――シンライカンケイ論――
もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407
第三十三章 日本人の自由への序論
人は 主義主張の明確な人に対して それは 独善的であり人に干渉するものであると一般に語り合っている。
- これは 同じく一般に 何らかの主義主張として語っているのではないので 咎めるというよりも 少なくとも最初の印象の時点では 合わせづらいといった感覚で言っている。
- したがって 独善的で内政干渉だというその意味は 独りだけの善を追い求めていて その追求の線で 話しかけて来られても 何も要求されていなくとも うるさく感じるといった内容となっている。
話はここから始まる。
けれども 逆である。
原理原則の人は それを自ら個人のこととして自由に持ちそれを生きているから その自由を享受し守るために 人に対しては――その主義主張の内容を語り説明してみせることはあっても―― やはりその人の自由を 大切にし わざわざ守ろうとするほどである。つまり その人の自由にまかせる。あたりまえの話である。ところが むしろ無原理無原則の人が その主義主張によって・ということは 原理原則の人の主義主張の無化へ向けて その相手に干渉し始めているのだ。
無原理無原則という一種の主義主張は 変な完全主義なのである。原理原則の人間は 自らに対して・自らの行動範囲において 完全主義であったとしても 人に対しては 完全自由なのである。(そうでなければ その原理原則は 持つに値しない。)相対主義の人こそが 他人に対して その相対主義をおしつけるほどに完全主義なのである。少なくとも 日本社会においては そういうことになっている。
言いかえると 最初の印象としては この人とは付き合いづらいなと軽く感じていたのが 落ち着いてくると けっきょくのところ あんたの特定の原理原則は捨てなさいと――むろん 暗黙のうちに――迫っている。背景には いわゆる日本教*2という絶大な力学が控えていて 向かうところ敵なしである。そう 誰もが 信じている。しかるところ 人間はというつもりの日本人は まったき自由を享受することができる――ニッポン万歳!!――という哲学である。
性善説という人間不信論
ところが この無原理無原則というのは その自由主義が 一般に人間不信論に立っている。むろん オモテでは 性善説である。
信頼関係の成立にまったくこだわらずに もともと人間について性善説でいてよいという意味で 信頼不要論である。
- なにを言ってるんだ 日本人どうし おれとおまえの仲じゃないかとなっている。
これを押しつけるときには 反信頼論である。もしくは 要するに 逆に 無原則信頼論なのである。無原則に信頼する――したがって 信頼が裏切られても それも 自由=無原則とする――のであり 原則による信頼の無の理論である*3。
- こういう場合 のっぺらぼうという。
かんたんに 信頼どうでもよい主義であって その意味での人間不信論(あるいは 非信論)と言うことができる。
- 無理に不信を強要するのでないから 非信という表現で但し書きを補う。
この信頼どうでもよい主義があれば――そして わづかに議論が起こったときには 性善説を持ち出すことができるというタテマエの原則があって これのみであれば――つまり そのような社会的な心理共同が強固にひろまっていれば その中にあってなら 互いの信頼にかんするなんらかの感覚がかもし出されていて 心地よい。この空気をもって生活することこそが この世の浄土であるということになっている。
- そんなむづかしいことを言いなさんなという応答が ただちに返ってくる。
無原則主義のなかでの自由
無原則主義に対して干渉することと 自らの主義として信頼原則を立てていることとは 別である。
前者の干渉なしに 後者を生きることは 可能であり あたりまえのことでなければならない。
無原則の人は 有原則の人に対して その原則が明確にあるということだけで 自らに批判が加えられたと思うのだろうか あるいはその無原則主義じたいが実際には妥当ではないと自らも知っているからであろうか 要するにその時 干渉*4に進む。自らは おそらく意識していないのであろう。口に出す言葉としては われは一切干渉などしないと言い しばらく無原則主義の効用を説いたのち それが功を奏さないと見るや 暗黙のうちに・ということは 無視するという態度をもって 実際には干渉に進む。自らは意識しないかたちで あなたは少数派だ あなたの原理原則を捨てなさい 捨てて自由になりなさいとすら語っている。
