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哲学いろいろ

文体―第九章 我々のリトルネッロ

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-02 - caguirofie050102よりのつづきです。)

第九章 わたしたちのリトルネッロ

《リトルネッロ ritornello / ritournelle》というのは オペラなどで 反復(return)される器楽奏をいうのだそうで そういえば この《リトゥルネッロ 〈ソン・メタリック〉の消息》という小品では 音について・音楽について くりかえし 語られている。

《ヘルメスの音楽》の前半部分について

浅田彰氏のこの議論で 前半について おもしろいと思ったことは 二点ある。一点は 人類の歴史のはじめから 説き起こしているということ。《音》として こうであったろうとか また かくかくしかじかに変化・発展したであろうとかいうかたちで 人間とその社会の歴史を捉えている。
《はじめの音》と《ソン・メタリック》の消息が 議論の最後まで・つまり現代にまで 語りつがれるというわけである。
音といいながら あたかもヴィデオテープの映像を見せられているような感じがする。そういうかたちで 人類の歴史の物語りを 簡潔に 見せてもらうことは 単純に ここちよい。おもしろいものだ。――わたしは 意地がわるいから それでも あらを探すのだが 同じくそれでも この面白さに対しては 次の注意を向けておけば 済むであろう。映像・そしてその精神の記憶としての視像 これが なまなましいと そしてそのなまなましさを 説明の準備作業としてではなく 結論的な主張にかかわって提示するとならば そのときには 人に 認識の目標をあたえる。認識の目標としての視像は ほかでもなく めざすべき星となる。光の影たる星が 目標いな目的となる。この注意である。――人は この《ヘルメスの音楽》に触れてはならない。その視像を見つめてはならない。それは 星であり 天国にあがっていないからである。真理そのものではないからである。
おもしろいと思った第二点は この小品の前半では 星たる《音の消息》としての人間の・社会の歴史的な展開 つまり特には経験領域のことがら これに対して じっさい 《逃げて》いない。そして 
その《逃げない》やり方は 経験的な歴史展開を むしろそのまま――そのただいまのデーモン関係のまま――もっと先へ進めよ もっともっと進めてたたかうべきであると 言っていることにある。《先行》する基本主観に立てば人は むしろ《後行》する経験領域から 始める。経験領域のデーモンの情動を受容することから 始める。たしかに 星を見ており――つまり 星を見ている人たちの経験行為をとらえようとしており―― かくて星々の世界すなわち夜から むしろ歴史を始める。この意味で

はじめに《金》があった。

《金》は共同体と自然の間に宿命的な切断を走らせる。柔らかな自然の身体にガックリと傷口を刻みつける鋭利な金属器。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉Ⅱ ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

こういう意味での《はじめ》である。田や町を四角く区切り 共同体を四角の家につくりあげ 文化行為の成果である道徳・規範が また人間を 四角(square)にしがちでもある。おうおうにして 窓をとおしてのみ 空や自然をながめるようになる。そういう《はじめ》。星の夜。あるいは 星も出ていない夜に 星をあおぎ目指そうとするばあい。としての《金》。浅田彰は まだ 逃げていない。こういう文脈において《先行》するのは

先行するのは《交通》のネットワークであり それを局所的に分節(セグメント)化することで 一個の共同体という架構 それと溶け合う無垢の自然という幻想が生まれるのだ。
(同上 ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

