――シンライカンケイ論――
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第二部 シンライカンケイについて――風の理論――
(2005-04-23 - caguirofie050423よりのつづきです。)
第四十八章 出発点にあってすでに《人間が変わる》が視野に入っている。
前章から直接のつづきです。
出発点における人としての存在は 人格関係として 信頼をかちとる。しかるに その経済生活の面では この信頼関係の中から 貨幣価値による評価としての信用が 分立し独立してくる。この信用という指標は おおきく信頼関係のもとに 追求されるのならば それは 勤勉原則であろう。信頼関係なる愛の基礎がないとすれば ガリ勉原則となるものと考えられる。ガリ勉資本主義は 好悪原則なる無原則主義とよく似合うと思われる。
- 基本的には あらためて言って 経済信用の自由主義ではなく そしてそれを人格信頼の自由主義へと対抗的に改めるとは必ずしも見ずして(――なぜなら その自由はすでに出発点で大前提であるから 殊更持ち出すことは 社会有力を個人としても目指すことになって 初めの無力の有効を裏切ることになりはしまいか――) そうではなく 信頼の自由関係のもとに信用主義を従属させるということのように思われる。
- その時には 通俗的に言えば あたらしい人(出発点の経験現実として)の水かさが社会的に増して来ているという情況を 考えることが出来る。もちろん その意味での生命原理と愛の原則とである。実際の情況は 逆のことになっているように見えるかもしれない。つまり 信頼が確立されていないなら もっぱらの信用の有力に譲歩しつづけるという情況が考えられるから。だからつまり このようなむしろ譲歩の勢力を 社会的には――社会的には――強めていくことになろう。
- これが 偽善原則とその勢力の増強といった方策と異なるのは ひとつに 裏側での妥協や取引きから自由でありつづけること つまり 考え方の上でも そのような二重構造をつくらないでい続けることにある。もうひとつに 愛や信頼は――勢力の拡大といっても――そこでは あくまで個人にかかわる出発点の動態としてあるだけだから 何もしないたたかいであるゆえである。わづかに 何もしないでは生活が立ち行かないとすれば 譲歩して 勤勉資本主義でいこうというわけである。これなら 妥協や取引きをする以前に 出発点のものでありうる。
- だから この出発点の認識やその理論的な自覚が問題なのではない。具体的な個々の問題がなくなるというわけではないことを前提にしつつ 生活日常において 動態としての出発点のもとにありうる。大幅の乱暴のもとに言えば 出発点の信頼関係は 出発点の哲学に向かうことによってではなく むしろ通俗的に勤勉信用の関係を 過程的に実現させていくことに見出されるのかも知れない。
- ガリ勉資本主義は個人として一たんは好悪原則に立ったけれども もはや貨幣信用や資本の論理としては そこ(好悪原則)からも離脱してきている。この好悪原則にむしろもはや譲歩して その限りでこれを受け容れてもいる。この形態じたいは 勤勉資本主義のもとに活かすことができる。その脱好悪原則を――その一形態として――勤勉原則の中に むろんわたしたちの出発点による交通整理を介在させつつ 活用することが出来るかも知れない。
- すなわち ガリ勉資本主義は初めは好悪原則から出発していたとしても それが成立したということは 信用主義となって もはや好悪自然の感情の自由放任ではなくなっているとも思われる。類型的には なお二重構造ないし偽善原則に似ているが もはやそれは 単なる一個人のみの思想原則ではなくなっている。経済信用の自由をもっぱら掲げるに到っている。これは 独自の論理世界と運動を形作っていて 社会全体に制度的である。
- 私生活は別個にいとなまれ 公共生活でも裏取引きの問題はまた別にあるとすれば 二重人格の偽善原則にも またがっている。それでも・あるいはそれゆえ もはや決して好悪原則に従うのではなく 貨幣信用のもっぱらの論理をつらぬこうとし そのようなガリ勉資本主義としてきづいた独自の世界をどこまでも 存続・発展させようという別種の原則を自らにも持つに到っている。ひとつの空想として展望されることは この脱好悪原則のあり方それ自体は 勤勉資本主義のもとに活かすことができるかもしれないという見方である。
