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哲学いろいろ

イリヒコとオホタタネコ

日本人の思想は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると思います。(紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近)。

 §1 シントウの原形またその確立
 ――《ネコ‐ヒコ》連関 あるいは《イリなる歴史知性》の誕生――

 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。ある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めたそうです。祟りという認識でしたから 祀れば 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシの記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。

 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。これは 一人の人における身体(=ネコ)と精神(=ヒコ)とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般(=ネコ)と市長および公務員(=ヒコ)とに やはり当てはめて捉えてもよいと思います。つまり 社会形態としても そのように確立し始めたと考えられます。
 つまり この《ネコ‐ヒコ》連関は 基本的に一人の人間において 《身体‐精神》の総合なる存在を表わし また かれ(かのじょ)が 社会的にも 《市民(わたくし)‐公民(おほやけ)》の両要素の連関から成る存在であると主張します。
 そしてそのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。
 崇神(いわゆる天皇としては 第十代だが)ミマキイリヒコイニヱのミコトの名にある《イリ》であり《ヒコ》のことです。そういう歴史知性であり これは 人の自然本性(=《ネコ‐ヒコ》連関)にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。市民のほうは その代表として あたかも概念として 《オホタタネコ》が当たります。

 §2 歴史知性の以前――《ヨリ》なる歴史知性=原始心性――
 
 《オホタタネコ‐ミマキイリヒコ》連関の社会の以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。アニミスムないしシャーマニスム(たとえば 卑弥呼を想え。つまり崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀のことである)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(――つまり 農耕のように 種まきから実のりまで時間の経過を人も共に生きるそのような時間的な・相対的な――)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活は そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていくと言えます。(そこでは 潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。

 §3 《イリ》歴史知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現

 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていました。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル(寄せる)》ということを行なう人間が出ました。
 すでにその原形が 卑弥呼(ヒメのミコトの ヒとミとコで 中国の史書に載ったか)のシャーマニスムでした。アニミスムの親分というような性格の心性です。しかも こんどは すでに 歴史知性に芽生えたあとの《ヨセル》です。これは すでに イリ歴史知性を その知性の能力にものを言わせて アマガケルところのスーパー歴史知性です。たぶん 観念の帝国を すでに いの一番に 思い描くのでしょう。
 神功皇后オキナガタラシヒメのときに この《ヨセ》の記事はあるのですが その後も かのじょの系譜に見られるという意味で この《ヨセ》なる超歴史知性を 広くアマテラス族と呼びます。《タラシ》でもいいはづです。アマテラスのほうが 一般性があります。正確には 崇神ミマキイリヒコも アマテラス族ですから やはり それとは区別するなら スーパーアマテラスと呼ぶといいでしょう。

 §4 《イリ歴史知性》を基礎として 《ヨリ原始心性》および《ヨセなる超歴史知性》とが 共存する

 アマテラス(天照らす)というのは その言葉どおりに もともとは ヒコ(日子)と同じであろうと考えます。人間の精神であり 理性の光であり 社会的な役割としての公民です。崇神イリヒコなるアマテラスの系譜には のちにタラシ系統(スーパーアマテラス)から出た雄略ワカタケによって 謀略に遭い殺されたイチノベノオシハのミコがいます。その双子のオホケ・ヲケは 命からがら逃げて あとで 身分を明かし名乗り出るといった歴史があります。そのあと 市長と(顕宗ヲケ=弟・仁賢オホケ=兄の順序で)なったとき 父の仇の雄略ワカタケの陵墓から ほんの少し土をけずって 復讐に代えたという逸話があります。
 つまりふつうのイリヒコ系アマテラスと ヨセ=タラシ系のスーパーアマテラスとのちがいを 見たいという主観です。

 したがってというほどに 後者の《ヨセなる超歴史知性》は けっきょく そのヒコ=アマテラスなる指導者の地位を 専門化させ 社会から単独分立し 市民政府ではなく その上に社会的な第二階を築き そこを 自分たちの住み処としてしまいました。市民たちは 国譲りをして かれらに好きなようにさせたのでした。

