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哲学いろいろ

               ――シンライカンケイ論――

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第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-12 - caguirofie050412よりのつづきです。)

第三十七章 非国際化は昔から(!?)

同じく読書を通じて 日本人の間のコミュニケーションの欠如についての議論に出会った。

  • 柄谷・岩井両氏の《世界宗教》の問題は そのあとに取り上げることとしたい。

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)

これによれば 古代史に事例をとって 要するに《国際化》をめぐって 信頼のコミュニケーションが問題となっているのだと主張されている。

(F) 日本という国家は 〔国家以前の段階は別として〕建国当初から後世まで 一貫して自衛的・閉鎖的な性格を持っていました。〔・・・〕日本列島を外からの脅威に対して防衛することが国家の最重要課題であり 鎖国こそ日本の国是だったのです。(《日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)》p.199)
(G) 私の感想ですが 日本が現在 国際化という課題をせおって悪戦苦闘していることは 日本がそもそも非国際化のための国家だったからではないのか。〔・・・〕(p.202)

ここで《建国》とは 《日本書紀〈上〉 (日本古典文学大系〔新装版〕)》という国家の歴史書が編まれた時点のことである。あるいは 六六〇年唐と新羅によって百済が滅び 当時倭国としての日本は百済の再興をはかって起ったが 六六三年白村江の戦いで唐に敗れ つづいて六六八年高句麗も唐に滅ぼされた その同じ年に天智天皇が 安全保障じょう 独立国家を意識しつつ大津に遷都したという如く この《千三百年前の外圧が日本を作った》という事情が説明されている。この国家成立の問題をここで論じるわけにいかないが 《国際化》が日本人のコミュニケーションにとって関係していると説いている。さらに

(H) そういうわけで アジア大陸と日本列島は 紀元前二世紀末に始まった中国化時代には一体の世界だったのが 七世紀の日本の建国と独立以後 分断されてしまった。
われわれが今日 世界の中で独立を保っていられるのは 早くアジア大陸と絶縁したお蔭であり また国際化で苦労しなければならないのも まさにそのせいであるというのが私の結論です。(《日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (叢書 日本再考)》p.202)

きわめて粗い紹介に終わってしまうけれども ここでの問題は この岡田説を極端なかたちに導き たとえば《日本人が交通における表現にかんして 〈人間以前の状態〉にあると思われるのは 歴史的に必然のことである》と見ること もしくは いや そうではなく さらに極論させて 《日本人は 日本国家のあり方からして 日本人として〈人間〉の交通・表現を行なっているのであり それとして信頼関係も成立している》といった議論をとりあげなければならないことにあると思われた。
《その建国の事情からして 安全保障のためにアジア大陸と絶縁したのだが そのような〈非国際化〉の意思表示があったからには すでにそれとして国際化しており もともと人間としての信頼関係もきづいているのだ》と反論しうるかも知れないからである。
ちなみにここで――この岡田氏自身の見るところでは 《日本は現在 国際化という課題を背負って悪戦苦闘している》というものであったが それに対して――先の柄谷氏の考えでは 現在なお 

(I) 一口で言えば 開かれた自閉化というか 開かれた鎖国ですね。(《終りなき世界―90年代の論理》p.16)

となる。もう少し詳しくは (J)《日本の内部の同一性に向かっていく。》(同上)傾向が強く その時には特に《外に開かれているように見えながら自閉的なのです》(p.15) すなわちさらに

(K) 同様に 七十年以降の日本というのは アジアに経済的に侵入しているにもかかわらず 言説においてはそれは存在していない。いっさい国際関係などないかのように存在している。無制限に開かれているように見えながら 実際には閉じられているわけです。天皇制に関しても同じことが言える。(《終りなき世界―90年代の論理》p.16)

と言う。このように再び問題を立てたとき 何でもないようなことをわざとわたしが取り出して来ており しかもそれはある種の水掛け論にすぎないといった内容に見えるかもしれない。けれども問題はかんたんであり ごく身近なことでもある。ただちに上に想定したひとつの極論について結論を出すことが出来る。
わたしの見るところ ここでは