- (1994・12・12)《空想》であることを少しでも打ち消す見方としては 出発点の自由がその自由じたいに背反し自己矛盾を起こす自由でさえあると考えるならば まず大きくはすべてが 信頼関係(人格関係)の世界における出来事として 展開されつつ 引き継がれても来ているという一内容が取り出される。ガリ勉資本主義をわたしたちは肯定する必要はないと思われるが ある種の見方ではそれを出発点にかかわって自らのこととして受け容れさえしつつ その独善関係のもとに ガリ勉原則を勤勉原則に変えていこうというものである。
- 安易にいえば その勤勉資本主義さえもを 生命と愛の人間関係のもとに 手なづけていこうというものである。一部になおガリ勉原則が残っていたとしても それはもはや一面では自由に任せ その勢力の社会的な支配力だけは萎えるようにさせるという方向である。そこでは確かに 人間が変わるという局面をすでに通過して来ている。
- さらに空論を添えるならば まず愛も信頼も人間が存在し生きるという欲望や願望の問題とつねにかかわっている。それでも または それゆえにも そこに主観真実の限りで愛・信頼を保持し持続させる過程として 自由に主体的な思想原則をきづいていく。そこに経済生活としては勤勉原則をもきづいていく。これによって自由意志は 循環論法のようにしてでも再び愛と信頼を形作っていく。勤勉信用をこのことに活かす。
- しかるに 好悪原則は この欲望もその自由意志もまったくの放任・無原則だということによって生きている。偽善原則は この無原則の自由に 建て前でふたをする。偽善原則は 好悪原則に対立したままのかたちで進められ だとすれば もしそれが勝ったという時には 上から 一定の人間主義によって・あるいは人格表現の模範によって抑えつけることになるはずだ。
- このような事情のもとにあらためて言えば 欲望のない人はいないのだから 勤勉資本主義として譲歩するのがよいと思われる。貨幣の跳躍なる奇蹟は これも わたしたち人間が――意図せずしてだとしても――自ら引き起こしたこととして まずは受け止めていく必要がある。そこから 信用関係の中に ガリ勉原則を勤勉原則に代え これを《わたし》の自由な思想原則と両立させていこうという魂胆である。
- ここで新たな見取り図は 出発点のあり方にかんして 次の三種ないし四種のかたちをとらえている。新たな順序で ① 想定の限り わたしたちのしかるべき形態であると考えられる愛と信頼の原則。信仰原理にもとづくその信仰形態としては 具体的に数種の有神論とひとつの無神論である。② これを立てずこれに無頓着な無原則としての好悪原則がある。これは 次の偽善原則を 裏と表の二重構造の中に含むかと思われる。③ もっぱら建て前を重んじ それだけではなくこれを科学認識を通じて人間的な偽善として立てる一種の原則。信頼原則なる善に――否が応でも自らの知性によって――もとづこうという偽善原則。④ そしてこれら三種のいづれにも属さない第四種。すなわち もっぱら信用主義なるガリ勉原則。これとしての社会制度的なガリ勉資本主義の中に上の三種の思想原則いづれも生活しているのであるが この第四種は もっぱらこの制度じたいに従ってのように 自らの信用原則を分立・独立させようとしているものと思われる。
- 言いかえると 初めの三種はいづれも 大筋では 貨幣信用主義を信頼関係のもとに従属させようとしている。その成否はべつとして そのような違いがあるかに見える。
- 第三種の偽善原則は 好悪原則と対立する立ち場を表明するだけではなく 第四種のガリ勉原則をも批判し対立する立ち場にあると思われる。そして実際には 知性重視主義のもとにだが 経済信用主義に代えて人間主義ないし信頼主義に立とうというものだとも考えられる。第一種・つまりわたしたちの信頼原則は そのような対立関係とは微妙にちがって 片や好悪原則に対しては どこまでも話し合いを通して信頼関係の成立することを待ち続けており 片や信用主義のガリ勉原則に対しては やはり待ちつづけているのであるが その話し合いとしては 基本的にはガリ勉を勤勉に変えよと言う。その逆立ちを正せとさえ 基本的には語る。具体的には ガリ勉原則とて自由であろうから もはや今度は社会的な方策により全体関係の中で そのもっぱらの信用主義を――その自由に任せつつも――わたしたちの第一種・信頼原則のもとにやはり手なづけていこうというものである。この政策は 勢力の対立の問題や 立案・実施の過程で 試行錯誤を免れない。ごく一般的な話し合いのもとにおこなわれる。