わたしたちの言う《先行する基本主観》 それは 《自然本性》であり ここに《後行する経験領域》をつらならせていてもよい。そうして 全体は ファウストや閏土やの《自然》である。
《後行する経験領域》が先行するようになると――つまり人びとが そのように倒錯視しだすと(たとえば 《文化》のそういった反面にあるもの つまりいまの表現に従えば《金》によって浮かび上がった文化が 自然から切断され 自然に対して優位に立つと宣言しだす側面 こうなると)―― 交通のネットワークたる《共同体》は《局所的に分節化され 〈一個の共同体〉という架構が生まれる》。そのとき同時に 《この架構(つまり 既にデーモン形態)と溶け合う無垢の自然という幻想(新しいデーモン)が生まれるのだ》。
デーモンは どうでもよいものである。後行する領域である。どうでもよいものを どうでもよくないと見はじめると――《文化》また《金》の保守の側面―― おそれないようになる。むしろ 先行する基本主観つまり《わたし》を おそれだす。自分が怖いと言い出す。だから はじめの普通の自然(環界)は これも 四角く(几帳面に)くぎった《無垢の自然》だなどと 錯覚しだす。ことばとしては むしろ区切られていないから《無垢の自然》と見るのであろうけれど そのことを 四角い窓からながめているのである。じっさい ほんとうのところは 《無垢・有垢》は どうでもよい領域である。つまり 《文化》の 新しい展開というよりは むしろ保守のための加速された追求という洪水のなかで 《無垢の自然》があって欲しいと言うわけである。また 閏土や阿Qのような自然の人がいて欲しいと言うわけである。かれらを そうやって まつりあげつつ いじめることが出来ると 文化人は考えた。この《いじめ》は 教育問題としても 騒がれている。このような文化人たちの欲求は そして放射線ゲームは しかし もはや何ものをも恐れていない。

そればかりではない。金属は武器となり貨幣となる。それは 共同体を他の共同体との戦争や交易に つまりは《交通》にひき入れる。その《交通》は共同体の内部にはねかえり それまで稠密な一体性のあったところに無数の亀裂を走らせずにはおかない。
こうして 閉じた共同体は《外》の世界へと開かれる。それは カオスへの道が また同時にコスモスへの道が開かれることでもある。
(同上 ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

つまり この浅田氏の最後の一文の議論は デーモン関係から逃げなさいと言ったのである。デーモン関係の《カオスへの道が また同時に〔先行する基本主観の・自然の〕コスモスへの道が開かれることでもある》と。
これは おもしろい見方なのです。わたしたちとは アプローチの仕方が異なっているけれども いや大筋のアプローチも 《むしろ夜から始める》点で同じであり ただわずかに《道を開く・道が開かれる》といった表現はあまり わたしたちは とらないけれども 言わんとするところは おなじである。

  • わたしたちは むしろ挑発的に 《或る暗い密林を切り拓く》といった表現を用いるかもしれない。

ここでは 浅田氏の見解を まずこう我田引水して 解釈する。
依然として《自然》の中にありつつも金属の輝きをきらめかせながら屹立し始めた《文化》 この情況をすべて広く筋を違えずに捉えたい《ファウスト的な人間の全面性》――これは ウェーバーの言葉である―― これは 無力であると同時に 生きている。生きていると言うからには 死んではいない。こうなると 漫才になるけれども これが 現実であり 主観真実である。この主観現実から離れた またそれを倒錯視した経験現実が 一般に 有力となっている。そして それは 生きていない。能動的・主体的な文化行為として生きていると思っている人びとは そのデーモン関係の中に足をとられ 専門の仕事に専念するという文化行為の悲惨に 勇敢にも耐えている。かれらは 子どもたちを 《無垢の自然》として扱い あがめたてまつると同時に あの放射線で いじめている。つまり わざと 大人たち・親たちは いじめているわけではないだろうが 社会の中での 一般的にも自分の身のまわりにおけるものとしても そのデーモン関係に やられていて この余儀なくされた電波の受容を 今度は 子どもたちの中へ アースしているのだ。子どもたちが主役である教育の場に 問題が起きないわけがない。
どうでもよい後行領域を倒錯視したデーモン関係の経験現実が 一般に 有力であるのは したがって 倒錯した無効の精神(思惟=行為の形式)が 実効性を持ったと考えるべきである。浅田さんの言うところは この考えと同じものである。そのあとに――そのあとに――かれは ズレた。としか言いようがない。考えようがない。

