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哲学いろいろ

勤勉の倫理など

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精神が精神を耕すことは 愛の行為である。
精神が 自己の自然本性をたがやすことは 愛の行為であり 文化行為である。環境自然をたがやすことを いづれかの時から おこなっている。第二の自然環境である社会 これを耕すことも 文化行為である。精神は これらの文化行為を知解する。
愛の行為として 意志によって 知解をとおして たがやしを繰り返していく文化行為は それが 持続的であるとき 勤勉と称ばれる。勤勉は 人間関係の中で 信用を得る。もしくは 勤勉と勤勉との関係が 社会の中味として 信用の関係を形成する。
勤勉が 知解行為の成果をもって 社会生活を展開するとき 産業を生む。勤勉関係は 生産手段をともなって 組織的な協働を作り出し ひろく交換と消費の制度的な形態へと発展してきた。
勤勉関係が つまりその信用関係が 貨幣による評価にかかわっていること自体に不都合はないであろう。分業つまり協業の問題だと考えられる。
それぞれの勤勉あるいはその産物の信用のあたいに 差異があるのは とうぜんであろう。貨幣による評価として 差額のあることも 問題ない。この差額をもって 社会は 勤勉信用を たがいに 交換する。これが 等価交換として認められていることにも 不都合はないと思われる。
勤勉は信用であるのあと さらにその先をうかがって 《信用は貨幣である》(B.フランクリン)とすると どうなるか。
信用の差異と差額とからくる勤勉主体の貸し借り関係は 信用のそして貨幣の貸し借り関係となるとき このようなドライな人間の交通関係のほうが よほど精神の自由に合っているか。近代市民以前の身分の固定する人と人との関係よりも自由か。愛情の濃いとともに しがらみともなるウェットな人間関係よりも 生活が送りよいか。
信用の差額を自己に有利にみちびくのは 考えられることである。貸し借り関係において 自己の側にとって 貸し 貸し 貸し またまた貸しとつづく人生も 考えられることである。わづかに そのことを目的とする勤勉は 嫌われるかもしれない。がり勉とよばれる。信用は貨幣であるまでの文化命題は 勤勉の産業社会の倫理であると考えられるか。
《信用は貨幣である》は プロテスタンティズムの倫理であったものだが そのいわゆる宗教の側面は いまの勤勉の倫理に特別にかかわっているというべきだろうか。