caguirofie

哲学いろいろ

はてな質問

自由意志をめぐって

回答#2

残念ながら認知科学からの回答ではないことをお断りして 設問に対して次のように考えます。

 人間にとって自由意志は 自分が他人の意思表示やそれに基づく行動(消極のものを含めよ)を認め 道を譲ったときに あぁ存在するのだなぁと思います。特にそのときの 他人の意思や行動の内容に自分が反対の意見を持っている場合が 当てはまります。

 この時の精神の働きは 必ずしも物質と言いますか 身体の欲するところとは 違って来ていると考えます。いえ 働きは 決断する段階までは 精神も〔その側面では 心理の動きとして〕 身体の欲求と同じような内容と過程をたどるのだろうと思いますが 最終の判断は その動きに逆らう場合があろうかと思うのです。
 ですから もし自由意志が存在しないとはどういうことかと問うならば 次のいづれかの事態だと考えられます。

 (1)他人の意見や行動に対して なんらの違和感をも持ったことがない事態。

 (2)上に言う違和感を持つという場合において その自分の違和感に逆らって自分が行動を起こしたことが一切ないという事態。

 (3)言い換えになりますが 身体の欲するところに おおよそ連動すると思われる人間の心理のほかに もはや精神などという人間の判断力を示すはたらきは ないと思っている事態。

 以上のようです。

 なお この自由意志ですが それによって他人や果ては世の中やに対して 反抗することは出来るとは言うものの 身体や果ては社会共同の心理となった慣習のちからを征服することは無理なようです。これは当然といえば当然のことですが それにもかかわらず 精神は この無理をーー極めて長期的な観点からはーー欲しているとも考えられます。その無理の実現をです。意志の自由な選択と言われる所以だと考えます。幸福は人は 不可能なことは望みませんから。

質問者:last_wednesday 2004-10-05 15:09:23

ありがとうございます。
曖昧な言い方ですが、人は欲求や感情のバランスによって意志決定を行っているように感じます。
また、その上で、立場や形式による影響を強く受けているようにも感じます。
人は、自分が自分と思っている自分のイメージによって決定される、選択の余地のない意志を見ているだけではないのかと思ったりもします。
人は、本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか?
もし、決定しているとするなら、それはどういうことなのでしょうか?
自由意志とは、でたらめな予測できないものを持ち込むことであるとも思えるのですが、どう思われますか?
この時、予測できないはずの自己、つまり、今からは次が見えない自己とは一体何なのでしょうか?

私は自然科学的なアプローチの正しさを信じているのですが、端的に言えば、自然科学は観測内容を記述するものであると思います。
しかし、観測事実から推論を重ねることで簡潔な記述形式を導く時には、(矛盾に満ちている気もしますが)自由な試行を繰り返すようにも感じます。
(観測も十分ではないし、論理的でもないかもしれませんが)その可能性として、様々な考えを聞いてみたいと思い、質問しました。

回答#13

質問者さんのコメントに再コメントさせてください。

 (1)自然科学の科学行為につきましては 《観測事実から推論を重ねることで簡潔な記述形式を導く時》の《自由な試行錯誤》は 自由意志の働く余地があるのではないかと〔門外漢ながら〕憶測します。

 既存の知識・学説から自由な精神の動きが見られるのではないかと。

 ただ そうだとしますと 結局 他人の意見に 反対だが 譲歩するという場合に見られると言ったわたくしの見解と同じような内容になるとは考えます。既存の知識から自由なと 他人の意見から自由なとのふたつです。前者は積極的な発現となり 後者は 控えている・慎んでいるという消極ですが。

 さらに なお書きが必要であるかも知れません。この《自然科学上の推論やそれに基づいてその今捉えた内容に表現を与える行為》は 自然界においてそれまでは未知であったものごとの発見・発明というのが 実質ではないかとも思うのです。そのことの重要性にはなんの変わりもないのですが 意志の自由な選択という場合は そのような発見・発明を導くきっかけとなった思想のほうに重点があるような気がしています。いかがでしょうか。

 言い換えますと 中程で述べられた《でたらめな予測できないものを持ち込むこと》という定義は 未知のものごとの発見という内容のほうに傾くように感じられます。  

 (2)前半に述べられた内容にかんしてですが 結論に飛びます。 《人は欲求や感情のバランスによって意志決定を行っているように感じる》というときーーおそらく一般にそのとおりだと思うのですがーー

しかも 《残念ながら そんな生活であるにすぎない》と嘆いているわたしも そこに存在します。

 《人は 本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか》と問うとき 否という答えを用意して 物質や立場や人間関係やら何やかやのちからに譲歩している自分を わたしたちは それぞれ 見てもいます。 これを わたしは 自由意志と呼びたいと思いますが いかがでしょうか。  

 なお わたしの初めのコメントの最終の一文では誤記がありました。《幸福な人は》が正しいです。

質問者:last_wednesday 2004-10-06 00:13:14

ありがとうございます。
おっしゃる通り、未知のものを知る時、自由な試行を繰り返すのではないか、という主張は、
自由意志が存在するということを前提にしたものです。((矛盾に満ちている気もしますが)と書いたのはそのためです。)

>《人は 本当に自分の行うことを自分で決定しているのでしょうか》と問うとき 否という答えを用意して
>物質や立場や人間関係やら何やかやのちからに譲歩している自分を わたしたちは それぞれ 見てもいます。
>これを わたしは 自由意志と呼びたいと思いますが いかがでしょうか。

