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哲学いろいろ

               ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-04-30 - caguirofie050430よりのつづきです。)

第五十八章 シンライ原則の成否いかんを深く深く掘り下げる。

Ⅰ 風の歌を聴け

風の歌を聴け

風の歌を聴け

(1) 題名の示すように 《風》の問題であるのであろう。この一つの単純な想定をつらぬこう。
長編小説を 発表順に取り上げていく。全体を通じて 風の物語と仮定する。この仮想にそぐわない内容が明らかになれば その時点で 修正するという横着な行き方である。

Ⅰ 風の歌を聴け (講談社文庫)
Ⅱ 1973年のピンボール (講談社文庫)
Ⅲ 羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)
Ⅳ 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)
Ⅴ ノルウェイの森 上 (講談社文庫)ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
Ⅵ ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)
Ⅶ 国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
Ⅷ ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)・〔ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

(2) たとえば具体的に 《志》のことであるだろうか。
いやいや いくら何でも この見方は単純にすぎる。具体的な人物にとっての特定の志は あるいは《》とよばれる男にはとらえられるかも知れない。だが かれとて 一定の世界観としては それへの志が薄れている。もはや崩れたところから出発しようとしている。
それでは 志の空虚をめぐる何らかの志 これでは どうか。語り手たる主人公は 空虚となった志を 問い尋ねようとしているだろうか。いやいや 虚ろな人間関係を 《ものさし》で測ろうとしている。けれども ものさしによる測定にかんしてなら かれに意志があるのだろうか。いやいや かれに志はもはや 欠けている。とはいっても この欠落した志は いま自らの物語をつづろうとしている。空虚なる語り手は ものさしなる眼(《private eye 》)としては 存在していて これが 時間過程に沿って 生きていこうとしていると言うべきだろうか。
それゆえ かれの語り終えた小説の全体としては 一方で 個々の登場人物の具体的な志にかんして全く空虚であり 他方で それでもその一つの世界をどこともなく風が吹き流れるかに思われると言うべきであろうか。それとも そのような風の歌は どこにも聞こえないと言うべきだろうか。そしてそんな・敢えて曖昧にとらえた含みをもった上でなら それでも《風の物語》と仮定するのも 必ずしも安易な楽観ではないと言えるかもしれない。
(3) それは 《象》が示唆している。

その時 象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語りはじめるだろう。
(§1)

《ノートのまん中に1本の線を引き 左側にその間に得たものを書き出し 右側に失ったものを書いた》《ただのリスト》(§1)にすぎない文章の中に 上のようなことを書きつけるのだから。《その時》というのは 《うまくいけばずっと先に何年か何十年か先に 救済された自分を発見することができるかもしれない》(§1)時だというのだから。
それにしても 《結局のところ文章を書くことは・・・自己療養へのささやかな試み〔にしか過ぎない〕》(§1)と主張するのは 志であるだろうか ないだろうか。
(4)要するに――単純な論点をめぐって くどいけれど―― もしも作品の冒頭に掲げられた一文を 仮りに《完璧な文章が存在しないように 完璧な絶望も存在しない》と読み替えてよいものならば 語り手の志あるいは作者のものを書こうという意志は 大雑把に言って空虚であるけれども 完全な虚無なのではないと われわれは受け取ってみなければならないであろう。この一つの想定でわれわれも出発する。
(5) そしてもう一点。この空虚な人間関係のあいだに・またはその上を もし風が吹き及ぶとするならば それはいま具体的に ここでは 《信頼関係》の問題だと想定してみた。これは 恣意による。そのほうが 語りやすいと思うから。われわれ人間と人間とのあいだに 社会現実的に 信頼関係が成立すると言えるかどうか その答えはともあれ ここでは 従って もっぱらこのシンライカンケイの問題をめぐって全作品をとらえることが 基調となり核となる。言いかえるなら おもに語り手たる主人公をめぐる人間関係にかんして 志とその空虚もしくは虚無あるいは信頼 こういった事柄が漠然とからみあった物語であると見立て その世界を探ってみる。そこに過程する経験現実は 物語が紡がれつづける限りで 人間の生にかんして 《風の歌を聴け》なる命題をめぐって 楽観の側にある。少なくともそう想定して 船出する。
(6) なお この作品にかんする具体的な出来事や場面は ここで省略に従う。とらえがたい風の問題が示されたとのみ受け取っておくこととする。つづく作品群の序論と見ることにしたわけである。

