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哲学いろいろ

文体――第二章 ウェーバー

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2004-12-15 - caguirofie041215よりのつづきです。)

第二章 紡ぎ手ウェーバー

M.ウェーバーにもう一章をあてたいと思う。
ウェーバーは 社会科学の方法として議論しているのだから――もしくは 社会科学的な議論の客観性の問題として 議論しているのだから―― わたしたちが 文体の問題として議論しているその場へ かれの言説を持ち出しても それは 不適当ではないか。
けれども ウェーバーが次のように同じ著書で言うとき その懸念は当たらない。

我々は 諸生活現象(生きること)をその文化意義(つまり よりよく生きること)において認識しようとする学問を(――つまり 話し合いの学問的な研究を――) 《文化科学》と名づけた。・・・ところが或る文化現象の形成(つまりおのおのの文体の確立)の意義やこの意義の根拠は どれほど完全な法則概念(客観性)の体系からでも引き出され 基礎づけられ 理解され得るものではない というのは それは文化現象の価値理念(よりよくということ)への関係を前提しているからである。
ウェーバー:社会科学方法論 p.51)

ウェーバーにとっても 科学という基礎を扱いつつ 文体が 自己の価値として 大前提をなしていると言っていい。

信念(主観の文化意義)無きことと 科学的《客観性》とは なんら内的縁由をもっていない。
(同上 p.26)

平俗的にいわば たしかに〔文体する人間としては〕信念を持っているゆえに その信念をみがいていくためにも 科学的な客観性をもったことばを 吟味し 時には作り出して 用いていく必要があると。
問題は 主観の文化意義(価値観)の表明 つまり生活 すなわち文体の 《成立》の問題という点にある。
わたしたちは じっくりとウェーバーの方法を料理していかねばならない。そうでないと 腹痛を起こす。

文体の《成立》を問う

では ウェーバーが文体の《成立》を論じるのは 次のようである。

或る現象の個性(或る行為の主観)が問題になっているときには 因果問題とは法則の問題ではなく(―― 一般的な行為に対する客観認識の問題ではなく――) 具体的(つまり その特定の人の行為の)因果連関の問題なのであり いかなる公式にその現象を類例として属せしむべきかの問題ではなくて(――客観法則上の類型的な把握の問題だけではなくて――) いかなる個性的様相(主観のありかた)にこの現象をその結果たるものとして帰属せしむべきかの問題である。つまり それは帰属の問題である。
(同上 p.55)

すなわち 具体的な行為が その当事者たる主観へ どのように帰属するかの問題 これが ウェーバーにおける文体成立の捉え方である。
この議論の切り口から考えられることは ウェーバーとしては 具体的な行為つまり 具体的な文体が 或る主観(主体)に帰属していることが分かって初めて 文化現実(生活)が成立しているのを見ると言ったことになる。つまり 当然のことを確認しながら進もうと思えば ある客観法則(たとえば資本主義)によって 類型的に 明らかにされる行為というものは そのままだと その認識が まだ生活現象の一般的な次元での認識でしかない。行為の因果連関が或るひとりの主観に帰属させられて初めて 生活の実践となる もしくはその実践の認識となる。類型的に資本主義的な行為形式だと分かっていても 一個の人間・その主観真実にまで たどりつかなければならないのだと。少なくとも 科学研究には あるいは 科学研究にさえ そういう一面があるのだと。
近代市民の時代ののち 資本主義は 資本主義的な分業社会として 一つの普遍的な行為形式となって ここでは ひとりの人間の文体は その欲求や意思の内容がどうであれ 社会一般の客観的な行為形式に・つまりそのような法則的な過程に 従わざるを得ないようになっていると考えられている。現実の社会生活の過程に 一人ひとり〔の文体〕は いわば押し流されてしまう一面があると考えられる。この限りではむしろ 客観的な理想型による行為の認識は ひとりの人の具体的な主観にまで そのまま帰属して及ぶと考えられてくる。帰属が成立と同じことであるならば 各主観の文体は この限りでの資本主義社会の中にあっては その社会生活という条件だけで すでに成立しており ことさら帰属とか成立をあげつらう必要もないように見える。
ここから言えることは 一つに このゆえにも 客観認識は 具体的な主観に 帰属させうるし この主観帰属とか文体成立とかが なくなったわけではないということ。生活行為の全般に対して その因果関係が 客観法則的に・つまり或る意味で じっさいの主観を離れたようなかたちで 明らかにされ認識できるということは この客観認識を 一人ひとりの主観が認めることをもって 成立する。そうでなければ 成立しない。別の話しとなる。

