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哲学いろいろ

文体―第八章 マルクス

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2004-12-24 - caguirofie041224よりのつづきです。)

第八章 少しくマルクス

前章の終わり(補論)で もし仕事を選んでいたら生活が成り立たないという場合には 人は 自己の内なる政府の考えに反して 職業に就かなければならないことがあると考えた。従って 先行する精神の政治学の命じる考えを捨てるとなれば そこでは 逆立ちが生じ その歪みは悪鬼(デーモン)となって わたしたちを必然の=しがらみの世界にくくりつける。
だけれども むしろこうだとすれば わたしたちは この文化現実の《意味の構造》から 逃げるわけにはいかないであろう。プラグを抜き去ることをしない。ズレることも適わない。
具体的なデーモン関係は 相手と自己との どちらがどちらとも 見分けのつかない状況であるとも言わなければならない。どちらが より多く放射線を放っているか の問題も 微妙になってくる。こうなると いわゆる五十歩百歩である。わたしたちは わたしたちも 《鬼》のようである。では ズレるべきか。逃げるべきか。
けれども いまでは 過去の《鬼》から自由になった部分もあるのではないか。むしろ このデーモン関係からズレなかったことによって 怨恨から離れてのように 過去のデーモン関係――たとえば科学信仰なり英雄崇拝なり――から徐々にズレてきたのではないか。

ウェーバーの主観基本のありかたをさらに問う

ウェーバーは 主観基本の《受苦‐情念》を 無視せず かつ 脇において みづからは 経験客観の研究をこころざした。その限りで はじめに(出発点において) ズレがあったのではないか。魯迅は賢人であった。知識人であることに 《鬼からのズレ》を求めた。そうすると むしろ デーモン関係からほんとうにズレることができなくなり 知識人の鬼になったかに見える。
ウェーバーは 民族主義的な・前近代の鬼(非合理の呪術によるコミュニケーション)を克服しようとしてきた《近代資本主義の精神》も たしかに改めて鬼となったという一面があると 論じます。

専門の仕事への専念と それに随伴せざるをえない ファウスト的な人間の全面性への断念とは 現今の世界では すべて価値ある行為の前提であること したがって《業績》と《断念》とは今日ではどうしても切り離しえないものとなっていること・・・
ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫) 1904/05 梶山力・大塚久雄訳 2・2)

先行・後行のあいだの逆立ちが やはり職業・経済活動において 不可避となってきたという。しかも この時 重要なのは 専門化とともに全体的な人間性が失われることが避けられないといった客観認識を提示することではない これだと思います。どう考えても その認識は有益だと思いますが この客観認識によって ことに対処するというよりは むしろ この専門化し狭隘化する人間性の状況といったその種のデーモン これから ズレないことではないか とも考えられるのです。乱暴な議論かもしれませんが その認識の妥当性・有益性にかかわらず 客観知の内容でもって 現実を区切るように把握していくことは それ自体は いまのデーモンからズレて自由な文体に見えつつも おそらくは 新たなデーモンを生みこれを発散させなければならなくなる恐れがある。

こうした文化発展――《専門の仕事への専念》と《ファウスト的な人間の全面性への断念》とが 同時に起こるような文体=文化の発展――の《最後の人びと》にとっては 次の言葉が真理となるであろう。《精神のない専門人 心情のない享楽人。この無のものは かつて達せられたことのない人間性の段階にまで すでに登りつめた と自惚れるのだ》と――
ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫) 同上)

こういう価値判断つまり文体は それじたい ありうるし 自由なのですが それにもかかわらず この種の文体には あらたなデーモンがついて来て 放射線が放たれるようになる。
ウェーバーの流儀だと どんなデーモンが来ても その鬼を対象化し客観的に認識しようとする。ところが この研究行為が 先行してしまうと――つねに文体の形式として 先行したかたちを採ると―― べつのデーモンを みづから 生産しがちであり たしかに《パラノ的》となる。《専門の仕事においてデーモンのない精神》となろうとし 《享楽のない心情=〈ただひとつの魂〉》となる。この《星をめざす》ことは べつの鬼となることではないだろうか。この別種の鬼は 《精神のない専門人 心情のない享楽人 といったデーモン関係が社会的に優勢を占めるその情況》に対して 上の引用文の中のような客観認識(引用の最後の部分)を フラスコの中から 解き放つようになる。
魯迅は ここまでは 言わなかった。なかば諦めて こういう別種の鬼(つまり《書を読め 学問をこころざせ》と説く方向)の知識人に対して 知識人として たたかった。

しかし ここにいたれば われわれはもはや価値判断や信仰批判の領域に入り込むことになるが それはこの純粋に歴史的な叙述の対象たるべきものではない。
ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫) 同上)