  1. 一方で 鎖国ないし別離――すなわちむしろ個人的な男女のいづれか一方がはっきり別かれの意思表示をするということ―― これは その意思表示があったのだから それとしての国際的かつ人間的なコミュニケーションにもとづいている。つまり信頼原則論に沿ったものであると思われる。たとえ好悪を優先させてそうした(鎖国・別離した)としても その意思表示は 信頼関係の成立を大前提としていると言える。対立の平和的共存へ向かおうとしているわけだから。
  2. 他方で 鎖国は 国民のひとまとまりとしての国家たるある種の主体による意思表示にかかわり それに対して 信頼関係の問題は どこまでもそれぞれ一個人にかかわるものでしかないということである。

この(2)の内容にもとづけば (1)の主張内容は まだ何ら現実性は持たない。国家主体としての鎖国というかたちでの平和的共存も なお別種の個人ないし勢力の動きによって 変動が起きるかもしれない。このことも極論ではあるが 一応このことによって 先の極論は成り立たないと言えると思われる。
すなわち《〈非国際化〉の意思表示があったのだから 〈国際化〉(つまり 世界的な意味でのコミュニケーション)が下手だからといって そこに 人間的な交通と表現が欠如しているとは言えない》とは ただちには 言えないであろう。そこにはなお 個人個人の人間関係・信頼原則の問題が 未解決のまま残されている。まだ何も定かではない。
鎖国にかんしてその政策の主体は 具体的に何人かの個人主体がかかわっていると言うべきであろうが それならそれとして その人びとにかんして 好悪原則と信頼原則との両立をはかる人間交通の問題が あらためて別個に取り上げられなければならない。と同時に 一般的な人びとにかんして その個人としての――あくまで個人としての――《開かれた自閉化 個人としての開かれた鎖国》も その同じ問題のもとに捉えられなければならない。
個人として別離の意思表示をおこなったことは それでよいわけで もはや問題はないのだが そのことは 自分とは違った他の主義主張を認めたことを意味していなければならない。自己の鎖国(別離)でよいわけだが 自らの原則のほかには一切認めないという自己閉鎖であっては 何にもならない。
もし――上の極論の線で――あくまで個人個人が 国内的にも国際的にも人間として交通しあえていたゆえ 鎖国なる非国際化という一つの国際化政策をとり得たし採ったというのであれば 当時の情況において すべての問題をとらえ そこで議論しなければならない。もし当時においても 非国際化なる政策を個人個人が主体的におこなったのだとするなら 現代の世界においても 歴史事情の変化に応じて 同じく主体的に信頼という人間交通のもとに 対処しえているということでなければならない。そうでないとすれば 問題と課題とは 残ることになる。

  • これは 必ずしも岡田説に対する反論ではなく それの一極論として仮定した考えに対する批判である。

自然成長性のもとに信頼をとらえる好悪原則は もし明確な自己の意思表示がないならば 《無制限に開かれているように見えながら 実際には――〈人間以前の状態〉にあって――閉じられているわけです》と言わなければならない。わたしは このことを個人的に ポーラというひとりの個人の考え方の中に見ていると同時に 経験的に言って 日本人一般の中にも見ているというひとつの議論になる。

  • 柄谷・岩井両氏の説に対する同感の部分である。

岡田説は かんたんに紹介した限りで 歴史的な経緯とその事情ないし影響において 現代の問題には必然的な事由があるのではないかといった議論であり それは――決してその研究を貶めるために言うのではないけれど―― 人間関係にかんする基本の問題を明らかにするのでは まだ ないというように思われる。ただし 《国際化という課題を背負って 悪戦苦闘している》と捉えることは 一般的に 問題の出発点である。
繰り返すならば――日本古代史の認識じたいはこれを別として―― その現代の課題にかんして 日本の建国にあたって非国際化の政策を採ったことに理由を求めて 事情説明することは 心理の問題 情況心理としての背景説明であろうと考える。従って そのぶんでは 好悪原則とこそ呼応している。個人の心理としても共同の心理としても 信頼関係を自然成長性に期待するといったその考え方の成り立ちとこそ むしろ呼応しているように考えられる。
これからは 対立(差異)の共存を大前提として 好悪原則論ないし信頼の自然成長説に対して そのまま直接 批判をぶつける立場で議論をすすめていってよいように思われる。
《人間以前の状態を憂え 好悪優先原則という考え方を憎み それを自らの内に徹底的に棄てつつ 人間以前の状態にある人の人間じたいはこれを 自分と同じように 愛さなければならない》(第三十六章の最後) この前提は 不変である。
(つづく→2005-04-16 - caguirofie050416)