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哲学いろいろ

第二十二章a第三項論から現代社会のこと

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第二十一章−排除された第三項) - caguirofie041206よりのつづきです。)

第二十二章 第三項論から現代社会のこと(つづき)〔(20)〜(27)節〕

(20)なお復習しつつ 今村理論における現代社会論にまで少しでも たどり着けたらと思う。
まだ説明を要することがらは キリスト・イエスが 犠牲を終わらせるために みづから犠牲となったなどという一つの見解をめぐってである。現実社会の 根本条件というべき排除の構造を終わらせるために その効果を逆手にとって みづから〔の側からも〕第三項となるという一手段を 採用したという見解である。
これは 可能性の一つとしていま提出しているのであるが その意味は 《ひとりの人(ここではイエス)がいわゆる無実の罪を着せられ 犠牲の死をとげざるを得なかったというとき 人びとは そのことに対する後悔と自責の念とで その犠牲者を聖化し 事後的な制度としてこの聖性の儀礼化=内面的な受容によって みづからの罪責感を解除しようとすることになった》というような――そうだとすれば 第三項排除効果そのものであると言わなければならないような―― ある意味で一般的でもある見解には満足することができないということ このためのものである。そしてもちろん そのことで キリスト・イエスを擁護するためではなく もとからの信仰に立って たとえばいまのような見解(解釈)を持つにいたったということになる。
(21)いまの議論は 具体的には たとえば第三項の形成=すなわち犠牲身体の選別が 人びとによって 《偶然性と必然性》との二つの契機に 同時に関与しているであろうといった論点から あらためて始めることができると思われる。しかも これらの契機にかんして 一方の《偶有性》は 人間の経験思考が自由にして相対的であることからは そのまま一般性〔としての契機〕に属すると言ってよいが 他方の《必然性》にかんしては 社会一般的な側面と 特殊に個としての必然性の側面とがあると考えている。――この点を 追い追い つめていこうと思う。
まず 《排除の対象となる第三項の選択は 偶然性にもとづく》という論点について 次を参照することができる。

第三項排除効果の全体的メカニズムのなかで 第三項形成は 必然的に生ずる。第三項が何(者)であれ これが発生することは 全体的な運動過程の視座からみれば 不可避 必然的である。しかし 排除の瞬間 排除の局面に身をおいて考えるとき 第三項の選択は必然的ではない。・・・偶然的である。・・・
白羽の矢が当たるのは 神のおぼしめすままである。〔人びとも〕運を天にまかせて白羽の矢を放つ。

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

(6−4第三項の選択)

