ことば/アウグスティヌス
《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》 *1 は もしそれがあるとするなら 超経験 X へ開かれた窓であるかも知れない。
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《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》
それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。
有限・可変的・可謬的ながら 真実のことばだと考えられる。
《けれども このことばが いかに 包む愛のことばから遠いかを わたしは 見なければならない。》*2
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今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないから。
思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。
疑いを持ったゆえ思考することと その疑いや思考やをあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟することと いづれも ある種のかたちで 《精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解のあたかも ほかに真実のことばが 《日本語に属するような音や声もなく》 こころに語られるかのようである。
もしそうだとしたら わたしは なお この《親しき内密のことば(verbum verum intimum)》の窓を 開かねばならない。
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(以上は アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》〔中沢宣夫訳。東京大学出版会 1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479〕を読んで 覚書したものです。窓だとか言ってる部分が 引用者のわたしの解釈によるものです。引用文のなかに 意をとって表現している箇所があります。《包む愛》←《神》など。)
*1:DE TRINITATEアウグスティヌス三位一体論 vol.15ch.23
*2:cf.ibid. vol.15 ch.15