わたしなら そのような無原則の自由も 自由であるのだろう それが正しいと思ったならそのように生きなさいと答えてやる。
日本人の心理共同としての無原則主義という相対性の理論は 原理原則の人を許容することのない相対主義である。原理原則の主義があれば それは ただ 建て前としての旗印であるなら 許容しうるとなっている。中は 裏は 同じ穴の貉であるから むしろそれでよい*5ということになっている。
わたしは 初めのところで 天地がひっくり返るようにして反省を促されることになるかも知れないと述べていた*6が この今の件にかんしては 自信が蘇えった。ポーラ*7およびかのじょに与する人びとの側の問題である*8だろうと。
主義主張が嫌いだという自由を享受したいと言い張る無原則主義
(1994・11・09)
無原則主義の人は 無原則主義という規定を嫌っている。《主義》なのではないと言う。あるいは そんなことを考えたくないし 議論したくないという・それとしては まともに対応する答えが返ってくるときもある。
もっと具体的に話を進めよう。
いまの愛の話題で表現するなら 人が好きであればその《好き》が 信頼関係なり一定の原則なりを超えるという理論*9に立っている。
わたしなら 信頼関係が愛の原則であるととらえ この愛の原則は 好きをも嫌いをも超えると考えるし そう生きる。人間の論法では 経験合理性にもとづく表現内容の妥当性と それに過程的に伴なわれる答責性 これらが 信頼関係である。原則というからには 好き嫌いの心理の動きに先行する。答責性とは 責任のことだが 上の表現にかんする妥当性について 弁明し ときに 非妥当性については改めるその応答を怠らないことである。
ちなみに 無原則主義のばあいには 好き嫌いがほんとうの感情でありその意味で心であるなら あとで その内容が変わっても なんの弁明の必要もないし 責任もないことになっている。相手の感情がまだ変わっていないときには 話し合いとなるが これをいかにうまく乗り切るかが 問題となるのであって その妥当性は 別問題である。
言いかえると 妥当性は もともと なくてよい。あとで《好き》になればよい。そしてむしろその初めの出会いのときに 好き嫌いの心理の動きがあればよいのであって 表現がなくてもよい。合意を得ようとすることばによる表現がなくてもよい。仮りにそのとき表現があったとして その表現内容の妥当性を問うなどという話にはならないようである。なんでもありという原理。目的を達すればよいという原則。
だから これが 主義だと言われることを嫌っている。主義だとわきまえていたなら たとえ好き嫌いとしてでも その互いの心理における共同だけではなく なんらかの意思としての合意が成り立っているであろうし そういう人間の対話として ふたりのコミュニケーションが実現しているであろう。
わたしは 当時――ヘイ!ポーラ物語にかんする中学・高校時代―― これらのことを 感覚的にとらえていたと言い張ることにしよう。理論の説明はもとより その探求もなく 実際の行動のなかで まだ言葉以前の航海図を模索していた*10。
どちらも愛の原則であるというあたらしい見解への地ならし
ただし すでに述べた結婚の申し込みの時には わたしは尋ねたのであるが かのじょポーラはその時にはもはやその以前のようには わたしのことが好きではないと答えた。これは 単純にとらえるならば むしろ結果的に見て――そう意思表示したことをもってすれば――愛の原則が 好き嫌いの心理一本主義に先行しているとも考えられる。
たしかに そうだったはずである。しかも――その時には わたしもそこまで考えなかったのであるが―― 結局かのじょが やはりわたしから見て無原則の人として映るのは 次の事情が 裏にあったとも考えられるからだ。《たとえ今(その意思表示の時)では好きではなくなっているにしても あなたが自分の原則をそのまま通し続けて来たなどということは 失礼なことです!》と言ったのかもしれない。その後 わたしは もし《解放》されなかったとすればである。
世間の考え方に従って仮りに言ってみるとすれば いわゆる女としては それ(=ポールの原則とそれにもとづく振る舞い)を受け容れられないという意味での 失礼な! であったかもしれない。だが ポールにしてみれば そうだとすると やはり女が人間に先行してしまうことになる。