私が自由意志が存在しない可能性を考える時、ある主張を押し通すことも、また、譲歩することも、
(決められた)感情のバランスの機構の一部ではないかと考えるのです。
しかし、そこに自由意志が存在すると証明できないように、存在しないともまた、証明できないのです。
brageloneさんのコメント欄での私の主張もひとつの可能性に過ぎません。
この問題は、観測と論証によってしか答えが得られないものであるとも考えています。
(それでも得られるのかどうかはいくらか疑問が残りますが。)

私の不理解による失礼がありましたら、私の疑り深い性格を考慮した上で、ご理解いただきたいと思います。
誠実な回答をいただきうれしく思います。

《「本当の自分」って、何?》とのはてな質問を見かけて 《答えようか どうしようか》と考え いまこのように回答を寄せつつある自分が それです。

 回答の内容のほうには 必ずしも本当の自分は存在していないと考えます。それらはーーむろん否定すべきだと言っているのでは毛頭ありませんがーー 知識や想像や 人生の来し方・行く末や 自分の生活の断面などやであったりすると思います。

 なかで 未来をも含めた自己の歴史については 一つに 必ずなにかにを成し遂げようという自分や もう一つに 現在の自己をかたちづくった過去の行為にからむ自分や これら二つの回答内容は 本当の自分に限りなく近いとは思います。ですが それでも これらを 退けたいと考えるわけは やはりそれらを回答とするならば 質問者の方との直接の対話にはならないのではないかというところにあります。逆にいいかえるなら それらは 質問者に対して 間接的に話し合いを持ちつつ 回答を寄せている。直接に語り合わなければ 互いの自分が本当の姿を現わすことはない という理論にこだわりたいと思っています。

 直接といっても 互いの縁側ともいうべきあそびの側面域だとは思うのですが そのようであっても 人と人との接点ではあると考えます。この意味での直接の接触面に必ず互いが 一旦は共に立たなければ コミュニケーションは始まらないと言っていいと思いますし 本当の自分も現われないであろうと考えるものです。

 そこには 次の含みがあるでしょう。すなわち もし人と人とが 直接の話し合いの場に出会うならば その人が何を考えていようと 何を想像していようと 何を妄想していようと どんな下心を煮詰めていようと かまわないわけです。頭のなかに描かれた内容とは関係なく いま互いの接点に立っている自己(その意志)が本当の自分なわけだと思います。ですから そうしないならば(つまり この接点に進んで立たないのならば) 確かに 下心や妄想やが ある種の見方で ほんとうの自分になっているのかもわからないことになります。  

 最後にいまひとつの但し書きは次です。 ほかの方の回答のなかに 少なからず《神》というものがあります。これについては その中身が幅広いと思いますので 一概にしりぞけることも 間違いになるかと思いました。一つひとつ具体的には触れませんが 上に述べた点との関連では 次のように考えます。

 すなわち およそ人間にとってのコミュニケーションにおいて 直接の人格と人格との接触というのは 自己が神との関係において いかに存在しているかというその接点と 同じことだと考えるものです。この中身は これまた幅広いというか 必ずしも明確ではないものがありますが いまそのように抽象的に表現したかぎりで 神も 本当の自分に おおいに かかわっているとは考えます。(というよりも 神こそが 本当の自分であるとする回答があったわけですが。)

目に見えない形で起こる障害

  • 外を歩いていて向こうから歩いてくる人に笑われているように感じるとか、笑い声が自分を笑っているように思うのですが、どうしたらいいでしょうか。視線が怖いです。アドバイスをください。それは勘違いだという意見は無効です。よろしくお願いします。
    • 視線については わたしは 若いときから つとめて 水平・対等であろうとしてきた。目上の人・責任ある立ち場の人に対しては そして人間であることにおいて自分を含めたすべての人に対して 敬意を表しつつ。女性の場合 人により そういったわたしの意志も心も 通じないことがある。男性の場合は そのわたしの志を受け容れないとしても・あるいは〔そんな甘い世の中ではないのだぞと〕鼻で笑うとしても 通じてはいる。つづけるのみだ。
    • 人が私のほうを向いて笑う場合。
      • まず振り向いて その人の表情なりともを 確認する。私に対して関心はないという意味で無表情であれば たとえその無表情はわざと作っているという場合でも もはや そこには 何もない。故意の無表情だったときには 相手の次の振る舞いを待てばよい。(もし 笑ったりすることでしか 声をかけられないということであれば 少しの憐みを私は覚えるであろう。そこまでだ。)
      • 相手は なんらかの関心をもって 笑っているという場合=つまり わたしが振り向いたとき なんらかの意図をもって笑ったのだと確認の表情を相手が示す場合。尋ねればよい。
      • 上の二者のあいだの中間の場合=つまり はっきりした無表情でもなく はっきりした確認の表情でもない場合。放っておく。推測によると つぎの例が考えられる。
        • (1)私の気を引いている。(2)私の気を引こうとしているのだが 臆しているうちに その自分が嫌になって 照れ隠しのように 笑う。(3)ほかには 私の服装や髪型がおかしいと感じ わざわざそれを私に知らせようとして笑った。などなど。
  • 同種の質問一覧→2005-06-21 - caguirofie050621(霊障害など目に見えないところでの問題