- 出発点における知性真実(生活)の中の一部分がその全体と逆転したのであるから――すなわち 経済信用なる部分が 人格関係なる全体を支配するまでになったのであるから―― これを再逆転させる。その意味では 革命である。基本的には 人格出発点の中の革命である。それとともに 自由な社会的政策も考えられる。広い意味で偽善原則によって 人権の尊重であるとか 自然との共生にもとづく生活の重視であるとか そのような対抗的の人間主義の主張としてはかろうとするものである。信用主義の資産家はもはやその生活の水準と資産とを容易に手放すとは思われないから――そしてその場合 その人びとにも当然 人権はあるわけだから―― その活動は自由に任せて しかしながら社会経済的な政策は 一般に平等主義にもとづく内容を実現させていこうというわけである。かんたんに通俗的にさえ述べてこのように考えられる。
- 第二種の好悪原則は ガリ勉資本主義にも《自由に正直に順応して》従って来たのだから そのように 信頼原則(第一種のいくつかの思想原則)の実現した世の中にも 適応するであろう。いちばん厄介なのは 偽善原則の方であるかも知れない。ガリ勉原則が それとしての知性主義によってその表現内容に信用経済の自由としての妥当性をとらえて 自らの主張を展開するとき 偽善原則はそれに対して容易には反論しえないであろうから。第四種原則が 経済信用としてのであっても自由を掲げ民主(平等)をも立て 法と人権にもとづきその主張を展開する時 もはやその主張内容は 偽善原則のそれとほとんど違わなくなっているように見える。そこでガリ勉原則のほうは もはや自らの好悪自然には原則のかたちでは従っておらず 話し合いを避けることなく答責性を発揮する姿勢にあるから――姑息な手段を使って何らかの妨害をするといった場合を除いては―― 信頼原則に対してさえ たとえばその民主主義の勢力には 道を譲ることになろう。偽善原則は これらの全般的な情況の中で あたかもその知性にものを言わせ 自らに何らかの治外法権があると主張してのように ほとんど圏外にあって そこから物を言い続けるというように推測される。いわゆる知識人の立場である。これの影響もけっこう大きい。
- だが全体として問題は 事ほど左様に 出発点にかんして 単純なのだと思われる。愛 / 愛の愛(信頼) / 愛の愛の愛としてそのために経済生活が基礎にあり それとしての信用関係も経済実態もこれらを愛す こうなる。現在の情況では 逆に もっぱら信用の愛・経済基礎の愛から 信頼や存在関係の愛へすすむという態勢となっている。この圏外に 孤高の偽善原則が控えている。好悪原則は 全天候型である。
- (1994・12・13)次のような言い方は 一方で単純に言って横柄であるから一般に反撥を買うであろうし もう一方で決して理論的ではないから無視されるであろうと思われるが もし言うとすれば 知性真実のあり方としてすべての思想は その原則的な類型のかたちで 《わたし》なる人間の出発点の手の平の上で踊っているのであるから 用は互いに話し合いをどこまでも進め続けることだと考えられる。そのとき大事なのは 互いに相手の主張内容を理解しあうことのほかに その主張がどのよう思想原則のあり方として出て来ているのか このことをも互いに交通整理していくことだと思われる。
- 具体的な主張内容じたいは もし乱暴に言ってしまうなら 基本的に知性真実の相対性に立ち 具体的にもたとえば箸を右手に持つか左手にかの違い または箸にするかフォークにするかの違い あるいはまた何から先に食べるかの違いなどなどの問題であるとさえ考えられるから そのことが どういう思想原則から出てどういう効果や結果を意図し招くことになるのか この点を見究めなければならないと思われる。経済信用が人格全体の信頼に先立つなら それだけの内容と結果しか生まないと考えられる などなどである。これに対する打開の道を 民主主義は持っていると思われる。個人的な無力の有効が 社会的にその余韻を発揮する隙間が開けられていると考える。