ポーラにしてみれば――とくに女であることが関係しているからなのか―― 先立つものは信頼関係の確立だという原則は 受け容れられないと言っているのである。わたし(=ポーラ)の内に好きの感情が薄くなった今であっても あなた(=ポール)がその原則の人でいることは わたしに対して わたしの好きという心をほんとうには受け容れてくれなかったことにおいて 挑戦的であり わたしを暗に批判しているでしょう それは 失礼ですと。
わたし(=ポール)のほうとしては それに闘いを挑んで勝つということは出来なくとも――また実際そうしていなかったにもかかわらず―― 知り合い関係の中でそういった議論を挑まれていたことになる。ポーラが その議論を仕掛けて来ていたのである。挑戦的であったのである。わたしポールは 恋愛の成就といったことでは もうまったく退いていたのだから。わたしは このポーラの《思いやりある干渉》から逃れることが出来なかった。
これは 一般論としても議論できることである。日本の社会(=人間関係)をめぐっての日本人論でありうると考えられる。
というよりも もっと具体的に細部を観察してみることができる。こうである。
アウフヘーベンした見解:大きくは どちらも愛の原則の異種であり その中での互いの対立である。
たとえば 干渉もしくは思いやりあるお節介は こう展開する。
一般的な日本人論であるにちがいないが そういうよりも もっと実際の動きとしては こうである。
ポーラは ポールの結婚申し込みの際 《以前のようには 好きではないのだけれど・・・》とだけ言って あとは ポールの応答を待つのである。ポールは 《じゃあ これでさようなら》とも言えず さりとて何の返事もかえすことができず 長い時間が経ったのち ポーラを――無言のまま――家まで送り届けるということになったのだが ポーラはなおもポールに対して その応答を待つ姿勢を持ち続けた。その無言の――相手に対しては きつい――語気をポールは無視することができなかった。――これが 無原則の人のなす干渉なのである。この世界に冠たる自由のくにの無原則主義を どうか あなたも 摂取して この自由を謳歌してくださいと。
したがって――従って である――ここまで来れば 実際にはかなり理屈をこねているように見えるであろうけれど 事の真相は はっきりしてくる。一つの原則とそしてもう一つ別の原則との対立 こういった様相を呈していると言うべきである。
愛の原則と好悪の原則とである。そして どちらも 互いの相手の原則の中にある内容をも 自分が持ってもいる。それらは したがって どちらが先行するかという問題にもなる。それは むろん初めから取り上げて来た中味ではある。
愛の原則は 信頼関係の成立を見ることから来る。そして 後者の好悪の原則は そうは言っても これも 愛の原則を含んでおり 時には それを主張しようともしている。思いやりという言葉のなかに含まれているというかたちであるのだろう。あるいはつまり 好悪原則にあっても その好悪の心理をたとえ優先させていても もし嫌悪の感情が起こりはたらいた場合 それでも 信頼関係など問わずそれを通り超えて 社交辞令なりとも一定の愛の言葉をかけるべきだという意味での愛の原則である。
ポールは この思いやりの意味での愛の言葉をかけることがない。そうではなく 互いのあいだに信頼関係をきづこうとする会話や振る舞いが 愛の原則だと思っている。初めに 信頼関係を問うているからである。それを 問わないことをなしえず 通り超えることができない。
- 恋愛の問題でなければ 話は まったく別である。同じなのだけれど 事務的に処理するというたぐいの関係は ありうる。合意と信頼の次元や範囲がちがう場合があると考えられる。恋愛のほうが 次元が高く 根元的であろう。しかも これは もともと 互いに全人格をとおしての信頼の関係として 話が同じゆえにこそ 社会生活の局面によって 限度があったり已むを得ない保留を持ったりするものと考えられる。
対立の起こっているところの焦点は こうであろう。