  • と言っても たとえば或る無償行為は けっきょく資本主義的な行為形式の総枠のなかで 贈与の行為と見なされる。

そして もう一つに もし 客観認識がそのままそっくり主観〔の因果関係〕に帰属すると仮定するならば・言い換えると もはやそこでは 科学的の客観を一人ひとりの主観に帰属させる必要のないほどに 客観普遍的に社会生活が営まれていると仮定するならば しかしそこでも――この仮定は おそらく 無理であって非現実的であろうが それでもそこでも―― このような議論が可能になるのは 各主観の文体がそこで 既にして 成立しているからではないのか。
じっさい 認識された客観知を 或る主観に帰属させるというときには 帰属させる必要のないというときでも 初めに主観〔の文体行為〕が成立していることをもってである こう ひるがえって考えられるのではあるまいか。主観が客観法則の過程に押し流され 主観の思うとおりには 行かなくなったということと 主観の文体が成立しなくなったということとは 別だと考えられる。
文体の《成立》と《帰属》とを 《峻別》したのである。極論すれば 或る行為について 科学がそれを 因果関係にもとづき 或る一人の主観に 帰属させるという補助行為をほどこす前に いったん答責性ある発言がおこなわれているのならば その発言にかかる文体は すでに成立していたと見なされると考えられる。
主観現実のあるところ 自己表現は始まり 文体はそこで過程的に成立している。初めに掲げた原則的な命題(第一章)を そのまま 述べていることになるのだが。そしてまた 帰属の問題――だれの主観に どのように 帰属するか あるいは時に もはや帰属させる必要がないほどにその行為が類型的に一様であるか(たとえば 一物一価で 等価交換という行為形式に従う場合のような)――このような科学的な研究は 一般に 文体行為に後行する。これが 基本である。

  • 順序として 科学研究の成果のあとに 文体の内容を その成果にもとづき 判断・決定するという場合にも 一方で すでに始めに 文体がその研究をいわば命じている 他方で 研究成果の取捨選択は やはり文体の仕事である。

この《科学は 文体に 後行する》という基本は 社会生活一般の過程としての客体的な基本でもあれば それを認識しているやはり主観の基本でもある。この基本主観が 社会の客体情況に押し流され あるいは侵略されているというばあいにも――それの認識は 科学が 客観的におこなうのであるが その場合にも―― 基本主観が 蒸発してしまったのではない。蒸発せず 存続するのは 基本主観(《わたし》)が基本主観であること――わたしの自乗過程――であるが 科学は この現実に後行して(従属して) 客観的な認識をもたらしてくれる有益な補助手段である。
じっさいには みなが この基本から出発しているのであって しているのであるから ウェーバーが《帰属》を問題にしようとするのも これらの大前提のあとのことであると考えられる。そうすると あらためて今度は 議論の出発点 基本主観からの出発の仕方をめぐって 問題が展開するであろう。言い換えると 《文体の成立》の際に 基本主観はどのように踏み出そうとするか そういう一局面についてである。

文体の成立には どのような動きが 主観のなかに見られるか

早速ウェーバーの議論を見てみよう。

理想型は 歴史的個体(つまり 主観)またはその個々の〔行為にかんする〕部分を発生的概念(genetische Begriffe)において捉えようとする試みなのである。
(社会科学方法論 p.78)

