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哲学いろいろ

もくじ→[社会]スサノヲとアマテラスの物語(基礎理論) - caguirofie041018

物語じたいの目次

  1. 神の国について=本日
  2. スサノヲのミコトの物語→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041117
  3. オホクニヌシのミコトの物語→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041118

(かなり昔に書いたもので 信仰色がつよいものです。あえて そういう傾向のものもと思いました。)

1 神の国について

 人びとは視よ 神の国は永遠であるが 神は永遠に王であるのではない。*1 
 市民の祖国は永遠だが 市民にとって神は 永遠に王であるのではない。神が人にとって王であるのは 歴史的に生じるのであり それは 人間の歴史でもあるが 王であることが 永遠に続くのではない。
 王であり始めた時があり この歴史の進展は 神が王であることをそのままにして しかももはや王であるのではなく 市民が 王である神の 友となる歴史が新たに生起し つづくと聞かれる。ゆえに 神は永遠に王であるのではない。
 市民が臣民であるときは その王である神が何を考えているのか まだ分からなかった。
 だから 神が王であることは 時間的に生起し 時間的に 王でありつつ友となる歴史が起こる。この神の国は――日本人にとっても―― 歴史のこのかた 永続的である。
 われわれは この歴史を日本人として問い求めなければならない。これがわれわれに課された問題であり それは 謎であろう。 

       *

 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。
 スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。
 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。
 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否――司祭としてであろうと一信徒としてであろうとその拒否――の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。
 わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時として そのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。
 ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行――天つ罪として考えられた――をおかした。
 ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。

 アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》*2こととなった。
 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。
 このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と宗教によるその統治が克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。〔こう われわれは 表現します。分かりよい。〕この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。
 スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体によって 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。