- これらのことは まだまだ現実からかけ離れていると言わなければならないが 出発点にかんしてなら 悠久の昔から ただちに現実なのである。出発点の有効は 歴史の過程で 時として 実現すると見る立ち場である。
補論(1995・4・20)
- この貨幣をめぐる議論は 今村仁司著《貨幣とは何だろうか (ちくま新書)》を取り上げたところから延び延びとなっていた。ここではまた 岩井克人著《貨幣論 (ちくま学芸文庫)》をも――わたしの課題のあり方からに限られてくるけれども――視野に入れて考えたものである。
- 今村氏の言う《貨幣形式》については 一般に《言語》であり わたしたちの捉え方では結局 交通表現としての話し合いのことだと見ている。信頼関係の次元での言語表現が 信用関係の次元での貨幣表現(交換)を――両者いづれも《第三項》の形態であると思われるが 前者が後者を―― その思想(生活態度)において 原則事項(妥当性および答責性)のもとに 合理的なものへと・自由=平等なものへと 実現させていくことができるか この課題に行き着くと思われる。
- 岩井氏は この言語であり貨幣である第三項を 《他者性》という見方で捉えている(岩井克人・大澤真幸対談:〈貨幣論的差異をめぐって〉《現代思想〉1995・4)。第三項を 一人の他者ないしそのような実際の一人の社会主体として捉えるのではなく 誰でもなく誰のものでもないという意味内容での《他者性》のもとに捉えている。これは 一方でほかでもなく 《貨幣形式》もしくは《言語性》と言ってよいはずだが 他方でも結局 《無力のうちに有効な〈出発点〉》のことである。もしくは《信頼関係》のことだと考えられる。前者(一方)は 主観真実を科学認識に限ろうとしている。後者(他方)は 自己言及性を受け容れ 主観真実いっぱいの主観真実である。いづれにしても要するに岩井氏の議論は 取りも直さず上に述べてきたところに行き着くと思われる。
- すなわち 経済の信用関係としての貨幣表現が 《わたし》という出発点なる《他者性》のもとに 歴史的に 現在おこなわれている形態とは・また制度とは 別のものになりうることを 言おうとしている。もう少し具体的には 貨幣をめぐってわたしたちの表現が ある種非現実ではあるが反現実ではないはずの信頼関係のもとに どのようなかたちでか おさめられるという可能性について触れているものと考えられる。
- これは わたしたちの側から見れば 信仰原理がある種の仕方で人間にとって経験現実であるとするとき そのように実際の歴史社会的な可能性を持つことを見ようとしていると言ってよい。そう思われる。
- なお対談者の大澤氏は 貨幣経済のそれ自体から見た偶有性つまりそれ自体とは別様のあり方にかんする可能性を説くというよりは 貨幣経済の歴史社会的な生成じたいにおいて――必ずしも貨幣の命がけの跳躍ととらえるのではなく―― すでにその生成の時点において もともと別様の可能性があったし いまも存在すると主張していると思われる。
- これは 岩井氏も 《命がけの跳躍 salto mortale》が単に《とんぼ返り》を意味するのだから その点では とんぼ返りが失敗する可能性も当然あるのだという意味では 大澤氏と同じような主張になると言っているようである。
- わたしは 《非経験X》の領域を想定して表現してきているので そのような可能性の問題は この出発点ないし人格的な信頼関係をめぐる問題だと考えている。貨幣経済とそうでない経済形式(物々交換?)との偶有性または選択可能性にかんして考えていくよりは 貨幣経済という一つの制度の時点で その信用関係のほかに同時に人格的な信頼関係も 可能性として捉えられるのではないかと 主張しようとしている。
- そして要は煮詰まるところ このような認識の問題をひろげて――決してその領域の自覚やその意識的な努力へ向かうのではなく―― 話し合いにおける具体的な思想原則(経済思想の原則的な事項を含めて)として打ち出していくことにあると考える。その具体的な方策を――実際わたしも持ち合わせておらず――みなで考えあっていくことだと考える。
(つづく→2005-04-25 - caguirofie050424)