caguirofie

哲学いろいろ

神は何でないか。

関連記事もくじ→2005-05-07 - caguirofie050507
id:sarasbattyさんの・次の質問に対する回答#8の言説を読んで 自分の考えをまとめようとしたものです。
    世界は、愛に包まれてますか? 愛に包まれてましたか?(←いつ… - 人力検索はてな

§1 まずその前に id:sarasbatty(補注1)さんが参考URLとして挙げた次の主張について 考えておきたいと思います。
  http://niigata.cool.ne.jp/alipapa/msg/message4.html

これは ムーン氏による1973年の講演です。ムーン(文鮮明)氏については次を参照されたし。
  文鮮明 - Wikipedia
すでにこの世界基督教統一神霊協会について お心置きある方は その社会的な行動に対する批判のみで 足りていると思いますので この§1の部分は省略して 次の§2のほうへ 進んでください。


さて ここには 聖書に基づこうとする信仰によって キリスト・イエスの神が人間の歴史に介入した・そしてそのことについて私はこれこれこう思うという史観が 述べられています。(A4版プリントで16枚の量です。)


id:sarasbattyさんは わたしが見るに いわゆる相対主義の考えに基づき 人によっては神やその愛・生命・理想に価値を置くであろうし それはそれでよいが 別様には 力とかお金あるいは知恵と知識に価値を見出す人もいる それもそれでよいはずだ そして いづれも 自分の利己心に基づいている・もしくは自己満足を求めてのことだと結論づけているようです。
この利己心と自己満足の問題については あらためて ?章で考えてみたいと思っています。この?章では いまの講演で展開された歴史観じたいに限定して 議論しておきたいと考えております。信仰者の世界として 独自のものがあると考えられ それとして 取り扱う必要があると思われたからです。

                *


まず 講演の主旨を要約したいと思いますが その中で 利己心もしくは悪の問題は これも それとして取り出すかたちで §2に回します。また 歴史観と言いましたように ここには 
(1)人間アダムとエバの創造 
(2)第二のアダムとしての イエスの出現 そして
(3)第三のアダムとしてイエスの再臨 
といった過程が 
天的婚姻という事項の
(1)失敗
(2)失敗 そして
(3)現在から将来へ向けて実現
といった展望のもとに 陳べられています。が この点については 省略します。次に要約する内容において 神の子となった人間どうしの結婚が 天的婚姻とされるものです。その実現が 二度ほど失敗したのは サタンがみずから発現させた利己心によって エバやアダムを そしてイエスを取り巻くイスラエルを それぞれ悪へと引き込み 悪事をおこなうようにさせたからであると説明されています。  
(ここまで触れる必要はないと思いましたが 次に述べようとしている要約だけでは それも 批判のためには 十分ではないと考えました。) 


そうしますと この講演の主旨は 次のように要約できると思います。

   全能の神は 愛〔と生命と理想〕の主体として 創造の過程で 人間を 愛〔と生命と理想〕の対象として作った。対象である人間が 原罪ののちも 主体である神を求めるのは 普通であろうが 神とても 対象との愛の授受をとおして 喜びを持つ。神も対象を必要としている。
   ここで 神の最終目的は 自身のすべての愛〔と生命と理想〕を与えることであり それは 主体と対象とが一体となるとき 成就される。愛を通して 神と親子となってのように 一つになるならば われわれも 神の稟性にまで高められる。
   さすれば 神の子たちの世界が この地上に実現されよう。 

以下のように考えます。
神 X が あくまで超経験 X という内容のもとに 《愛・生命・全能・主体・親》と代理表現されるのは 難しくない。(ただし《理想》は 人間の経験的な思考や想像の産物 Y-Z ではないだろうか。愛 X などとつながっているとまでは 反論されると思うけれど。→補注2。また X Y Zについては[愛]世界は愛に包まれているか(理論編) - caguirofieを参照してください。)


人間が 《対象》と規定されるのは その是非を判定しがたい。(有限なのだから そういう言葉で呼んでもよいのかなとは思う。)《愛は二者の関係だから神は対象を必要としている》 というところまでは ついていけるが 次のようにまで踏み込むのは どうだろうか。 

    神は完全に利他的な存在であります。神はお一人で存在されることはできないのです。「愛」・・・は二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ その意味をもつものであります。・・・神の対象となる人間は 神にとってすべてなのであります。対象のもつ生命は 神を引き付けるのです。神は 対象なる人間のところに行き 共に住みたいと願われるのです。      (8/16頁)

ここに述べられていることは あたかも精神分析において 分析される者が自己の懸案の感情を分析医に向けるという転移や また 分析医のほうが転移をおこなう逆転移やのように 人間 Z と神 X との間に 意思や願いが 双方向において繰り広げられる様子を見るごとくである。それは ここに述べられているとおりであるかも知れないし そうでないかも知れない としか言いようがないのではないか。言い換えると そう断定してしまって その断定した話を絶対的な神話とすることは どうであろうか。(補注3)


その点では 次のような告白調の言説も 同じようではないだろうか。(この引用を最後としたいと思います。)