     *

 スサノヲはこの世で イヅモのくにに 共同体をきづいて行きました。これが 日本における神の国のはじめ。イヅモ共同体が 神の国なのではありませぬ。イヅモのムラのスサノヲらにとって 神が王であることが時間的に生起した。これが 神の国です。逆に言い換えると イヅモのムラとアマテラスの世界 これら二つの世界の人びとに 神の国(真実の現実)を問い求める場が・いわば鏡としての現実が この世で 確定したのです。すなわち日本人としての《歴史》のはじまり。また 《やしろ(社会)》のはじまり。
 スサノヲらに生起した神の国(そのような常識)は ただちにその時間(生活)をとおして まず過去を見出します。同じように 反対に 未来を見出したでしょう。だが まず 常識による想像をとおして(観想をもって) 過去へと時間をさかのぼりました。
 かれらは いまから言えば 自分たちのエデンの園を問い求めていきました。なぜなら いま スサノヲに神が王となり 神の国が視られることになったのですが そのことによって これまでの呪術の園におけるこの世の人びとの死が死となった そして生が生となった したがって 過去と未来という時間を 現在という時間に対して認めるようになった だから この現在のみなもとを知りたいと欲したからです。スサノヲらは 自分たちが人間であることを知った。だから 死ぬべき存在としてこの世に生を享けたことを見出した。このことは 遠く過去をさかのぼらせ 自分たちの祖(おや)をさがし求めさせた。人びとそれぞれの家系としてではなく 最初の人間である祖たちにこの神の国は生起したのか いまわれわれに王である神は かれら祖にとっても王であったのかどうか。
 それは・つまり過去は 単純にはまず いま自分たちに ものごころがついた時のこと。次にこの同じ自分が この世・この地上の必然の王国に生を享けた時のこと。さらに世代世代をさかのぼって遠く祖の時代のことども。逆の順序で言いかえると 自分たちの血筋について そして 肉の意志 あるいは人間の意志――これらをとおして人間は誕生し ものごころがつく――についてのことども。*3
 ところがまず これら三つのこの世の歴史には 神の国はなかったのです。しかも このこの世の経験的な歴史――泣きいさちったことや 非行をおこなったこと――のあと 神の国が視られたのです。したがって これら三つの歴史の行為をとおして 神の国を 過去へとさかのぼって 見ようと欲した。むしろ神によって自分たちが新しく生まれたというその歴史です。これを過去に遡及して問い求める。最初の人たちには このことが いったい どうなっていたのか。
 じつはまず 自分たちの歴史において スサノヲが宗教拒否の意志をつらぬいたこと(泣きいさちり)の中に そして この宗教拒否の意志を自分勝手に肯定(弁明)しようとしなかったこと(そのために敢えて破廉恥なことまでおこなった)の中に この問いを解く鍵が秘められていた。やりたい放題のことをおこなうのは この世の人間の出来事であります。泣きいさちるのは 人間の経験的な歴史の行為である。そこで これらの経験的な歴史の行為をスサノヲにおこなわしめたちからが あったのであって それは スサノヲをこの世から見捨てたちから この世から見捨てることにおいてかれを見捨てなかった力 であるとすでにスサノヲたちは 知っている。
 スサノヲは この力そのものを見たわけではありません。しかし この力がはたらいてというように 追放という死からかれは復活することが出来た。これを 神がスサノヲに王になったと人びとは表現して了解した。しかも この表現の意味表示するとおりに スサノヲに神が王として顕われたというのでもない。それは このように表現することが より一層ふさわしいというほどに スサノヲらはこの力のはたらきを受け取った そしてこれを見出し 知っている。言いかえると 神の国は この地上の国(血筋や人間の意志など)と 分かれているのではなく――ちょうど両者のあいだに 非武装中立地帯(no man's land)を設けて分け隔たっているのではなく―― 互いに混同して存在しているもののようだと。二つの国は その国境を明確に分離し 隔絶させているのではなく 国境線が分からないほどに 互いに入り組んでいるのだと。*4いさちるの《いさ》は 《いさめる》のいさであり 泣いてばかりいると言っても そこに この《いさ》の意志(自己と他者との愛)が含まれていたのであると。愛とは この意味で むしろ中立の かつ絶対的な 関係のことだとも捉えられる。
 この力を 最初の人びとである――と伝えられている――イザナキとイザナミの時代と社会へさかのぼって 問い求めようとしました。呪術の園においても見られる人間の経験的な出来事 つまり肉の意志や人間の意志や そして血筋 これらをたどって かつこの血筋・肉の意志・人間の意志によってではなく 神の力によって新しくふたたび生まれるという神の国を――そのようにスサノヲらはいま認識している これを―― 問い求めた。あった。かれらの祖であるイザナキとイザナミ すなわち最初の人たちである男と女との 愛がそれであると。自分たちは 愛によって生まれた。これが 宗教拒否の意志の源泉。疑いを超えた人間のちからとしての愛。つまり同じことで 泣きいさちる中の いさの意志の源泉。非行をおこなうことの中の 生から死へのではなく むしろ死から生へと動く良心のみなもと。罪を犯さない生からやがて死へのではなく むしろやがての追放という死から復活へとはたらきかけた良心の隠れた愛のちから。だから罪人にはたらき 時間的に生起する王としての神。
 イザナキとイザナミとの 肉の意志および人間の意志による・だから 罪をともなって(罪を免れてはいないかたちで)行為する愛 この愛の中に むしろ生から死へではなく すで(既)なる罪とその罰でありやがてなる死(追放)とから生へふたたび突き動かす 愛のみなもととしての愛のちから。自分たちは そして最初の人たちも その愛のちからによって新しく生まれたのであると。すなわちイザナキとイザナミは スサノヲらの中に スサノヲらがいま かれらを思う(愛する)ことによって 復活したのであると。神の国が この過去に遡って その時間の初めから現在に至るまで ひとつの歴史として つながった。親たちが 蘇えった。今(スサノヲらの当時)から思えば 最初の人たちも この愛によって この愛の中で 生き動き存在していた。今(われわれの現在)から思えば これがエデンの園であると。むしろ乱雑のかたちでそうではないかと。したがって 神は愛である。神は愛であるのではないか。

    *

 いまスサノヲらに初めて生起した神の国によって 過去へさかのぼり その国の歴史が 人間の歴史として つらなった。つらなって見られるようになった。しかも 神の国は そうして永遠であるけれども 神は永遠に王であるのではない。王というのは その臣民であるようになってその臣民に対して関係的に言われる。市民にとって神が王であるのは 永遠にそうなのではない。けれども 神は愛ではないか。
 人間が愛すること――この地上の国において経験的に 宗教と宗教による生活とを愛し 宗教による呪術の園なる生活以外に 何もこの世に新しきものはないと考える場合 それゆえ この知識のほかの事柄に対してはすべてを疑うというある種の愛をもって 上の生活を統治する愛(意志・経営) さらにそして 他方では これらの呪術的な(非思考の)生活とその善悪の基準である宗教の王となっての疑いによる政治とを 嫌うという愛―― これら人間が経験的におこなう愛 この普通の愛をとおして 新しい愛が いわば王として立ち上がる。自分たちは この謎の愛によって生まれたとスサノヲたちは見出した。この神の国は その市民となることによって この世の経験的な愛である血筋や肉の意志や人間の意志による誕生 そのような生と死との世界を克服することが出来ると語っている。


