アウグスティヌスとわたくし
関連記事もくじ→2005-05-07 - caguirofie050507
- わたしは わたしが述べる話のうち基本の理論は すべて アウグスティヌスをとおして キリスト信仰より受け取ったものだと言って来ました。
- わたしは 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を読んでも パウロの書簡を読まなければ 何も分からなかった。パウロの書簡を読んでも アウグスティヌスの書物をひも解かなければ その内容が理解できなかった。アウグスティヌスの解説をとおして 聖書が読めるようになった。しかのみならず そこに記されているキリスト・イエスの神の信仰が与えられた。
- とは言っても わたしの信仰の話は ややもすると おおかたのキリスト者やアウグスティヌス研究者からは 批判を受ける部分があろうかと思います。おそらく いわゆる《宗教》を論じる人々の議論とは 全くと言っていいほど 内容が異なっているのではないかと考えています。
- 後者は もし個人の信仰ではなく 人々のあいだの観念の共同としての宗教を重んじるというのであれば 内容がまったく異なっていることで わたしは 満足であるわけです。前者との異同については これからも 研鑽を重ねていければと考えています。
- アウグスティヌスにすべて拠っていると言いましたが ちがうところが ひとつあります。それは わたしが アウグスティヌスの当然のごとく勧める《水の洗礼》を受けたことがないことです。いわゆる教会のいわゆるサクラメント(秘蹟)としての洗礼は 受けたことがありません。(特に無教会主義ということでもありません。)
- アウグスティヌスとの相違にかかわることがらとして たとえばわたしは 次の旧約聖書からの聖句を重視していることがあるかも知れません。《見よ わたしがイスラエルの家 ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると 主は言われる。》と始められるエレミヤ書31:31以下の文章です。
見よ わたしがイスラエルの家 ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。
と主は言われる。
しかし 来るべき日に わたしが イスラエルの家と結ぶ契約は これである。
と主は言われる。すなわち
わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す。
わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。
そのとき人びとは隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えることはない。
かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからである。と主は言われる。
わたしはかれらの悪を赦し 再びかれらの罪に心を留めることはない。
(Jeremiah 31:31−34)