 §5 では 何が問題か
 
 ですから ここから オホタタネコの父親とも言われる神(霊)なるオホモノヌシは けっきょく 第二階に住むスーパーアマテラス族のための神となったかも知れません。(あるいは 三輪山に 元のまま あがめれているとも思われます)。また もともと やはり 市民たちの宮であった伊勢神宮(その前身の外宮)も かれらのための制度となりました。(この伊勢神宮については むしろ崇神ミマキイリヒコの時代の制度発足として記事があったりしますが どうでしょう)。

 このいわゆる二階建ての国家の問題は 天武オホシアマ天皇の――六七二年の乱を経ての――改革によって 一定の収拾を見ました。市民が主役であるという考えをできるだけ採り入れようとしました。(八色の姓)。国家という二階建ての形態は その後も残ったわけです。

 ちなみに すでに 崇神イリヒコのときに あたかも スーパー歴史知性による《ヨセ》としての統治ではないかと思わせる記事があります。日本の各地に《四道将軍》を派遣して 王化の徳を及ぼそうとしたと書いてあります。つまり 服属させたわけです。

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展望

諸概念・諸原則の確認
――アウグスティヌス インタスサノヲイスム(人間的友情)を語る――

 人間( homme )は 社会的動物( zoon politikon )として 市民( bourgeois )=スサノヲ( Susanowo )であるであろう。
かれは 一義的に(〔人間〕関係の絶対性として) そして第一次的に 市民社会( bürgerliche Geselleschaft )=スサノヲ圏( Susanowoschaft )に 住む。
この社会を わたしたちは やしろ( Yasiro )と呼ぼう。
やしろにおける市民の協働( communis )関係を 共同主観( sensus communis )=常識( common sense )または 主観(主体)の共同化過程とよぶ。
共同主観は インタスサノヲイスム( intersusanowoïsme )。
やしろのインタスサノヲイスムは 関係・連関・過程としての資本( capital )である。
インタスサノヲイスムは 資本連関の歴史的な動態である。
この動態的な過程は やしろ全体として 一個のスサノヲ者から独立した動きであるが これ(その事実の成立)と矛盾することなく かれのインタスサノヲイスト行為より成る。〔これこれの認識像が やしろ全体の資本連関過程だよと見せられても 一個のS者から独立した動きというのは その認識像がそれなのではない。個人から独立したやしろの歴史過程の存在とは矛盾することなく 個人のインタスサノヲイスト行為は成り立つ。そもそも上の認識像の把握と表現も 一個のS者がおこなうインタスサノヲイスム行為にほかならない〕。
インタスサノヲイストの主観共同化はスサノヲ者の持つ光(理性)によってこれをよくおこなう。
光とよぶべき理性もしくは精神の普遍者は 概念として アマテラス( amatérasu )である。(こう呼ぶ)。
精神の普遍概念の象徴は 同じく概念として アマテラシテ( amatérasité ;Amaterasität ; amaterasity )である。自由とか平等とかの概念・理念として ことばとしては 把握される。
インタスサノヲイストなる共同主観者は アマテラス者( Amatérasu )でもある。
このアマテラス者は やしろの役割(職務)として 公民( citoyen )。
スサノヲ者=市民が この公民=アマテラス者性を 有する。
主観共同化は スサノヲのアマテラス化( amatérasisation de Susanowos )または アマアガリama-agari )である。(ブッディスムでは 《出世間 lokottara 》)。
アマアガリしたスサノヲが スサノヲでなくなるわけではない。
やしろの役割分担において もっぱらのアマテラス者つまり職務としての公民となること これも 通念としては アマアガリ・出世間とよばれる。
もっぱらのアマテラス者は やしろのスサノヲ圏から 相対的に独立(もしくは 自分勝手に分立)して 自己独自の圏域を築く。社会が二階建てとなる。
アマテラス圏( Amaterastum )は 第一次的なやしろであるS圏( yasiro )に対して スーパーヤシロ( superyasiro )と捉えられる。社会の第二階である。