ウェーバーも この《発生的概念》を言うことによって わたしたちの基本出発点における文体の成立を 見ようとしている。そして そこからの出発の仕方は どうであるか。

かくて成熟しつつある科学(科学的な客観の裏づけを持ちつつある議論とその文体)とは 実にいつでも 理想型が経験的に妥当するものとして または 類概念として(類型的な概念ないし一般法則として)考えられている限りにおいて その(=理想型の)克服を意味するのである。
(同上 p.96)

どういうことかと言えば:①ウェーバーの場合 概念を理想型として――純論理的な理念型として―― 客観的な精緻なものとすることによって 文体の補助手段としての科学を充実したものとする。②そのあと 一定のすでに用いられている理想型(ないしその理想型の精緻化)に対する さらに詳しい鋭い批判をもって 自己の方法(文体)の 過程的な実践とする。
理想型を《発生的概念において捉える》というからには それは 《帰属》の問題に重なっており すでに 主観の文体の成立および出発のありようを 論じているものと思われる。《成熟しつつある科学とは》というように あくまで《科学》のほうに足場を置いているようではあるが そこは あいまいである。曖昧だという意味は どうも 文体論としての主張であるように考えられる節があるということである。けれども 明確に次のように述べる。

だから社会生活を取り扱う科学の歴史は いつでも ①概念構成によって事実を思想的に整序しようとする企て ――②かくして獲た思想像の 科学的視野の拡大および移動による解消 ――および③かく変化した基礎にもとづく諸概念の新構成―― この三者の絶えざる交替である。

  • 依然としてテーマを《科学〔の歴史〕》というから まだ 結着はつかないが 《理想型の 批判・反批判・再批判をつうじての精緻化・再構成》という内容は語っている。もう少し 読みつごう。なお 丸数字を付したのは 引用者。

もっともそれだからとて概念体系一般(《一般》に傍点)を構成せんとする企てに欠陥があるわけではなく ――いかなる科学も 単純な叙述史でも その時代の持ち合わせの諸概念を使用するのだ――それからして知られるのは 人間的文化(生活)を取り扱う科学(わたしたちの言う話し合い)にあっては 概念の構成は問題の定立に依存し そして問題の定立は文化の内容そのものと共に変遷するというその事情なのである。文化科学における概念と概念されるものとの関係がいっさいのかかる綜合の暫定性をともなうのである。・・・
社会科学の領域における最大の進歩は 実質的に実践的諸文化問題の推移に結びつき 概念構成の批判という形をとるのである。かような批判の目的に 従ってまた社会科学の領域における綜合の諸原理(つまり 文体のそして社会の歴史的な歩みの原理の)研究に役立つことが 我々の〔雑誌の〕最も重要な任務を成すのである。
(同上 pp.97−98)

最後の《雑誌の》というのは ウェーバーがそれの編集者の一人でもある《社会科学および社会政策雑誌》に この論文を寄せていることにもとづく。
ここでわたしたちは 勇み足ででも ひとつの結論に到達することができる。いいかえると その結論内容がもし間違っていたなら そのときには ウェーバーは あくまで科学のみの議論をした・従って 主観の価値判断を伴なう文体については 一切ふれていない ということになる。
わたくしの見込みとしては じつは ウェーバーは間接的に潜在的に 自らの価値判断をも交えて 明らかに文体論を展開しているというものである。
いづれにしても ここまで一つの論文をたどってきて見えてきたことは ウェーバーが一方で わたしたちの文体論(その 自乗過程をたどるといった原則など)と同じ内容を述べているということ その他方で かれはそれを 社会科学者として〔のみ〕述べている この二面性ではないだろうか。後者=《他方で》の内容は まだまだわたしたちの推測にしかすぎないが それは そうだとしたら けっこう大きな問題を含んでいるように思われる。あらためて繰り返すなら 科学者として 理想型の更新の過程といった科学研究をおこなうと言っただけではなく 文体を披露し議論するときにも やはり《科学者として》おこなうと主張していることになる。これは 科学の・文体に対する後行性(従属)という原則に反する。
わたしたちの不満 いな 批判は――見切り発車のようなかたちだが―― あらためて次の二点として 明確にしておこう。

