caguirofie

哲学いろいろ

第四章 詩篇

目次→2004-11-28 - caguirofie041128


[えんけいりぢおん](第一・二・三章) - caguirofie041019より続く。)

第四章 《詩篇 Psalmos》

 《詩篇》は キリスト紀元前のものである。言われるところによれば キリストなる神を待望していた時代に属する。この一条件をも考慮しつつ いま 読み継ごうと思う。

ashri-ha-ish
asher  lo'  halak  ba-'asat  rasha'im
u-be-derek  hatta'im  lo'  'amad
u-be-mosab  lesim  lo'  yasab.
(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 1:1;cf.第二章;alphabetの補助記号は捨てています。)
Happy-〔is〕-the-man
who  not  walks  in-〔the〕-counsel 〔of〕 the wicked
and-in-〔the〕-way 〔of〕the sinners  not  stands
and-in-〔the〕-seat 〔of〕the scornful  not   sits.
(逐語英訳。〔 〕内は原文に文字としてない語。)

 もし和歌が五七調の定型詩であるならば このダヴィデの詩篇〔と言われる〕も このように十分に 一定の形式を備えている。なかでも 音韻(a/i/sh/r/・・・)の反復によって 軽快な調子をかもし出しており むしろ遊びをまじえている。

アシュリー ハ イッシュ
アシェル ロー ハーラフ バアツァット レシャイーム
・・・

このことをまず 捉えるべきである。 語呂がいい。これが 自己還帰にかんする表現の形式にかかわるものと思われる。
 そしてこのあと 《主》との関係が表現される。つまりこの詩篇・第一編第一節は いわば水平的な人間関係の世界であり わが万葉集のうたなどと 変わりない。つづく第二節で ある種の仕方で 様相が変わる。

ki  im  be-torat  Yahweh  heps-o
u-be-torat-o  yehggeh  yomam  wa-laylah
(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 1:2;cf.第二章)
for  if  in-〔the〕-law 〔of〕Yahweh 〔is〕 delight-his
and-in-law-His  he-meditates  day  and-night.

ただし ここで《主》と訳されるヤハウェーは 《有る hayah/またはH-W-H》という動詞の使役法にもとづく語形で 《有らしめる〔者〕》を意味する*1ということだそうだから けっきょく 先に読んだところの《きょう わたしはおまえを生んだ》(詩篇2:7)という表現と ただしく対応している。この《わたし》は ヤハウェーのことなのだから。《今日 〈有らしめる者〉は おまえを 有らしめた。》と表現するのだから。あのモーセに現われたという神のことであり その名は 《有りて 有る者》(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 3:14)と言われている。または 《I AM; that is who I am./ ワタシハ有ル それがわたしである。》
 《存在とは何か》なのである。
 その意味での――むしろ 日常のことばによる――自己還帰にかんする表現なのである。《おきて》を必ずしも字句どおりに 重視する必要はないと見てよい。《存在》――または 《すでに生まれてきている者を さらに生まれしめること》――の問題であるなら たしかに 《昼も夜も》の問題であるだろう。
 自己還帰(わたしがわたしである)は あるいはそれにかんする表現行為は 自己ひとりの想像の世界に浸って 停滞することではないと思われるゆえ 持続行為であり この現実世界におけるおのおの自身の動態過程であるに過ぎない。また 現実の人間としての助け手・たとえばつまり《両君》〔との関係〕に希望を見る人(大伴旅人)も そのとき同時に さらにその背後の・目に見えないところの《存在する者を存在せしめる者》に――表現上―― その助け手を見ても そこには 何か別の問題が発生したということでは 必ずしもない。その意味で(つまり あくまで表現の問題としては) 基本的にいって 見える世界と見えない世界とは 互いに別のことではない。
 旅人も 《両君の大きなる助け》に《喜び》を見出したであろうし そのような人間関係に 大いに目を落として 昼も夜も――または 事あるごとに―― この持続過程を さらに うたにして表現しつづけたであろうと思われる。《鳥にしあらねば飛び立ちかねつ》(貧窮問答歌反歌)とうたった山上憶良も どうして《いま・ここ》なる世界に とどまり 滞留もしつつ この動態過程を歩みつづけなかったと言えるであろう。人は その表現のつど 新たに生まれていると表現するのは あまりにも安易であり また――誰も自らを生み出すようには 決して生きていないからには―― 決して 正しくもないであろうが。