ウェーバーが議論をつづけるのは 魯迅のようなたたかいを その内容にふくんでいる。主観基本を基本としている。だけれども わたしたちが わたしたちも鬼のようになってたてつくのは 《純粋に歴史的な叙述(議論)》に すでに 上のような――間接的ながら――価値判断=主観基本を 持っていたはずだということにある。なぜ 《ここに到って》 分けなければならないのか。もともと 分かれていないのではないか。《ファウスト的な人間》が 《専門の仕事に専念》しないわけではなかろう。先行する生活全般とその補助手段である科学とを 分別することと 後者の補助手段の領域を一つの独立した――あたかも治外法権を勝手にみづからに与えてのような――国(プラネット・星)とすることとは 別である。
だから わたしたちの文体過程は 《専念》と《断念》との二面的となった〔かつ 盾の両面として一つとなった〕《資本主義の精神》の鬼 このデーモンを 分析し客観認識するその作業で すでに 主観基本が先行して 価値判断をおこなっている。この文体現実から ズレるべきではない。ズレない文体が 発展して 主観基本の 無力のちから 不自由の自由――そこには言うとすれば 健全なズレがある――を かちとっていく。ウェーバーの流儀だと これが あべこべになっている疑いがある。この点では 《究極にめざすところは 同じではないか》という言い訳は じっさいわたしたちは聞きたくないと思っている。
《すでに健全なズレをかちとっているゆえ 〈純粋に歴史的な叙述〉で 議論するのだ》というのは ウェーバーの弁論として 成り立つものだとは思います。けれども この弁論に拠るとすると かれは 読者に対して 《わたしのこの高みに あなたがたも のぼって来なさい》と言ったことになる。そういうことが成り立たないと言おうとするのではなく 成り立つなら――つまり それはあくまで 主観基本の問題だから 基本主観の問題として 成り立っているのなら――しかし そのことを先に はっきりと 言っていなければならない。
しかしウェーバーは このことを 次のようにも言っている。《プロテスタンティズムの倫理と・・・》の最終の部分。

近代人は一般に最大の善意をもってしても かつて宗教的意識内容が人間の生活態度 文化 国民性に対してもった巨大な意義を そのあるがままの巨きさで意識することは殆んどできなくなっているのが普通であるけれども しかし――だからといって 一面的な《唯物的》歴史観にかえて これまた同じく一面的な 文化と歴史の唯心的な因果的説明を定立するつもりなどは もちろんない。両者とも もし研究の準備作業としてでなく 結論として主張されるならば 歴史的真理のためにはひとしく役立たないのである。
ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫) 同上)

ウェーバーはここで 《唯心的》および《唯物的》の歴史観ないし因果観を 綜合している。《精神と身体との双対》の全体的な文体としてであり 同時に 《主観基本の先行条件と経験領域の後行条件とのまとまった双対》のそれとしてである。これらは 《歴史的真理の〈研究〉のために》(第二章参照)ではなく 《歴史的真理のために役立つかどうか》の問題として 議論しているのである。魯迅の言うごとく 《だが私は 厳としてここに立っている》(第六章参照)のだと。
これは少なくともわたしたちの 文体の第一原則です。
にもかかわらず これに対するまず手続き上の批判は 次の点にあります。《かつて宗教的意識内容(――すなわち 前近代の・あるいは近代初期の ピューリタン禁欲主義的な 文体のそのような鬼――)が 人間の生活態度(つまりほぼ文体)に対して持った巨大な意義》という見方は 経験領域の鬼関係たる後行条件と 先行条件とを その先後を逆にして見ているかに思われるということ。
基本的な批判は 次のごとく。
上の手続き上の批判の内容とも関連して 補助手段としての客観認識たる《純粋に歴史的な叙述(研究)》は いまの問題にあっては それとして わたしたちも有益だと感謝をもって受け入れることになるけれども そしてその理由は ここで《ウェーバーが 先行および後行の両条件の主体であって 歴史的真理のために役立つものとして この研究の成果を発表した》と把握できるからであるけれど じつは――じつは――ここでウェーバーは かんたんに言って このようなかれの文体を 一つの星(模範のようなもの)とした。
もちろん 《わたしに倣え それだけの段階に達している》というのであったから むしろ《自分の文体を星とすること》は 必然の結果であり そのことじたい――あらそう余地はあっても―― いまの問題ではない。わたしのしつこい批判は この《星=研究成果としての文体》と《光り=〔歴史的〕真理》との 先行・後行が あいまいだと感じられるからである。もちろん――さらにもちろん―― 《光り》のために役立つかどうかで 議論しているのだから 正当に これ(光り=それは文体のみなもと)を《星》に対して先行させている。
ところが――いま ちょっと整理しておかなければならないと思われることは 人間の存在として《主観基本の先行》と《経験領域の後行》とがあり なおかつ それらの全体のたしかに人間の存在じたいとして 《真理の先行》と《人間の後行》とがあると立てられることである なぜなら そうでなければ 《歴史的真理のために役立つ》かどうかとして議論することは おかしくなる このとき――
《〈光りを 星に 先行させている〉という文体の模範を提出する》ことと 《〈光りは 星に 先行している〉として いまわたしは文体しているという持続過程》とでは 違いがあるはずだ。
《これこれは 歴史的真理のために役立たない。歴史的真理のために役立つのは わたしの〔研究成果のような〕文体であるだろう》――こう言うことは 成り立ちうる――と そして 《わたしたちは いま 文体している それは ほかでもない歴史的真理のためである》とは 互いに微妙に違った二つの別のことがらであるだろう。
また《主観基本が先行し 経験領域(ことにデーモン関係)は後行する》と言うのと 具体的な文体でそう過程していることとは 二つの別のことである。
だから ここには わたしたちの自己批判があるわけだが だから じっさい わたしたちは 星ではないし 星をめざすという態度ではない。誰かが 誰かの文体を 星だと見ることはあっても これは どうでもよいことである。それが 準備作業としてではなく 結論として主張されるのを おそれる必要がある。結論として主張されたそのものを そのまま 受け取られることをおそれる。問題は 後行領域に属するものではあるのだろう。そして それゆえ おそれる。つまり たしかにわたしたちの後行条件としての デーモン関係なのである。
ウェーバーは おそれないのである。
マルクスは おそれから 出発した。つまり 主観基本そのものにおいて おそれのないところから出発し 経験領域でのどうでもよいデーモン関係に対するおそれを 持つ。