信頼関係の成立を問わずそれを超えて 上手な思いやりの言葉をかけることが 好悪原則の説く愛の問題である。それに対して 上手下手にかかわりなく 信頼関係の樹立に初めから 努める・しかるのち 信頼関係ゆえの思いやりの言葉もあれば同じくけんかもあるというのが 原則の人の 愛の原則である。後者がむしろ 和を以って貴しと為しているように わたしには思われる。前者は 嘘でもよい 演技でよいのだという主義にもなろう。
ここには 理屈以上の内容があるかもしれない。
実際の問題では 信頼原則論も 無原則信頼論も いづれの側に立っても いまの愛の原則と好悪の原則との両立を――全体の関係構造ないし社会過程において――望んでいるし それへと努力していると思われるから。
信頼関係主義も いまの特定の男女関係としてなら 愛の原則と好悪の原則との一致を望んでいる。無原則信頼論も それはむしろ 好悪主義にもとづき 信頼関係が自然に成長してくることを思っていて その過程が 愛の原則だと考えているかもしれない。この意味では あらたな議論が開始される。
ただし 話は振り出しに戻って・・・。
しかも問題は 単純で明らかである。それらの両立にあたって やはり愛の原則か好悪の原則か どちらを優先させているかにあるから。
好悪の原則を優先させた上で その上で――まさに自然の成り行きにまかせてのようにでも―― 愛の原則をも実現させようとするのが 広く無原則主義ということになる。まったくの人間不信論ないし愛の不毛論であるのなら 話は別ということになろう。ぎゃくに言えば 好悪の原則から信頼の自然成長論を持ってのように ゆくゆくは愛の原則をも実現させようと望むのでないとすれば そのような愛の不毛説を 自らも保ち 人にも頑なに宣教するという その意味での無原則主義となり これは 自己(ないし自己の原則)絶対主義となる。結論として言って この種の考え方の非は 一般の認めるところであろう。
人の言うことにいよいよ耳を傾けないと言い張ることになるから。
それでは 愛の原則と好悪の原則とをともに実現させようという前提で しかも たとえば後者を前者に一歩でも優先させようという考えについて どう考えればよいか。
いや もう少し精確に言わなければならない。わたしの考えでは 信頼する(信頼しようと努める)という意味で 好悪にかかわらず《愛する》というのに対して そうではなく 信頼はひとまずどうでもよいから 好き嫌いに従ってそれぞれなりの《愛》を持ち その上ですでに人間と人間との関係に立ちなさいという考え これについて どう考えればよいか。
- 基本的にそれも自由とせざるを得ない。信教・良心・表現の自由に立って というよりは その自由の内容じたいとせざるを得ない。信頼原則を先行させる主義が自由であるのと全く同じように そう捉えざるを得ない。
- 同じことを逆に言えば 信頼先行による愛の原則の人も 好悪先行による愛と信頼の問題を説く人も いづれも互いを尊重し それぞれの考えを認めあわなければならない。互いに自由に議論――その意味で宣教――してもよいと同時に 押しつけや干渉となるに至れば 自らを引き下がらせなければならない。――そして 表現にかんする妥当性と答責性の原則に立つなら もはやそれだけで十分であろう。
それでは 実際問題として その対立する相手が 引き下がらなければどうするか。
わたしは 議論の止むまで 相手が引き下がるまで おつきあいしたわけである。あるいは 言葉では何も言わずに引き下がられたことによって そのお付き合いが なお続く状態であった。今では――過去を引きずっていたとするなら―― 中ぶらりんの状態で この対立が尾を引いている。
- ありがたいことに 2005年3月に入って この状態は解けた*11。次につづく文章は まだこの解放のなる前に綴ったものである。
わたしは――鬼のようになって言うとするなら―― おつきあい(もしくは対立)がつづくと見なければならない限りで わたし自身の状態を含めて その関係情況は 人間以前の状態にあると言わなければならないと思っている。結論の一段階として そう思っている。
そこには 好悪優先の原則ないし信頼の自然成長説に対する批判を込めている。
好悪原則をともなう信頼の自然成長説と 愛の原則にもとづく信頼先行説 これら両者は 互いの異同とそして部分的には相互の対立とを 認め合わなければならない。よしわかった 認めたと言葉で表現しあわなければならない。