Ⅱ 《1973年のピンボール

1973年のピンボール

1973年のピンボール

(7) あらためて言って 志としての風は 〔とよばれる男〕にかんしてだけは 具体的な人物じしんの志として 描かれているのかも知れない。《金持ちなんて・みんな・糞くらえさ》(《風の歌を聴け (講談社文庫)》§3)。志があるとは見られないとしても それが・もしくはその志の問題が途切れてはいない人物ではある。そして もしそうであるなら おそらくそれについては すでに観念の志であると前もって告げられても いるのであろう われわれ読者は。希薄化し崩れたあとの状態にあっても なお保ちつづけようとする志が 鼠には かかわっているように思われる。この鼠との関係において 消極的にでもまたある種反面教師のようにでも 語り手自身にも かかわっているように思われる。消極的にでも あるいは 反面教師のようにしてでもである。
(8) あるいは直子という人物にかんしても 語り手は いまの志を見ようとしていたのかもしれない。語り手にとって 鼠のほうが自分に近しい存在として設定されているゆえなのか(または そう設定されているにもかかわらず と言うべきなのか) 直子のほうには むしろ初めからの空虚としての関係が 結局のところ確認されて終わるということのようでもある。それでも 直子との関係をとおして その間あるいは上方には その空虚に対する風通しが 語り手に とらえられたと言おうとしているであろうか。そうであれば こちらのほうが 大事であるということだろうか。
鼠がここですでに 自らの死へ向かいつつあると見るとすれば その鼠との関係にかんしても ゆくゆくは 上の直子との関係をめぐっての 空虚ないし虚無とそしてとりわけそこに立ち上がるかに予測される風のことを 語り手は 同じように とらえようとしていると言うべきなのだろうか。
だが ここではすべて あたかも《土星や金星》での話に見立てられているようでもある。(〈1969−1973〉)。その意味では なお依然として 序論すなわち前作の《風の歌を聴け (講談社文庫)》を継いでいるようである。
(9) たとえば具体的に語り手は 物に即しては ピンボールに魅かれていき ある種の言い方で幻のピンボール台を追い求める。と同時に その《彼女》を探し出したときには もはや別れを告げる。この社会における人間関係は 《事実》としては 限りある相対的なこととしてあたかもこのピンボールとの関係と同じようですらあると捉えざるを得ないとしても――つまり 空虚と見ざるを得ないとしても―― 同時に それらの関係をとおしての《経験現実》としては なお いづれ風立ちぬと言うべき時が訪れると 語ろうとしているのであろうか。
《象が平原に還る》時が 主人公を超えて突きつめていって作者の執筆の手には 見とおされていると言うべきだろうか。それとも その逆で もはや《ものさし》の世界関係のみが 現実だと語ろうとしているだろうか。象の消滅を経て 世界は 崩壊へ向かうのみだというだろうか。
(10) 依然としてこの第二作でも このように 序論の問題としてとらえたことを述べて終わる。ただし 物語が物語となる要素が ピンボール探しにおいて現われたこと この点は 今ひとつの重要なことであろう。この要素は 言うまでもなく 以後の作品に活かされていく。

Ⅲ 《羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険

(11) 人間じたいのではなく あくまで人間存在を超えてなのだが しかも人間関係としては その間を吹きゆくかに思われる開かれた経験現実としての風 この風は 人間の言葉による仮りの表現として示せば ここでは 志である。あるいは――またはそのまま志としてなら―― 一個人としての問題であるよりは やはり信頼関係のことであるだろう。それが非現実であっても それとして想定することがありえて 単なる記号としてすらの形でも その言葉を用い 用いた文章表現を通して われわれは 互いに意思疎通をおこなう。そしてそれが 全くの歴史事実とその認識にのみ還元されることはないとすれば その時には たとえば物語の中に 言葉の掛け値を超えて シンライカンケイが 語られうるのかもしれない。伝えられうるのかも知れない。これは もしそうだとすれば その限りで 全体として人間にとっての経験現実であると言わざるを得ず 物語作品は 広く表現をとおしての開かれた経験現実の一環だということになる。
(12) 議論を もっぱらこの一つの方向に引き寄せて進めたいと思うとともに まずあらためてのこの但し書きは これが すべて想定だということを物語る。想定であるということは 何らかの経験現実つまり経験現実がむしろ非現実へと開かれたその一領域であるとも考えられる。そしてその開かれた一領域は 当然の如く――人間の言葉では とらえがたいゆえ―― 代理としての言葉を用いての表現ということになる。まさしく この意味でも 虚構の世界なのである。そのような人間現実であり その単なる一環・一部分である。
この代理表現の世界が 全くあやふやなものであるとしても あたかも玉葱を剥いていった最後の最後に残るというかに 見通されるのかもしれない。それが幻であったとするなら そのような一つの事実認識で われわれも 満足しなければならない。
(13) 鼠は 自らの《弱さ》のゆえに 死を選ぶ。この向こう側に行った鼠との関係としてなら 風が起こるかと言えば そうではない。そうは語っていない。鼠という存在のことをめぐってなら 別かもしれない。つまりたとえば単純に言って 生きるということ・またはある種の言い方で 生命原則といったこと これをめぐってなら 風の起こることが想定されるかもしれない。非現実との関係領域では 仮りに無風(つまりたとえば 無神論)というのも それが《風》にかんする一種の代理表現であるとするなら まったく普通のものである。ということになるであろう。
従って 想定じょうは 一個の人間存在があれば 風(ないし 無風)の問題が起こりうる。つまり風は 非経験・非思考・非対象である。――だが そのためには実際じょう 鼠の弱さやそれとしての観念や思想が 妨げになっているとも考えられる。生命原則を――そしてたとえばその説明表現である風ないし《無風》の原理を―― 人間自身の思考や理念が 凌駕してしまうとするなら すでに初めから 風の問題を妨げていることになる。