 ところで このスサノヲたちは この神に向かって 神よ我が愛よ あなたは王として我があわれみでありますとは言わなかった。かれらは 神は愛なりと見出した。*5
 アマテラスやかのじょの周囲の人たちのおかげで かれらとの関係(社会的諸関係の総和)をとおして スサノヲは 自分が あたらしく生まれたと見出したのだから。言いかえると 父であるイザナキの命令であっても ウナハラの統治=宗教的な司祭となることは みづからの良心によってこれを拒否し また その拒否に対するアマテラスの疑い――なぜなら 呪術の世界・必然の王国による生活を拒否することは この世にとって《新しい》ものであり アマテラスの知識の中にはこれがなく 許されざるものであった――を 疑い返し疑いつらぬき そうして 何ものかのちから――神なる愛――によって アマテラスらを愛した(憎まなかった・耐えた・信じた)ことにより 神が王であることが成り立った。神の国はここにあって ここに始まった。・・・
 だから 神は永遠に王であるのではなく したがって スサノヲは 神に向かって わが愛よ あなたは我があわれみですとは言わなかった。こう言ったところで――そう言うことじたいは ありえたのだが―― 何も解決しなかったであろう。神よ わが愛よと言うことは わが愛はあなたから来るゆえということを意味している。誰もがみな〔経験的に〕愛する人であるのだから こう言ったところで 事は解決しなかった。そうではなく スサノヲは 神は愛なりと見出し 自己が自己となった。人を人として存在(生存)させている力である愛と 人を神の国の子らとして存在させる力としての愛とは ちがうと考えられた。けれども 後者の愛が 神の国の歴史を意味しており したがって 日本人の・人間の 歴史にかかわっていよう。後者が栄光であるとすれば 前者も栄光である。生命は光りである。前者――いわば前史――も これをとおして 後者――ゆえに後史――の栄光を視ることが出来た。それは 前史の愛の中にも はたらいていた。そして 後史の栄光において 自己が自己である 人間が人間である 人間がわたしする わたしが人間する もはやわたしでないわたしが人間する とスサノヲは思った。
 神の国は この世にあって 地上の国と混同しているから 後史の人びとも いわば前史の母斑を身につけている。社会(やしろ)の全体にあって 前史の世界の愛を 自分のちからで振り切ったのではない。前史と後史との全体の世界に つまり ここに 自分たちが 寄留していると。

   *

 スサノヲのミコトにとって というほどに わたしたちにとって 神の国(真実の現実)は 上に述べたような前史と後史との入り組みあう世界とその動態において あるいはむしろその過程世界を鏡としてのように その鏡をとおして 視られてゆくものであろう。つまりは 一般のわれわれの生活をとおして 臨み見られるものであろう。
 この大前提の議論を継いで わたしたち日本人の歴史を いまいちど明らかにして捉えていきたい。かんたんなまとめとして 次のように。

  1. 神は永遠に王であるのではない。神の国は 歴史的に生起する。
  2. 神は愛である。人間は この愛を分有しうる。
  3. 神の国は この世にあっては 地上の国と互いに混同している。
  4. 地上の国にあって人は みづからの前史から後史へ 牽きゆかれる存在である。
  5. 後史に立つ人びとも 前史の世界〔との関係世界〕に寄留しており また激しく接しており その母斑を自分のちからで振り切ったのではない。
  6. 日本人にとって 神の国は 古事記等の物語に見出され それは〔その限りで〕スサノヲのミコトに始まる。
  7. スサノヲが 自己が自己であった(前史が後史へ回転した)。かれの歴史をとおして 謎において われわれは おのおの 時として わたしでないわたしがわたしすることが出来る後史を受け継ぐ。
  8. それは (1)ないし(5)の命題にもとづき 神は愛であるが その神に向かって 神よ わが愛よと言うことによってではなく そのような経験的な愛の孕む罪が取り除かれることによって つまり旧いわたし(前史)が焼き尽くされ死なしめられることによってである。
  9. このゆえに 人間の歴史は 神の国の歴史的な進展のなかに見出される。この歴史は まだ記録されるようには見出されておらず 実現されていない。
  10. この新しい歴史は その知解行為として いま日本人の歴史を総点検することによって始められよう。

(つづく→[社会]スサノヲとアマテラスの物語 - caguirofie041117)

*1:アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 vol.5 ch.16に《見よ 神は永遠に主であるのではない。そうでなければ 私たちは永遠の被造物を認めなければならない・・・》というくだりがある。

*2:倉野憲司古事記 (ワイド版 岩波文庫) 中西進天つ神の世界 (古事記をよむ) 西宮一民古事記 新潮日本古典集成 第27回

*3:血筋・肉の意志・人間の意志によらず 神によって・・・というのは もちろんヨハネによる福音書 (アレテイア--釈義と黙想) 1:13より。

*4:神の国と地上の国とが この地上では 互いに入り組んでいるという議論は R.A.マーカス:アウグスティヌス神学における歴史と社会に学びました。

*5:《神よわが愛ようんぬん》という議論は アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論・・・(検索中)・・・に見出される。その議論を解釈した。