  1. 《社会科学の領域における最大の進歩は 実質的に実践的諸文化(=要するに 生きた生活の)問題の推移に結びつき 概念構成の批判という形をとる》というとき そのあと 《かような批判の目的に 役立つことが もっとも重要な任務をなす》とつづくのだから わたしたちの推測によるこれに対する批判は かく言うあなた(ウェーバー)は 生活者なのか社会科学者なのかと いちど問うてみるところにある。
  2. 《社会科学の領域における綜合の諸原理》 これは いったい何か。すなわち 上の(1)の問いで 答えが《ふつうの生活者》であるならば この《原理》は 引用文の中に註として触れたように たしかに《文体》一般の問題なのであり つまり 《存在》の原理だということになる。はたして そうか。また それを どう扱おうとするか。

(2)のほうから 考察していこう。ウェーバーは ちゃんと この《原理》についても触れている。引用がつづくけれども。

そして我々はすべて 自己の生存の意味を結びつけている究極最高の価値理念の超経験的な妥当を何らかの形で心の中で信じているのであるが この信念は 経験的実在(生活している人)が それによって意義を得るところの具体的諸観点の絶えざる変動をしりぞけるものではなく かえってこれをも含んでいるのである。

  • つまり 原理は 超経験的だが 経験的にも――経験をとおしても――知ることができるという。そういう確信があるという。これは もちろん《文体》のほうの問題である。

すなわち生は(=つまり存在は・文体は)その非合理的な現実性において また可能的な諸意義の豊かさにおいて汲みつくされることができず 従って価値関係の(=けっきょく 文体の)具体的な形成はつねに流動的であり 人間文化の幽遠な未来にまで変動してゆく。かの最高価値理念(=原理のことだと思われる)の与える光明は 時をつらぬいて流転してゆくところの 巨大な混沌たる生起の流れの中の 絶えず交替してゆく一有限部分の上にふり落ちるのである。――
(社会科学方法論 p.106)

もし この原理をみとめるとするならば――そしてこのウェーバーの自己の主観真実である部分の色濃い解釈によって認めるとするならば―― かれは 先の引用文の中で この《原理の研究――研究――に役立つことが 自らの任務である》と言ったのだから これは わたしたちの上の問題点(批判点)(1)のほうへ 焦点が移行する。純粋な(?)揚げ足取りとしてなら 《〈研究〉に役だつ》ことが どうして それのみで文体論を形成しうるのか。文体論をおこなおうというのであれば 《科学研究の 文体に対する後行・従属》をはっきり認めたら どうか。こうなる。
別の言い方では:一方に 原理(もしくは原理の無)に対する信仰・信念の成立そしてその持続の過程があり 他方には その原理の研究・とくに経験領域としての生活文化をとおしての研究そしてその批判の継続過程がある。わたしたちの立ち場は 後者は前者に後行するという原則内容にある。従って ここで ウェーバーがどこまでも 後者の科学行為の領域のみを 初めから終わりまで 扱っていると言えば もはや 議論は おしまいである。する必要がない。そうではなく そういった科学という体裁を採っていながら 実は 独自に自らの文体論を展開しているとするならば それは 原則に反した内容を呈している。――こういう問題である。
この論文でウェーバーは最後にこう締めくくっている。

科学は それのみが自己の労作に意味と方向とを指示することができるところの星を目指して進んでゆく。

・・・新しい願望が目醒める。
女神の永遠なる光が飲みたさに
夜を背にして昼を面(おもて)にし
空を負い波に俯して 己は駆ける。
(1085−1088行)

ファウスト

ファウスト

ウェーバー:社会科学方法論 p.108)

《科学》を――生活に先行させてのように そして そうわたしたちが見るのは まだ機械的・図式的であるのだけれど―― かれの・あるいはわたしたちの 主体・主人としているのではないか これがわたしたちの批判の的である。
けれども ファウストは 《悲劇の第一部 / 市門の前》で かれの弟子のヴァーグナーと こう会話をかわしている。