《交通》を全面的に遮断すること 音楽に完全な沈黙を強いることは不可能である。〔なのに〕ほんのわずかな隙間さえあればいい。〔と言う。どうして わざわざ〕音楽はそれを走り抜けてコスミックな《交通》を生むだろう。〔と見るように また 表現するように ならなければならないのだろう。〕金属は〔――金属が――〕つねにそのような《交通》の秘密を物語っているのだ。〔ということに なるのだろうか。〕
(例によって申すまでも無く 括弧内は 引用者の評注である。同上 ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫) )

自然の中から《金属》を取り出し これを用いて耕す文化行為。これが 普及し――《交通》をとおして 文明となり―― また 習慣となり慣習化する。文化行為(文体展開)じたいの保守ではなく 文化や文明の成果〔の自己の取り分〕の保守のために こういった後行する経験領域が 先行しだす。倒錯が始まる。つまり 先行領域である自己の内なる政府(その精神の政治学)が 無効になったかたちで 《文化》が継続されていく。文化もすでに倒錯してしまっているのだが 《文化的》ゆえに 倒錯なんかではないと言い張る鬼の出現。
無効が実効性をもって 社会的に 有力となり デーモン関係をかたちづくる。しがらみのネットワーク。かつての交通のネットワークは 高度な文化をともなった充実した内容の人間社会であると それが百パーセントうそだとは言い切れない内実のもとに 錯覚される。たしかにこの文化は 金属ようの鋭い切れ味を見せる科学客観が 文化行為の推進力となって現われる。しかも同じくこの文化の中で 古くなりデーモン関係を色濃くみせるようになった情況は しがらみ(社会関係)としても・技術としても 変えられていこうとするのであるから 文化をつかさどる金属にまさる輝きはないと考えられるようになる。 科学という文化行為が 独立した。
近代人は 旧いデーモン関係の夜の世界から 星をあおぎ見ようとして あたらしいデーモンに俟った。(デーモン関係を制御するあたらしい社会生活を夢見た。)そのときのデーモン作用は 総じてつぎのように放射された。《勤勉でなければだめだ。道徳的でなければ。法律をよく学ばなければ。文化人にならなければ。》 
ここから むしろ わたしたちは 出発する。けれども そこには 《ほんのわずかな隙間さえ》ないと 考えるべきだ。そして もともと その世界は 後行する経験領域であると知っている。《すきま》などないし 必要ないとじゅうぶん言えるほどに 後行経験領域は どうでもよい時間である。そして どうでもよい世界の必然のちからであるデーモン これを それゆえに わたしたちは おそれる。何もしない闘いでもあり それゆえ デーモンをおそれつつ 星をめざすことをしない。めざす・めざさないとは別の 司令室(精神の政治学)のもとにある。
これは 自由な 無力の(つまり 有力なデーモン関係の前に 無力となった)基本主観が 歴史的にかたちづくって来た自らの系譜であり わたしたちは この系譜に立っている。これは 総じての文化行為の主体でもある。この存在が 《〈交通〉の秘密を 金属なら金属の世界をとおして 物語っているのだ。》