  • もっとも 人間のふつうの弱さなら つまりはたとえば世の中は自らの意志の思うようにはならないという意味合いであるなら むしろそこに風の立つことが想定されるというものである。そういう楽観に通じるものがあると――根拠なしに――言ってよい。 そのとき 互いに信頼関係をきづくことも 考えられるかもしれない。
  • そうではなく 思想の混乱ゆえに(もしくは 思想以前の状態にあって) すべてを否定する精神となり その意志として 意識的に 《弱さ》の道をすすむことは 風の問題を妨げているように思われる。

従ってまずは 人物じたいに即してもっぱらその人間じたいから繰り出される志は それとわれわれとの間の距離を測るにも測りようがないというほどに 遠いというのだと思われる。ものさしによる測定を開始したのは むしろ既にそのような遠い隔たりを認識するという一つの出発点に立ったゆえであったかもしれない。

  • 平俗に言って 利己主義といった欲望などとしての意思は むしろ手に取るように分かる。と同時に そのような相手との距離を 人と人とのつながりとして測ろうとしても なかなか 思うようにならない。欲望を それじたいを ものさしで測ることはできるかもしれない。

(14) 実際には 観念の王国へと誘う星の斑点をつけた羊を 鼠は飲み込むというのであるが にもかかわらず それも 別種の観念によってなされるかたちであり しかも 自死をえらぶというのであるから その時には それに対してある種の必然的に惹き起こされるわれわれの感慨を超えて しかも生のこちら側にいるわれわれにとって 鼠の弱さやその思想は 遠い。
この作品を前にしたわれわれ読者は そしておそらく作者も そのような現実に立ちあっているものと思われる。なぜなら その上に立ってこそ そうとすれば 風の問題が 鼠にもかかわって われわれに持ち上がると言うべきだからである。
死ゆえにではなく また決して死後にでもなく 生命原則が大前提としてあるゆえにであろう。この 生きつづけるということは 作者にとっては 物語を書き続けるという仕事に見出されていて その地点で たとえばこの鼠との関係を たとえかれの死後にでも 推し進めていく。つまりそこに シンライカンケイ論が 想定じょう成り立っている。その結論の行方をいま別にしてもである。
(15) このような鼠物語と関連しつつ いくらか別種のかたちで 羊男が登場する。鼠の死ないし志の死を前提した上では あたかも非現実なる領域の代理表現としての羊男である。