ヴァーグナー:どうしてそれを苦になさるのです。               (1056行)                 
       伝授された技術を良心的に精確に行なえば
       誠実な人間として十分ではありませんか。
       ・・・・
ファウスト:ああ この迷いの海から                     (1064)
      浮かびあがろうと なお望み得る者は幸いだ!
      知らないことこそ 必要であり
      知っていることは 役に立たない。
      ・・・・・・
      しかし 新しい衝動が目覚めて                  (1085)
      わしは あの永遠の光を飲もうと 急ぐ
      昼を前にし 夜を背にし
      天を上にし 波を下にして。
      美しい夢だ。・・・
      ああ 飛びたいと思う精神の翼に                 (1090)
      肉体の翼が伴なうことは容易ではない。
      ・・・・・・
ヴァーグナー:私もたびたび気まぐれを起こしますが              (1100)
       そんな衝動はまだついぞ感じたことはありません。
       森や野を見ていると すぐ飽きます。
       鳥の翼なぞうらやむことは 決してありますまい。
       これに引きかえ 一冊一冊 一枚一枚読んでゆく
       精神のよろこびときたら また格別です。            (1105)
       それによって冬の夜も恵みふかく美しいものとなり
       陶然たる生命に手足もぬくまります。
       ああ あなたでも貴い古文書をひもとかれると
       天国があなたのもとにくだってくる思いがしましょう。
ファウスト:きみはただひとつの欲望しか知らない。              (1110)
      もうひとつの欲望を知らずにすまさせたいものだ!
      二つの魂が ああ わしの胸に宿っている。
      その一つが他の一つから離れようとする。
      一つは はげしい愛欲をもって
      からみつく道具で 現世にしがみついている。           (1115)
      も一つは むりやりちりを逃れて
      高い霊どもの世界にのぼろうとしている。
ゲーテファウスト

第1066−1067行の《知らないことこそ必要であり / 知っていることは 役に立たない》は 《迷いの海から浮かび上がろうとする》ための問題であるが 補助行為としての科学のことを言っている。《ひとつは現世のほうへ もう一つは霊どもの世界のほうへ それぞれ相い反する方向へと自己を引っ張ろうとする二つのたましい》から来る《迷い》であるが これは 当然のごとく わたしたちの文脈では 《文体過程〔としての自己到来〕》の問題である。だから ファウストにとっては 文体には 科学として知ることは要らないと言っているのである。ウェーバーファウストの詩句を引き合いに出す限りで そういうことになっているはずである。さて どう解釈すればよいだろうか。《科学は それのみが自己の労作に意味と方向とを指示することができるところの星を目指して進んでゆく》という文章判断と そしていまのファウストの述べている判断内容とは どのように結びつくと捉えるべきか。
ファウストにかんする限りでは 《ああ 迷いの海から / 浮かびあがろうと なお望み得る者は幸いだ》というからには かれは べつに《星を目指して進んでゆく》とは 言っていないのではないか。ファウストは ここで むしろ《二つのたましい》にさいなまれながら 《あの永遠の光を飲もうと 急ぐ》(1086)のではあっても かれは何もしない。二つの相反する方向への動き その全体を受け容れていると言ってよいようだ。ウェーバーの言うように 《星を目指して進む》のは 科学という客観精神ひとつしか持たないと書かれているヴァーグナーのほうではないのか。《天国》(1109)という星を かれヴァーグナーは そうとすれば 見ている。もちろん 学問の《精神のよろこび》(1105)という星である。
もし《科学は それのみが自己の労作に意味と方向とを指示することができるところの星を目指して進む》とすれば 《文体は 星などどうでもよい 自己到来したわたしの無限の自乗過程を あてどもなくというほど うんうんと自己を押してのように――ただし 話し合いにおいて人間関係・社会関係のなかにありつつ―― 歩んでいく》。そしてわたしたちの考えでは 科学は 補助行為として この文体過程に役立つと捉えている。
わたしたちは 文体についての考察の一対象として ゲーテの《ファウスト》が出たところで 章を改めて進もう。
(つづく→2004-12-20 - caguirofie041220)