浅田彰なる音楽の調べ

わたしたちは 《ほとんど痴呆的》に述べている。べつに しかし《オプティミズム》ともペシミズムとも それを 思わない。そうような規定は デーモンたちの仕事だ。ただし 《幸福》とか《オプティミスム》とかという概念は わたしたちの無力で自由な基本主観の有(もの)であるだろう。《自然》が なぞをもって 保証しているところのものだ。
ゲーテは 瞬間(つまり時間)に向かって 《とどまれ おまえはじつにうつくしい》と 人びとに 言えとか 言いうるように生きようとか 主張したのではない。なぞを持って その《幸福》の概念が――つまり 文体過程が――保証されたところの《自然〔本性〕》のことを あかししようとしたのにすぎない。むしろ 《時よ われわれのこの主観基本のしあわせが 無力だからといって おまえは おごるなかれ》 こう言ったのである。ファウストにとって具体的ないくらかのデーモン関係 これは どうでもよいものだ ゆえに人は これを おそれる なぜなら 無力の基本主観が・つまり《わたし》が 《わたし》を・そしてデーモン関係の相手〔の《わたし》〕を なんの無理もなくちゅうちょも 困難もなく 愛しているからだ とゲーテは文体しなかったであろうか。
わたしは言うが 魯迅は このデーモン関係をたしかに避けなかった そしてむしろ これをとおして 或る美しいものを見ていた なおかつ 知識人である自己とは違った無知のその相手を 死なしめた・死なしめなければ〔語ることが〕ならなかった。無知の人の幸福が うらやましかったのである。(吉本隆明氏が この種のことを 言っていたかもしれない。)このことを知らない・知ろうとしない他の知識人たちに対しては 果敢に議論を挑んだ。――ウェーバーは 知識人であるというだけではなしに 《科学・学問》という一つの立脚点を見出した。そして ここに あたかもデーモン関係から自由な国そしてある種の治外法権でもあるかのように 考え 文体した。
浅田氏は 治外法権をもとめなかった。かつ 《すきま》があるだろうと踏んで ズレようとする。いな すきまなどあるわけがないことを ほんとうは 知っている。ただ そういう幻想(デーモンからの無垢)をもとめようとする人たちがいて その人たちに なんとか激励のことばをあたえようとする。なにゆえに?
無効が実効性をもった有力に対して それからわずかにズレた別種の有力があると踏んだわけである。なにゆえに?
わたしたちの議論は 浅田氏の具体的なデーモン関係はなんだろうかという問いに代えることができる。

〔多くの人々のおかげでこの夢がかなえられて〕 今かつてない幸福のうちにある。
・・・ぼくはこの小さな美しい本が本当に好きだ・・・
ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫) あとがき)

と言わなければならなかった・そう言わしめたかれのデーモン関係とは なんだろうか。どうでもよいゆえに わたしたちは これを おそれる。
第一。

絶対的なaffirmationの力。・・・そのような力に貫かれた書物を作りたいと思っていた。
(同上)

という文体は 一方で 《生活激励者としての生活者(文体者)》であることを 暗示していると思われるのだが 他方で そのことは 《自分に対しても その生活を激励している》わけである。《書物を作る》ことは 後行する経験行為に属するから。もちろん それを先行させていると見たうえで 《自分の生活をも激励している》という推測が成り立つ。
単純なこの推測で 議論してみよう。
この第一点は この推測が あとで あたっていないと分かり わたしの単純さをさらけ出すという結果に終わりかねないということを承知のうえでのことである。
もっとも この点は たしかに推測の域を出ないことがわかっているということは 議論の内容も 単純で 済むはずである。
《絶対的なアファーメイションの力》が わざわざ ことばに表現されていることへの欲求は 自己愛の問題である。自己愛というのは わたしたちが なぞを持った自然本性の存在として そこに 先行する基本主観と後行する経験領域とを容れて わたしがわたしを愛することである。これが 基本である。つまり だれもが そうしている。また 基本主観の自乗である。三乗・四乗・・・もある。
この自己愛において なおかつ《絶対的にそれによって肯定されていたい》というのは――いうのであれば―― これは 自己愛〔の連乗積〕ではなく 自己愛の確認である。自己愛そのもの(自己が数学的に 一だとしたら その連乗積も 無限に 一である)と その確認とは どうちがうか。
確認は ナルシシスムという自己愛の問題であり たとえばヴァレリーの一つのデーモンであったものである。単純にこう定義することにしよう。
しかしわたしたちは そうだとすると ほかに何を 議論すべきだろうか。

ああ おとうと 悲しい百合よ 
わたしは美を患い おまえたちの裸身の中にわたしじしんを願い おまえたちに
ナンフ ナンフ 泉のナンフよ おまえたちに わたしは
至純の沈黙において わたしの空しい涙をたてまつりに来たのだ。
ヴァレリー:《ナルシス語る》1890)