  • 羊男については 仮にある意味で悪魔の様相を帯びているとしても 広い意味で 非経験の領域を一つの代理として表現されたかと見ることとする。

死を前提にしたということは 逆に 生きるという原則を前提にしたということだからである。羊男はむしろこの生きるという経験現実に 想定じょう・虚構じょう 現われてこそ 風の問題になりえ シンライカンケイ論が展開されていく。死者なる鼠を持ってくるわけにはいかない。
(16) 男である語り手にとって 人間関係のもう一つの出発点をなすというべき女との関係は その求めるべき出発点としては まだ 現われていないというべきであろう。
耳の女キキ)を初めとする女たちとのそれぞれの関係は むしろ煮詰めたかたちでは なお空虚そのものたる志をめぐって 推移しているように思われる。信頼関係が 言わばなお発展途上にあるとも言えるだろうし そうとすれば逆に 語り手にとって シンライカンケイが 積極的に・しかも自らの意志を超えて形成されていくかに思われる過程じたいの問題として 推移しているとも受け取ることが出来る。
つまりは そんな経験現実の過程にあって むしろどのような事態であるのか全く捉えようのない存在たる羊男が 顔を出しているというふうに思われる。女たちとの関係は 風の物語の上で形成途上にあり さりとて その目途にかかわって すでに去って行こうとする鼠を打ち出して来るわけにはいかない。
(17) 主人公をめぐって 一方で 志は空虚で かつその空虚が深い 他方で それでも空虚のみ!!でもなく 虚無のみ!!と断言できなかったとすれば 羊男なる仮想となる。しかも この羊男をめぐって すでにこの第三作で あたかも物語の世界は 風が吹き始めたかに見える。
(18) その理由を述べるには のちの作品・特にこの《羊をめぐる冒険》の後編としての《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》を合わせて捉えなければならない。そのようにして すでにこの第三作で 風は吹き始めたと言ってよいように思われることを 捉えてみたい。その端緒に触れておきたい。
それは ここでは 誰か一人具体的な相手を伴なって 相互の間に信頼関係が確立するということでは必ずしもなくて 主人公の一個人としての風の問題なのである。ということは あたかも志の廃墟の上に復興されていくかに思われる最小限の具体的な思想(生活態度)にかかわり 一個人としてであるから それは 思想としての信頼原則である。信頼原則という思想ということまでが その内容である。
(19) 具体的に 耳の女キキとの関係過程に見てみたいが それは 後回しとしなければならない*1。右翼の大物の秘書を勤める黒服の男と 主人公がわたりあうところを 想うべきである。それを 一例とすべきである。
ある種の気概程度でしかないとしても 自らの生存を危機にさらしてでも やはり風にかかわる生命原則(それとしての人格存在)を守り抜こうとする。人格の意志(その自由選択)にかかわる。勿論その黒服の秘書とかれの担う勢力に対して 弱い立ち場にあり これに甘んじることになるわけだが この弱さは非現実の志にかかわっていて たとえば鼠の弱さとは 微妙に違っている。鼠の場合はむしろ 初めに主人公と同じく社会的な(または物理的な)弱い立ち場にあって これをむしろ利用しつつ 自ら強い勢力に立ち向かっていこうとするような志としての弱さ または 強さ なのである。生命原則をあたかも超えて 風に自らの力で同化してさえ行こうとする一つの自由選択となっている。
(20) すなわちここで逆に主人公は 一個人として シンライカンケイ論を実行しようとしているように思われる。シンライ原則が かれの内に 起き上がっていると思われる。ここで――黒服を相手として――信頼関係が成り立たないとしても それは 相手の側の問題なのである。どういうことか。
黒服の秘書の側に そうとすれば 物理的な力によって相手の人格(自由意志)を踏みにじる用意があるとすれば 問題はそこにある。それに尽きる。従って主人公の側に かれ個人として 風の出発点に立とうとする動きが すでに見られるというべきであろう。どういうことか。
秘書のほうは 自らの勢力の支配体制を貫こうとする大きな志(?)のもとに――あくまで そのもとにだが―― この主人公と交渉するとき 人間であるかれのすべてのことを考慮し 人格にさえ配慮する。言いかえると そのような秘書のほうの振る舞い(もしくはその行為原則)から逆に照射されるかたちで 主人公の思想のありかが(あるいは あり方が) 引き出されて来る。ここで主人公はまさしくシンライ関係を問い始めるのであり そこで一個人としてのシンライ原則が 浮き彫りにされる恰好である。

  • いわば育ちがよく まだこのシンライの確立の可能性を内に秘めていた ただしその実現は難しかったという情況かと思われる。主人公のそういう現在のすがただということである。

この二人のやり取りは ひじょうによく手堅く描き出されたと思われる。関連する部分を数ページにわたって引用しなければならないとすれば この簡単な指摘にとどめたい気持ちである。主人公のここで持ち合わせている思想は 生命原則とそれを尊ぶという意味でのシンライ原則なのであるが 通俗的にいえばそれが徳となって 黒服をある程度 感化したということなのである。
(21) このような人間関係の上での経験とその影響が キキなる女との間にも 見られるように思われる。主人公じしんの意図とはかかわりがないとしても キキがそれまで隠してきた自分の耳を見せてみるという結果を招く一つの影響関係である。

  • むろんこれを実際の耳ととらえる必要はない。一般に秘密ということであろう。それまで誰にも見せて来なかったその耳を 主人公には見せた。シンライカンケイにとってのささやかな情況証拠である。だから

あらかじめながら これは 人が個人として持ち合わせることのできるシンライ原則にかかわって 起こったことだと考える。そこには 精神分析による説明もからむようであるが 詳細はのちに延ばそう。
(22) この作品では 風の物語にかかわって 羊男の登場と そして 一個人の振る舞いにとってのシンライ原則とを とらえた。物語は進展しているようである。

(つづく→2005-05-02 - caguirofie050502)

*1:耳の女・キキについては (58)から取り上げている。