マルクスの主観基本のありかた

あえて 聖書から引用しよう。

愛には恐れがない。完全な愛は 恐れを締め出します。
ヨハネの手紙1、2、3 (インタープリテイション・シリーズ) 第一の手紙4:18)

これが 最先行する基本主観の領域について言われた命題である。マルクスはここから 出発しているとわたしは言った。(観想に属する見解である。)そして 主の祈りの中には デーモン関係から自由であることを祈る文句が見られる。

わたしたちが自分に負い目のある人をゆるしましたように
わたしたちの負い目をゆるしてください。
わたしたちを誘惑に陥らせず
悪から救ってください。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 6:12−13)

デーモン関係は 後行条件である経験領域に起こることであるが そしてそれゆえ むしろどうでもよい領域であるが これを 避けず 初めの姿勢としてズレを持たず プラグをさしたかたちで 文体過程をあゆもうとするとき 恐れを持たない愛のもとにありつつ この愛の経験事態としての実現には わたしたちは きよらかな恐れを持つ。愛にせよ 真理にせよ 自己到来したというその《わたし》にせよ これ〔ら〕が わたしたち自身のちからで・つまり人間じしんの力で 実現しうるとは思っていないのだし 自分だけのちからで 《わたし》を持続させうるとも夢見ていない。ひとことで言って わたしたちは 必然の王国の強固なデーモンの流れに対して 警戒を解いていない。
ところで あえて極論するならば マルクスは この愛 この祈りから出発しつつも そう言うことに照れた。宇宙において真理が先行する / 小宇宙たるわれわれの存在において 基本主観が先行する ということを言い出すのに 照れた。はにかんだままであり 真理が人間に先行するということを 社会の歴史的な客観法則を何とかして明らかにしようとすることによって 照れながら 言った。客観認識は 補助手段である。
デーモン関係は どうでもよいのだから――だから それに対して 恐れを持ちつつ しかも――そのどうでもよいことをあきらかにした(①)。もしくは どうでもよいという一つの前提のままで議論したから 一つの客観的な歴史法則を 明らかにする方向を採った(②)。さらに付け加えるならば これらの科学作業をもって それをとおして 歴史的真理に役立つことを ねがった。図式的にみると ①と②とで 前期マルクスと後期マルクスと それぞれ とらえられる。かれのはにかみを見ないと ①と②とが分かれて それぞれが ある種のデーモンを生じさせる。もしくは 分かれないで どちらも 人間の観点から ①はその自己疎外 ②はその自己の物象化といったふうに――連続過程的にだが―― とらえられる。
しかし このことをウェーバーのように 研究しあきらかにするのでは 自己が マルクスとデーモン関係を結ぶことになる。(そこまでは到らない場合として ただ職業――たとえば大学教授――として勉強するといった行き方がある。これは ただウェーバーのつばさのかげに隠れて 仕事ができるというものである。)もしくは 《マルクスウェーバーとの間に デーモン関係を見て このデーモン関係と 自己とが またデーモン関係をつくっている》ことになる。《マルクスが人間の生活態度に対してもった巨大な意義を どうのこうの》(本章前記四つ目の枠の引用文)というわけである。
とうとう わたしたちも デーモンのようになってきた。
浅田氏は こう言う。