     *

 人は もしそうであるならば どうして 《主・神・ヤハウェー》を 人間の想像物として とらえてしまったり 抱いたりするのであろう。想像することは同じでも その《想像をとおして》と《想像において・想像物として》とは 明らかに互いに別のことであるだろう。表現されたもの・ことが どうして 固定されてしまうのか。
 その《おきて》――すなわち存在する者を存在せしめるという助け手(そのはたらき)――を なぜ 体裁をつけるごとく 戒律や道徳律とするのだろう。これを 学問の対象とし その学問を 生活や自己よりも優先させたりもするのか。わたしがわたしである自己還帰とその表現の問題で どうして 《悪しき者/罪人/あざける者》とあるからと言って 善悪の問題を第一に立てようとするのか。
 表現主体としての すでに存在し・なお存在すべきものとしての 一人ひとりの生きることにかんする問題を 自己に対してにせよ他者に対してにせよ その叱責と裁きの問題とするまでにいたり そのことによって みずからひとりが 社会をどうして成り立たせようとはかるのか。

〔存在する者をなお存在せしめる者のおきてを思う〕このような人は 
流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び
その葉もしぼまないように
そのなすところは皆 栄える。
悪しき者は そうでない・・・    (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 1:3−4)

と語るのは その人個人の問題なのである。必ず直ちに目に見えて そうなる(《皆 栄える》)とは言えないことなのであるから その弱さをかれは――自己に戻ってのように また たえずこれを保持すると言ってのように―― 誇って見せたに過ぎない。そのようにして かれは 存在している。《きょう 生まれた》と語ったのである。
 この真実を 自己のもとになお受け容れ さらに語っていったに過ぎない。人にも問うたにすぎない。

わたしに求めよ
わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え
地の果てまでもおまえの所有として与える。   (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 2:8)

とさえ――そこで聞いたという《主》のことばとして――表現するまでに。自己が孤独な個人ではあっても 決して孤立しているとは・鳥のように飛び立ち去ろうとは 思わなかったゆえ。――もし事が 表現上 大げさであるとすれば それは 《存在》観にかんするかれの自信を示している。わたしは生まれたと表現することは 主観的な満足にすぎないと同時に その満足にとどまってはいられないという弱さ・あるいは《自負》をも 自己のうちに見ている。 
 世間にわびようにも そのすべも ことばも知らない。また実際にその事由も見つからない。かれは 錆びついてしまった。しかも 生きている。このとき人は もっとも弱弱しく かつもっとも高鳴る心にかかわる内容を その自己表現に 得るということかも知れない。
 ヤハウェー(存在せしめる者)が《わたしに求めよ》と言ったと表現しているからには 道徳にも学問にも あるいはいわゆる宗教にも 求めることもないと語ったのである。個人の問題である。語り口の誇張は 弱さの誇りであると同時に 一般に表現の問題である。この自己還帰・自己への到来・自己の生誕 にかんするかれの主観現実を その表現内容にしたがって 批判することはあっても――自己批判を含めて そうすることはあっても―― その神・ヤハウェーをかれから盗むことは 褒めたことではない。盗んだまま この神を観念として(《想像において》)抱き これを共同化するべく いわゆる宗教とすること このことは 人間の論法で 自由であるが あまり芳しいことではあるまい。また それとは逆に 今度は既にこのような観念的な宗教になったものに向かって そのような宗教観念に対する批判をもって いまの詩篇作者のほうの自己表現と主観現実とを批判し終えたとすることは 早計であろう。筋が違っている。(《想像において》神を観念として抱く宗教――それは信仰ではない。つまり 社会共同の心理現象である――に対する批判は 終えられていると したいものである。)
 ここで これまでの表現の問題および自己の誕生の問題が その同じ内容において 信仰の問題としても とらえうるところに来たと思われる。繰り返しになるが 安易な観念共同の問題としての宗教と そして詩篇作者の信仰とは 明らかに ちがうということである。ただ この第??部では この信仰の観点をあまり用いないこととする。と言っても この《信仰》は――その例をキリストの神のそれに採ってはいても―― 上に触れた《宗教》と区別し 《個人の主観真実》をその意味内容とする普通名詞として用いるためのものである。特に第??部から キリスト信仰について直接に述べる予定である。《えんけいりぢおん》とは そのような意味を持たせている。
(つづく→[えんけいりぢおん](第五章−何もしない闘い) - caguirofie041101)

*1:ヤハウェー=《有らしめる者》:これは 残念ながら 定説ではない。