    私の幼少のころ 神は私に 神の器としての使命をお与えになるために私を呼び出されました。私は神の預言者として 神の真理を神のために明らかにするよう命ぜられました。私は霊界の丘や谷間をさまよいながら その真理の追求に決然として専心しました。そして ある時 突然天界が私の前に開かれ 私はイエス・キリストと生ける神御自身と直接通じ合う特権を与えられたのです。
    その時から 私はたくさんの驚くべき啓示を受けるようになりました。神御自身が私にこの宇宙の最も根本的 中心的な真理は神が親であり 我々人間がその子であると語られたのです。我々はすべて 神の子として創造されているというのです。そして 神は父と子が一つになるとき――愛において生命において理想において一つになるとき――それ以上に親密な関係はほかにないのだと言われました。          
(5/16頁。段落に分けたのは引用者)

すなわち 初めのほうの段落では 私 Zmoon に神 X の介入 X-Zm があった・つまり信仰が始まった ということが語られています。実証しえないことがらを語っているのだから この語り手は 《信仰が始まったという話ですね。それだけのお話ですね。》と返されることを 当然と受けとめなければならない。
あとの段落では 神と人間とは 愛および生命において 親Xと子Zの関係であるという比喩(代理表現)があらためて 明らかにされています。それ以上のことは なにか絶対命令であるかのようには言えないということであって 人は・そして信仰者は特に そこに留まらなければいけないと思います。
あとは・つまり問題は 誰もが判断できるように 経験合理性に基づいた思想として発言することが肝要ではないかと考えます。(神のことばを 経験現実のことばで解釈することは 《預言》と呼ばれています。*1


以上が わたしの批判です。この講演のなかで 議論し残した利己心と悪の問題は §2*2で id:sarasbattyさんの 利己心および自己満足という問題を扱うときに 触れたいと思います。


  〔補注1〕sarasbattyは Saraswati/Sarasvatiなら 弁才天のことなんですね。→http://en.wikipedia.org/wiki/Saraswati
弁論や芸術・芸能だけでなく 知恵と知識・学問の女神なんですね。


  〔補注2〕《理想》は 人間Zにとって 超経験Xと経験Yとをめぐって どのように とらえておくべきか。
 いま理想の具体例として 《敵を愛しなさい》と《汝 殺すなかれ》という二つの倫理的な規律でもあるものを取り上げる。
 そうすると そもそも理想は 夢とも言われる如く 現実経験の上では有り難く その点で 超経験の領域にあると考えられやすい。敵どうしも愛し合う絶対平和は そうであるかも知れない。見方を変えれば そういう場合は 実現不可能であっても 理想として掲げることによって 一歩でも近づこうとするのだと考えられる。
 したがって 《一切殺しあうことなく 敵どうしも愛し合う世界》は 超経験Xの内容を代理表現しているように考えられる。


 問題は ここからであって それは いまこのように代理表現された具体的な理想 この理想は われわれの《信じる》対象ではないということである。
 経験思考で理解される具体化された理想の像は 思念のうちに理念となり これを信念とし 道徳規律ともすることになる。さらに いわゆる共同の観念にもなっていくこの倫理規範は もしそれを信じるとしたら それは 信仰X-Zではないと言わねばならない。


 微妙なところだが 人は 代理表現である倫理規範の理想をとおして 愛である神 X を信じるのではあっても この理想の像のうちに入って 代理表現された規範を信じて 神の愛に包まれるのではない。
 否 もっと単純である。神を信じその愛に包まれるゆえに 人を・そしてそのちからが与えられるならば敵をも 愛するであろう。倫理理想を固く保ち この実行に励むという場合 それだけでは〔むろんその行為は立派なのであろうが〕 信仰と愛の有りようは まだ分からない。
 (《文字(代理表現)は殺し 霊(X)は生かす。》を 上のように解釈します。*3


  〔補注3〕上の補注2とほぼ同じことであるが 人は キリスト教を信じるのでなく キリスト・イエスの神 X や理想像とほとんど同義だから。理念や信念は あなたの精神であって それは 神ではない。
 《おお壊敗される身体で重くされ地的な多くの思念によって束縛されている魂よ。出来るなら視よ。出来るなら視よ。神(X)は真理(X)にまします(知恵の書9:15)ことを。・・・》と述べるアウグスティヌスが そのあとを継いで告げることは次のようです。

真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。それらは 私が 神は真理にましますと言った その最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。真理 と語られるとき 君がいわば雷光によって捉えられるその瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。私は尋ねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(もち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。
(三位一体論 vol.8 ch.3)

もっとも 別の考え方では 《神(X)の背面を見る》などのように語っている*4こともあるのですが。

(未完)

*1:→1コリント14:5→http://ebible.echurch-jp.com/

*2:§2そのもののページは その後作っていません。このあとの日々の日記で[愛]のカテゴリのもとに 追って尋究しています。[愛]自由意志ということ - caguirofie041013[愛]自由意志ということ など。

*3:2コリント3:6→http://ebible.echurch-jp.com/

*4:[愛]終末は分からなくて構わない。 - caguirofie040923