caguirofie

哲学いろいろ

自由意志ということ

関連記事もくじ→2005-05-07 - caguirofie050507

(1)意志による自由な選択ということ

パウロの言葉によれば

欲する者にもよらず
走る者にもよらず
ただあわれみたもう神による。 (ロマ書9:16)

経験主体( Y−Z *1 )たる人間の意志によっても 努力によっても  事は なしとげることが出来ない。超経験( X )としての愛( X )による。
言い換えると 人間の意志の自由は その意志が 神の愛( X )によって 包まれることはあっても・従って 何事かへ促され ちからを与えられることはあっても・さらに従って そのときには 成し遂げるということが現実となるかも知れないとは 言えても 〔その意志の自由は〕 神( X )の意志に勝ることはない と。
言い換えると 非経験( X )のことは 人間( Z=Y )に 直接には 分からないのだから 本当に自由であるかどうか分からないという意味で 人は 自由に振舞っていることになる。その人の主観の問題ということになる。
現代科学が その《事実的な決定論*2において 人間の自由意志は認められないというとき それが 《すべては あわれみたもう神( X )による》という表現内容と おおむね 同じだとすれば なお 人間の主観の問題だという見方は有効であることになろう。 
問題は 当然 この 《実際にはそれぞれの主観の問題だ》というところから出発するのだが 果たして その前提の議論は上のようでよいのだろうか。いけないのだろうか。

(2) 《わたし( X )のくびきは負いやすく 荷は軽い》*3と言われている。

人が 超経験( X )なる愛( X )の扉を探し求め ノックし その窓の開くのを求める行為は 自由な意志によるものか。
またそれが 自由意志によるものだとして しかしそれは 利己心のなせるわざではないのか。
〔主観としての〕自由な意志がはたらくように 神( X )の手( X )が 何ものにも先行して はたらいたと考えるべきであろう。
欲し 走るように促されたわたしの意志は それに従うとき 同時にわたしの利己心がはたらいていると言うべきか。
あるいは 利己心など もはやないと言う場合に だとしても それは ただ その後の自己満足を求めてのことに過ぎないと見るべきか。
もしわたしたちが自分は自動機械ではなく その行為も条件反射の動きではないと言うとすれば 主観としての自由意志がはたらいているとまず主張しなければならない。
自分に先行し自分に勝る神の意志に従うことを 劣位にあって後行して選択することも 自由意志の行為であると。


そのとき 利己心が関与しているのではないか。
おそらく 不関与ではないだろう。
と同時に 神( X )の愛( X )が 利己・利他の経験行為の次元( Y−Z )を超えているとするなら そのちからに従うというからには なにがしか わたしたちの自由意志の発現も 利己心や利他心を超えるところがあると言ってもよいのではないか。
人間( Z=Y )の考える利他心をも超えるというところが ミソである。


だとすれば 自己満足の課題も 同じようであるはずだ。
自己満足は やはり起こるし 残るかも知れない。いや もはやその満足は 以前の自己満足とは 違って来ているかもしれない。
多くの他者の自己満足をも伴うことが出来ているかもしれないし 同じくそのときの満足は 従来の満足とは違って来ているかもしれない。

この探求とノックとその扉の開くのを希求する意志と行為との すべての発端は かの人( X=Z )の《負いやすきくびき》を負い 《軽き荷》を背負うところに始まると語られた。
このくびきも荷も 重そうで負いづらい。それは そうだ。自由意志によって欲しても またそのために走っても あるいは 利己心によって追い求めても 成就しえないようになっているのであろう。
さらにまた 人間の考え( Y−Zi )としての人類愛であるとか犠牲であるとか その次元を超えていると言わなければならないのは 当然の帰結であることになる。律法(文字=代理表現)を示したのではなく 神(霊= X )を指し示した*4のだろうから*5

(3)《恩恵(X)は自由意志を確立する》*6

このとき 《優れて先行する神の愛( X )は 後行して起動する人間の自由意志を かえって 立てる》というふうに アウグスティヌスは 強い調子で述べている。その主張を ひとはどのように聞くであろうか。

実際 律法(倫理理想)は自由な意志決定によるのでないなら 実現されないのである。
しかし 〔そこには次の中間段階がある つまり〕
律法により罪の認識(ロマ書3:20)が
信仰により罪に対抗する恩恵(X)の獲得が
恩恵により罪の悪徳からの魂(精神=Z )の治癒が
魂の健康により意志決定の自由が
自由な意志決定により義に対する愛が
〔最後に〕義に対する愛により律法の活動が
成就されるのである。
したがって 律法は無効にされるのではなく 信仰によって確立されるのである。なぜなら 信仰は恩恵を獲得し この恩恵によって律法は実現されるからである。同様に自由意志も恩恵によって無効にされるのではなく かえって確立されるのである。なぜなら 恩恵が意志をいやし この意志によって義は自由に愛されるからである。
  (アウグスティヌス:霊と文字 30:52)

皆さんは どのように 受け取られるであろうか。
  

  
 (未完)
   

*1:記号X・Y・Zについては→[愛]世界は愛に包まれているか(理論編) - caguirofie040914

*2:吉田伸夫:この世界についての仮説

*3:マタイによる福音11:30→http://ebible.echurch-jp.com/

*4:文字と霊→[愛]利己心および自己満足という問題 - caguirofie040919補注2

*5:神を指し示した→ヨハネによる福音1:17−18;http://ebible.echurch-jp.com/

*6:アウグスティヌス:霊と文字 30:52アウグスティヌス著作集 第9巻 ペラギウス派駁論集 1