と言う以外に 何を語るべきだろうか。このデーモンをおそれつつ しかも 放っておくべきである。もし 自己の確認が自己の《一》からズレる ズレるがゆえに 《一》たる自己を むしろ他者として愛さなければならないというデーモンであったとしたならば。――《自己とは他者である。Je est un autre.》とアルチュール・ランボーが言うのは その《他者》は 自己の外の経験行為〔関係〕としてのデーモンのことである。もしくは 《自己〔の自然〕》のなぞのことを言っている。自己は 数として《一》だけれども たしかになぞを持っている。なぞを嫌うと ズレなければならない。ズレた自己から 自己を確認しなければならない。これが その人には 自己愛〔の自乗〕のことのように映る。
放っておくのだけれども このデーモンをおそれもし 関係を断ち切ることではない。断ち切る・切らないとは 無関係である。そして 放っておいていても 関係のなかにあるとき――つまり 《交通》が向こうからやってくるとき―― わたしたちは このデーモンに支配されたナルシスに対しては いつも《むなしい涙をたてまつっている》ことに気づくし そのことを知っている。

  • 日本では――といっても 外国のことをあまり知らないからであるが 日本では―― ナルシシスムは モラトリアム人間とともに 女性に多いと思われる。そして ゆえに 男性にも見られるものと思われる。おそれるが どうでもよい領域のもので この場合は むしろ一般的な議論としておこなわないと 内政干渉になりかねないものだと思われる。

だから この第一点は ここまでである。
浅田氏の固有のデーモン関係についての推測の第二点。
まだなお推測だが 次のことを見ておきたい。

音楽はさまざまな危険にとりまかれている。音からメタリックな輝きを奪い 閉じた空間の中に重く沈殿させる いくつもの罠。その中でも最大のものが 《意味》と《情念》にほかならない。
ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫) 〈リトゥルネッロ〉Ⅴ)

《音楽は》というところを 浅田氏が《わたしは》と言ったのだとすると これが かれのデーモン関係である。
これも 単純すぎて 議論にならないかもしれない。デーモンは ほとんど《情念》の同義語である。《情念》から自由な 客観的な認識そのものとして存在しようとする別種の《情念》を含めて。これに確かに《意味》なるものを付け加えるならば。ただし そこでは――この場合は―― 《情念》が主役である。そして なおも わたしたちが デーモン(主観基本が 傾いて 鬼となる・また鬼となっての作用)の語を 主として用いるのは 人は 主役である情念によって デーモン関係を結ぶのではなく やむなくしてデーモンと関係を結ぶ〔ファウストの〕場合でも 〔デーモンが〕主観基本の精神の所産だからである。ファウストの場合は 定義としては 一般に悪に譲歩するのだと 考えるべきである。そこからデーモンがかれに現われ付きまとうのだと。
そうすると 浅田氏にとっては 《デーモン関係》というそのことが やや抽象的なかたちで かれの固有のデーモンなのであろうか。《逃げる・ズレる》とはいうものの そういうかたちで たたかうということでもあるのだから そのデーモンに支配されているのではない。つまり 自由な文体が その限りで 展開されている。どうも これも 推測だおれである。ただ この点は 次の推測の第三点と 関連している。
浅田氏の固有のデーモン関係を探索するといっても わたしたちは 内政干渉するものではないのだから はじめからの文体論として すすむわけである。
推測の第三点。ちょっと長いけれど 次のひとまとまりの文章に いまの問題を解くかぎが隠されているように思われる。例によって評注を差し挟みつつ。

共同体の内部には共同主観的な《意味の構造》の網の目がはりめぐらされている。それにからめとられた音は 《音楽》(――カッコつきの音楽。くぎられた世界での音楽――)でしかない。そこから逃げ去っていく音楽だけが音楽(――自由な文体――)になる。それと全く逆のことが たとえばシンセサイザーの音について語られている。