従ってたとえば その人生の半ばで突如として苛酷な試練に出遭ったヨブの例を想えということである。つまり かれの友人たちがそこへやって来て 因果応報とその道徳律とに従って 反省せよ・ざんげすべきだと語って そのような経験合理性で考えられる限りでの秩序世界(その意味での《和》)たる共同体から さもなければヨブは 排除されるであろうと迫るばかりである。広く言って 儀礼習慣とその制度による存在〔関係〕のありかたへの《強制的変身》が 迫られる。一般に《踏み絵》の問題でもあり これは 《理性の暴力》だとも論じられている。
(22)さらに《全員一致》という現象において 第三項の偶然なる生成が成り立つという。その人ヨブ以外の人びとの《全員一致》によって これがおこなわれるとき ヨブは 《第三項》として現われるというように。
あるいは 《主よ わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。 ・・・〈かれには神の助けがない〉と わたしに言う者が多いのです。》と語った《詩篇》の作者の例を想えということになる。儀礼慣習〔のなかの観念の《神》〕としての共同なる幻想・そしてその社会的な規範化とともに 《第三項》ひとりを除いた全員一致の現象が 起こるということだと考えられる。
あるいはもう少し軽い(?) しかもまさしく同じ強制的変身の事例として あの次つぎと夫を替えて生き続けていたサマリアの女――。そのことで かのじょは 人目を避けねばならず 井戸に水を汲みにいくのも 朝ではなく昼ごろに一人ひっそりとやって来ている そのような第三項排除・そしてそれとしての全員一致の現象を想えと。
(23)これらの例は その物語に関する限り キリスト信仰が 犠牲の儀礼スケープゴート効果から 自由であり むしろこれに対してこそ抵抗しつづけるものであることを示す。排除したあとで 以前の《おぞましきもの》であったのが 《聖なるもの》として受容=内面化され 再生産されていくというのは とうぜんの如く 全員一致した人びとの側に起こることである。
(24)《真理》といえば 《聖なるもの》であることに 表現上まちがいないが そもそも善悪・聖俗といった二分法・道徳の二元論から自由であるところに 自己存在の誕生(自由な変身)を見たというのが 信仰であった。そして あらためて聖性とは この信仰にかんしてなら その持続過程で自己が自己であることが 試行錯誤を繰り返し 内的な試練を経つつ 確立していくことを言う。むろん主観真実にあって 相対的にして程度問題でさえあるその確立された一定の段階(境位)のことを言う。たとえば聖アウグスティヌスというのは そういう意味である。
もはや その過程が自己の歩みに つまづきがない または 自己はなおも到るところで欺かれ しょっちゅうつまづいたとしても 誕生せる自己自身は 欺かれえないと言ってよいのであり この自己のさらなる自乗としての愛が 信仰をとおしてはたらき続けるわたしでありつづける。この意味で 《前望的に実現されるべき実践》でありつつ 《すでに つねに いま・ここなるわたしの実践》でありつづける。
(25)この文脈で もし大胆にいうならば 心理共同的に内面化された犠牲儀礼にかんするおこない(要するに 或るひとりの人の第三項化とその排除の行為)を われわれは自由に あたかも同じように・あたかも誰もが共犯としてのように おこなっている。好き好んでやっているわけではなく しかも 鳥のように飛び立ちかねているからには ここに滞留する限り 結果的にあたかも全員一致のなかで同じように 犠牲を作り出しあっている。ただしわれわれは その白羽の矢が当たる側のほうであることが多い。
敵を愛し――つまり信仰の主体ないし存在思想の存在者であることじたいとしては 敵を愛し―― その排除などの敵対行為はこれを憎み みづからの内に棄て これを その行為の答責性(責任)にかんしてその非妥当性の点では 指摘し批判し そのようには 抵抗しつつ しかも社会全体的な強制的変身の過程のなかに身をおいてもいる。完全にはされないにしても 大いに影響されつつ その排除関係のなかにもあると言わなければならないかもしれない。人身の犠牲儀礼を卒業しつつも 貨幣経済にもとづく社会のなかにあって なお排除のあとにはそれの聖化をおこなうという後始末を控えさせつつ 時に 第三項の形成をおこないあっているかもしれない。
(26)われわれの《自由な変身 / 新しい自己の誕生》に対して 一般的な必然性のもとに 個としては偶然にも起こる第三項形成としての《強制的変身》は もしそのように この世の因果律と道徳律による和としての秩序社会の中へ 有無を言わず 入れと告げているとするなら(――つまり 《滞留しつつしかもこの世に属していない》などと言っておらず この世に倣えと告げているとするなら―― つまりさらに言い換えて 《変身》という表現を 《強制的な》にしろ 用いるというからには――) その人びとも 人間の自己の誕生のことを どこかでは 知っているし 思ってもいるのであろう。わづかにその本籍は 経験領域における《存在者の運動一般の理法》の側にあって このこの世の根本条件にかなった戸籍登録をおまえも おこなえと 迫って来ているということになる。
この経験律としての《存在論的原理)に従う限り 第三項形成は 必然であり 同時に 誰が いつこの白羽の矢を受けるかは まったく偶然である。――ただ われわれの表現としては 表現の問題の限りで この時にも 必然性があるとも考える。白羽の矢を受ける個にかんしては 《この世に属していない者》という必然的な事由があるのだと。
(27)サマリアの女の場合は どうか。かのじょに第三項化の白羽の矢が当たったのは 個として 偶然かつ必然であるかどうか。個としての必然すなわち《この世に属していない者》であるかどうか。《この世に倣うな》ということと たとえば婚姻にかんして《その慣習制度ないし律法規範にそむいていい》ということとは 互いに別だと思われる。サマリアの女にかんして 後者の条件が事実だとすれば 当時の情況としては この場合の個としての必然は 別の意味あいが捉えられる。すなわち 第三項排除効果の一般的な必然のもとにのみ かのじょにとって個としての必然があったとも考えられる。慣習に反するという理由で白羽の矢があたったのではないかと人が見るところまでは 当時として 一般的にも・個としても 必然性があったのかもしれない。これを 第三項排除として 実行するかどうかは また別なのであって その但し書きのもとには 上のようにも 考えられる。――ただ 現代では 離婚も恋愛も自由だということのようである。この点は ドルトの精神分析からの《欲望》の理論にかかわって ある程度だが 論じたはずである。
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十二章-第三項論b) - caguirofie041209)