音(――声・主張・つまり誰かれの文体――)を《意味の構造》の中にとじこめてはならない。同時に 情念や身体のおもりで束縛してはならない。

  • 〔上の( )括弧内も引用者の註であるが]つまり 誰かれの文体とデーモン関係に すすんで わざわざ 入る必要はないと。入ったなら つまり 《情念や身体のおもりで 束縛》の関係に入らざるを得なかったなら まず そうなのだと 見て ここに立っていなければならない。そのわたしは 束縛されていないであろう。束縛をではなく どうでもよい領域のデーモン作用じたいを これは わたしたちも恐れている。そしてむしろ これゆえに まだ おのおのの文体が 自由に展開されている。また 次に そのことを見てみなければならない。いま引用した文は わたしたちは 賛成である。ところが――

音を 開かれた《交通》の場へ メタリック‐ニュメリックな また メタリック‐マシニックな運動の場へと解き放ってやること。

  • これは いったん成立したデーモン関係を しかも 受け付けず ズレて それを手形としてのように 自己が 裏書し 他の人へ その放射線を 伝染させることなのである。

音が〔狂気の〕音楽の輝きを身に帯びはじめるのは この方向に進んでいく道の途上においてである。

  • 《狂気の》と評するのは わたしたちの見かたであり 著者は 逆に ヘルメスの音楽のすばらしき世界へ誘われると主張している。

浅田彰:〈リトゥルネッロ〉Ⅴ ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

このような《方向に進んでいく道の途上において》 文体の自由が デーモン関係の不自由のなかにも 有効に 展開されていくのを わたしたちは――このあとの展開の過程をも 自己の基本主観の考察する対象とし そのような分析行為に関する限りでは――あたかも自己が星となってのように 客観的な経験科学のなかに包み込むようなかたちで 明らかにしていこうとする。マルクスは このような一つの客観科学の行き方から 自由であった。自由な――そしてそれは不自由なたとえば階級デーモン関係の中の――文体のたたかい・展開だというわけである。そこでは 階級関係は わたしたちの外にあって 後行する経験領域のできごとである。(デーモン関係としては わたしたちと絡まっている。)
浅田氏は じつは ここに立って 社会デーモン関係の《構造と力》は どうでもよい経験領域だと知っている。ゆえに 《逃走論》を語ることができる。ウェーバーのもしそうだとしたら先行する経験科学者であることによって文体する《意味の構造》から マルクスと同じように 離れている。ウェーバーのこういう場合の《意味の構造》というのは 《唯物的でも唯心的でもなく 基本主観に立って 〈精神のない専門人〉等を批判する科学行為》である。そういうふうにして 《歴史的真理のために役立つ》ことである。マルクスは 《唯物的》に 《階級デーモン関係の中で 〈収奪者が収奪される。最期を告げる鐘が鳴る〉》とまでは 意味の構造〔の歴史推移〕に言及したわけである。全体として 《現在》時の基本主観・その精神の政治学の問題だと見たわけである そこまでは。《逃走》する浅田氏は その《鐘》の音を やがて《ヘルメスの音楽》として 聞くといったわけである。
ところが これは 逃走者たちの《自由》な《競争》を説いたことにならないか。逃走する先も アジトも ないからである。《開かれた〈交通〉の場 メタリック‐マシニックな運動の場》が この現在 存在していると主張した。わたしたちは 《どこに?》と問い返して このズレは ゆるされないと叫んだ。放射線公害の社会の中での 自由な 知の私有財産制に向かうのではないか と《ほとんど痴呆的》におつきあいした。すでに とうとう鬼になってのように 《怨恨の物語に限りなく近いところ》で。
《Ⅰ》から《Ⅵ》までに分節されているこの小品《リトゥルネッロ》の 最初から《Ⅲ》までは おもしろいと思った。その面白いという内容については 章をあらためて取り扱うことにしよう。
しかし――しかし しかし――

メタリックな音楽についてかたること。それは水銀についてかたることである。
水銀 この変幻するメタリックないきもの。
(リトゥルネッロ Ⅵ)

というのは わたしたちの推測によるなら 《デーモン関係の最期を告げる鐘》の音を いま――いま わざわざ 狂気にも―― 聞こうという・そして聞かせようということではあるまいか。怨恨からならこうは言わないのであるが そうだと見られることもあえて恐れずに言うとするならば――少々 早いかもしれないけれど―― 浅田さん あなたは 精神の水俣病をはやらせようというのか。  
(つづく→2005-01-11 - caguirofie050111)