  • この文章は 難解である。つづく文章によって 事態の経緯・主張の内容を もって 見守りたい。

シンセサイザーの音は(――《音》は《文体》と読め――)古くからある楽器の音と違って 伝統的な意味を背負っていない。

  • そのとおりだ。

YMOシンセサイザー奏者は そのことを指摘したのち 吉本隆明広松渉の著書に暗に言及するという 信じがたくアナクロ二スティックなペダントリーを見せる(あるいは そのアナクロニズムもまたひとつの演出か?)。

  • よくわからない。つぎを見よう。

あらかじめ一定の意味を背負っていないから そのつどその場その場で演奏者(――文体の著者――)と聴衆による共同主観的な意味付けを受けいれることができる というわけだろうか。

  • この言い方は 理解できる。つづく内容へまず移ろう。

この共同主観性というのは天から降ってくるがごとくで 何によって保証されるのか全くわからない(幻想のアジアへの回帰によって? あるいは商業資本による馴致によって?)

  • もし このつどこの場で この一文に対して議論をさしはさむとすれば わたしたちにとっては 《文体》の保証は 《なぞを持った自然》としてであり 《生きている・生活している》というそのことじたいに 保証を知る場がある。無力の自由な基本主観。《わたしがわたしであること。わたしが わたししていること。》人間が同じ存在であるなら その共同の主観のことである。《天から降ってくる》というのは 何を言っているのか よく分からない――。

しかし それは措くとして

  • と言っているから わたしたちも保留する。

いっそう問題なのは せっかく意味の軛を逃れかけた音をなぜまた新たな《意味の構造》の中にとじこめなければならないのかということだ。

  • 基本主観 その共同主観 を言うことは そしてそこに なぜだか知らないが 吉本氏や広松氏やを出すと 《音=文体を新たな〈意味の構造〉の中にとじこめる》ことになると ここでは 言っているようである。

むしろ そういう枠を次から次へのりこえて 音を自由に運動させていくべきではないか。

  • わたしたちは 誰もがみな 文体を自由に展開していると言ったのである。そこに 無力を味わっているとしても あるいは 時にしばしば倒錯がおこっていると知っていたとしても。

そのために シンセサイザーならシンセサイザーにおける《意味の不在》をフルにいかすべきなのではないか。

  • 引用は ここまでである。保留した点などを 議論しよう。

ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫) 〈リトゥルネッロ〉Ⅴ)

主張の内容を要約するとすれば 

  1. 浅田氏は 《意味と情念》というデーモン(つまり推測の第二点)を――自己の固有のデーモンとしているかどうかを別として―― 一般的に論じている。
  2. このとき このデーモンをどうでもよいとし かつ おそれるという立ち場 つまり《意味と情念のくびきを逃れかけた文体》が あるらしいと言っている。
  3. ところが 察するに 《逃れかけた文体》は 逃れ切っていない すなわち 《自由に運度するヘルメスの音楽》とは 《全く逆》である。そして ヘルメスの音楽つまり浅田文体の行き方とは 《全く逆》であるほうが 浅田氏の主張の内容を実現するのだと 巷間で 《語られている》と言っている。
  4. 何より大事なのは 《意味というデーモンから逃れかけたところのその〈意味の不在〉を フルにいかす》ことなのだと。

わたしには よく分からない。この浅田くんの論法は 単純にいって わたしたちの第一点の《ナルシシスム》なのではないか。《〈意味というデーモンの不在〉をフルにいかす》というのは 基本主観の自由な文体の展開のことであると わたしたちは知っているとすれば。かれは その《意味の構造》なる鏡に自己を映して ズレて その自己を確認しようと愛している。
わからないものは わからないと分かる以外に ない。(過程だから。)わたしたちも アサダくんにならって 《意味の不在をフルにいかす》ことにしておこう。
(つづく→2005-01-12 - caguirofie050112)