これがわからないということである。
(41) 単純に 緑という人物は かのじょ自身にとって いま・ここが確実であるという存在であって その確実さに主人公は いま初めてのように自らの意志をはたらかせて申し出をおこなった時 その声をあらためて聞いて 多少の驚きと戸惑いとを感じているということだろうか。
そうとすれば なお試行錯誤のもとにあるはずである。その限り あたかも緑をも過ぎ去ろうとしてのように 主人公はなお 風の歌を探し求めつづける。
否 風の歌はすでに自らのもとに聞いている――空虚であって 虚無のみではない / そしてシンライ原則を自らの内に形成しつつある―― こうであるからには 緑との関係に いま この志(あえて)をあらためて形作ろうとするか それとも緑をも去って 旅をつづけるか 結局 いづれかなのだと思われる。ここには 恋愛はない。
または 恋愛関係(好悪自然の感情とその心理関係)はあるが なお現実を求めて ふつうに その意味で正当にも 発展途上にあると むしろ自ら 語ろうとしている。こちらが先で そのあと もし緑が その関係の対象になるとすればなるのだと考えられる。
もしこの作品に 直子物語と緑物語との二つの世界があるとすれば そのときにも ここでは あの《世界の終り》と《ハードボイルド・ワンダーランド》のように関係しあう二つの世界にあてはめて見るべきではないであろう。ワンダーランドの物語は 壁の中の街の物語に 従属すると思われる。主題の展開(風の物語)としては補助の役割を担うと思われる。《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》はむしろ 永沢やハツミらを含めた緑物語が 主題展開そのものであって 直子物語は その主題に従属さえしておらず あたかも直子物語の全部が 《世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド》の実験の失敗を確認するのみであるかのごとく 緑物語から切り離して とらえるべきように思われる。
ただしその緑物語には その後の本編というべき詳しい発展はない。もし言うとすれば 次の作品?での いるかホテルユミヨシさん物語へと 承け継がれる。
(42) あらためて言って キズキとの関係そして直子とのそれは おおむね幻想であったのだと思われる。ただし 形成途上であってかまわないわけであるから その幻想のゆえ もはや友情関係を断つということにはならない。実際 いま・ここに すでに帰って来ている。
つまり あらゆる存在との共存原則が 敷かれている。その上で あたかも――もっとも厳しく言えば そのたとえは悪いけれど――ピンボールとの関係の状態にとどまった場合もあったということであろう。なおかつ 虚無に支配されているわけではなく 正当にも空虚の中にあって 欠落感をなお持ちつつ 主人公は すでにあくまで経験現実に足をおきつつ さまよいつづける。この まともなさまよいの中に 緑が見出されつつ 一まとまりのしての小説作品としては この緑も かのじょ自身としては 主人公から遠ざかる。
念のために付け加えるなら このように いわゆる人格存在たる人間が 遠ざかったり 向こう側へ去っていったりするというのは あくまで一つひとつの虚構作品の中だからである。作品を ある程度の分量で切り上げるというところから来る。そして その結果 互いに別個の登場人物群として 主人公をめぐっては 多面的・重層的となる。つまりさらに逆にいえば 虚構の中でも すでに経験現実に立ったからには 友情関係やふつうの人間関係を 勝手に断つというのでは決してないわけであって 名前を変えて 性格も情況をも変えて むしろ同じ人びとがそれぞれ 登場しつづけていると捉えたほうがよい。
(43) 次の作品で いるかホテルのユミヨシさんが 主人公にとっての風の旅の一つの到着点であるかのようにして 信頼関係の出発点を形作るかに見える。そこでやっと 緑との関係情況をも一歩 超え出ていくかのようである。そのユミヨシさんとの関係は 緑との関係そのものの発展であってよいのである。
(つづく→2005-05-03 - caguirofie050503)

*1:鼠や影のことが引き継がれる:《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》で 鼠の死がわざわざ触れられている。あるいは 《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》の直子が ある種の仕方で むしろ一人の志の人である。

*2:ものさしについては ?《風の歌を聴け (講談社文庫)》に出てくる。→2005-05-01 - caguirofie050501

*3:自身のコミュニケーション体験:《ヘイ!ポーラ物語》=第一部→2005-03-27 - caguirofie050327

*4:志の人:ここでは 自らの思想原則を模索中の人の意味で使っている。とくに そのこころざしが空回りするような場合を指して言っている。少し偏向した使い方ではある。なお その志の問題は ひとつの具体的に 次の(37)節で 処女の問題をめぐってであると触れる。

*5:処女の問題:次に触れられている。短編《我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史》――《TVピープル (文春文庫)》所収。

*6:完成された作品:作家自評である。→村上春樹大インタヴュー〈《ノルウェイの森 上 (講談社文庫)》の秘密〉 文芸春秋 1989・4

*7:ほとんど唯一の物言い:これは 《ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)》までの話である。《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》の一部がすでに雑誌に前もって掲載されていて これをわたしは読んでいる。ここで疑問が生じた。