問題は どこまでも解消することのないそれら両者の対立にあるのだが わたしの経験するところと見るところによれば その対立と闘争を惹き起こしつづけているのは 無信頼原則の側であると考える。なぜなら問題が 信頼の自覚的な形成説と自由放任説との対立にあるということは その対立をめぐって どちらの主義の側も 互いに互いを認め合わなければならないところを 決して わかったとは言わないからである。無原則の人は 初めの出会いのときも 心理の動きによって いわば忍び込んでくるのだが 互いのくい違いを認めようというときにも よし わかったとは表現しないからである。
これは 人間以前の状態であると言わざるを得ないのではないだろうか。
コミュニケーションが少なからず重要であるとするならば 人間社会の全問題の原因のすべては この人間以前の状態を惹き起こす思想的な対立にあると考えたいほどである。
(つづく→2005-04-11 - caguirofie050411)
*1:《ヘイ!ポーラ物語》(→2005-02-06 - caguirofie050206)の続編にもなります。
*2:日本教:これは 特定の原理原則の無化という気分の心理的な共同があれば 成り立つ。その気分の流れが あたかも広く世の中に観念の運河となってのように 社会的な共同性を持つところに 強固になって働いている。ただし別の見方もすでに提出されている。宗教の別・宗派の別にかかわらず あたかも富士山の頂上を目指すごとく 互いに共通のおそらくは唯一の目標を持つというなら それは あたかも絶対自由という名の不文のかたちでのれっきとした原理原則なのだという見方である。→土居健郎:聖書と「甘え」 (PHP新書)。
*3:性善説じたいが 人間不信の説だとはとうてい言えない。性善説を 建て前として利用する場合には そしてそういう場合が優勢である時には 社会が 事実問題として不信の説に傾くと考えられる。
*4:干渉:抵抗と言いたいところだが 無原則の人は 絶対多数派であって 指摘を受け再認識するまでは 絶対の自信を持っている。干渉という言葉を避けるとすれば 思いやりとしてのお説教と言える。
*5:裏に廻れば同じ穴の狢:だから 旗幟鮮明の人については 余りにもその旗印のもとに元気すぎるならば いちど確かめてみなければならない。有原則の人で成功するというのは並大抵のことではない。もし有原則でありつづけるときには むしろ萎縮するという情況が 同じくむしろ抵抗として ふつうになると思われる。→エッセー《誇るのなら》2005-04-05 - caguirofie050405
*6:天地がひっくり返るような反省:→第一章2005-03-27 - caguirofie050327
*7:ポーラの側の問題:ポーラは その述懐〔第二章10節=2005-03-29 - caguirofie050329〕で 自分についても《修道院のほかに 居場所があるとは思えない》というような思いを述べている。これの解釈は 複雑だとわたしは考える。文字どおりだとすると 特異な存在だと思われる。ひとつ分かっていることは ポールとの恋愛において 原則の人ではなかったということである。
*8:無原則主義の問題:上の註では《ポーラは ポールとの恋愛においては 原則の人ではなかったが 世間に対しては 〈修道院のほかに自分の居場所がない〉というほどであるのならば 全体として特異な存在であるだろう》と述べた。このひとつの複雑な解釈は 次の次の節で《どちらも愛の原則であるというあたらしい見解》を取り上げているが その議論へと受け継がれている。
*9:信頼先行説なる原則を《好き》なる心理が超えるという理論:むろん 無理論の理である。わづかに 論理を使うところとしては 何でも受け容れて それらが互いに自由なのだから 無原則主義は優れていると説く。これは 単純に極論すれば 人は人に対して自由に狼であると言っている。もっとあからさまに言えば 巧く騙せれば勝ちなのだと。そして その敗者に対する公的な補償が仕事になるのなら その仕組みをも作っておく。考え方の上で 主義主張があっての話ではない。むろんあとでその体裁は整える。そういう理論である。
*10:言葉以前の航海図を模索:だから 信頼原則というのは 少年のわたしが 自己形成の上で わざわざ立てた理論なり主張なりではなく このヘイ!ポーラ物語の世界の中に入って 自分の内から起こってきた抵抗運動のようなものである。
*11:ポーラとの永遠につづくおつきあいが解けた:→ヘイ!ポーラ物語2005-03-01 - caguirofie050301