A圏のアマテラス者公民は 一般に社会科学主体・ヤシロロジスト( yasirologistes )である。
ここで インタスサノヲイスム(社会思想)は ヤシロロジ( yasirologie / 社会科学)を含む。(理論的普遍 普遍的理論化の点では ヤシロロジが インタスサノヲイスムの諸要因を整理して位置づけ それらを含むが やしろの資本過程(生活)の動態的な要因としては インタスサノヲイスムが ヤシロロジを含む。もしくは主導して 新しいヤシロロジを形成させてゆく。S圏が 《歴史のかまど》とよばれる〕。
やしろ( Yasiro )は 一般に S圏( yasiro )とA圏( superyasiro )より成る。(むろん はじめの命題〔(1)〜(3)〕において S圏が やしろの全体ないし基本・基体であるが この総論に対して 上の各論が成り立つ)。
一定の地域共同体(スサノヲ共同体)としてのムラ( mura )において 一個のやしろ すなわち 構成として 《S圏‐A圏の連関形態》をもつ。
一定のスサノヲ共同体としてのムラ相互の〔資本関係としての〕連関は インタムライスム( intermuraïsme )である。
インタムライスムの資本連関は くに( kuni )をつくる。
一個の《S圏‐A圏》連関から成るムラの互いに連関しあったくには それ独自の中央に位置するべきアマテラス圏をもつ場合がある。
くにとしてのやしろシステム(社会形態)も おおきく《S圏(インタムライスム)‐A圏(中央)》連関から成る。
くになる社会形態は 一般に 生物学=社会学的な一個の民族( nation )〔=言語〕の集合を その土壌としている。
くにとしての《S圏‐A圏》連関形態( kuni-ihé )は ナシオナリスムとしての《アマテラス‐スサノヲ》連関体制たりうる。
インタスサノヲイスムまたはインタムライスムとしての資本連関は くにとしてのやしろ全体に 発展しうる。
このようなやしろの資本連関は くにの枠組み( ihé-national )を超えうる。または はじめに 超えていた。
このようなやしろ資本の連関は 〔イエ・〕ナシオナリスムまたはそのA圏の主導しまた支配するところとなりうる。
〔ところで〕 スサノヲのアマテラス化の歴史には 前史と後史とが ありうる。
それらは やしろの生活の中で 光と闇 善と悪 精神と身体 昼と夜 公と私などなどの対立する二項となる要因(また領域)について どう対処するかをめぐって 具体的なインタスサノヲイスムのかたちが争われることにおいてである。特に これらの対立する二項が 互いに相容れない二元であると唱えられるとき おおきな問題となる。
言いかえると 共同主観(常識)が歴史的に変わることである。民主主義の社会に至るまでの 時代の変遷でもあった。
やしろ資本の連関が 主体的にはインタスサノヲイスムにおいて 客体的にはヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムにおいて それぞれどのようかたちを歴史過程としてとっていくかである。
資本形成の過程は 主体的にも客体的にも インタスサノヲイスムの問題であると考えた。(このとき 客体的なヤシロロジ視点に立ったやしろ過程が インタスサノヲイスト個人から独立して存在していても 上の視点に 矛盾はないと考えられた)〔(8)〕。
言いかえると やしろ資本は はじめに(原理的に) S圏(ムラ / インタムライスム)にあると価値判断された。


〔以下は 価値判断の内容をつけ加えて述べよう。〕――

くにとしてのやしろシステム すなわち広義の《アマテラス‐スサノヲ》なる二階建て連関体制は おそらく逆立しているであろう。アマテラス圏なる頭で立っているらしい。言いかえると それは 《S圏(インタムライスム連合主導)‐中央A圏(従属)》の連関制が ふつうのすがたであるだろう。
インタナシオナリスムも S圏段階でのそのような資本連関 つまり インタ・インタムライスムを――中央調整機関としてのA圏をとおして――過程させることが より一層ふさわしい。
なお 社会形態としての《A‐S》連関体制は より具体的に《A(アマテラス市民政府およびアマテラシテ元首)‐S》連関形態として捉えることができる。
このような中央A圏は インタムライスムS圏の全体的な調整・相互仲介の機関として考えられる。S者市民の代表(または代理)は S圏各ムラの中のA圏ないしA者であり 中央A圏は さらにその代理と捉えられる。(自治態勢(市町村ならびに都道府県)の段階と国家の段階とである)。
〔以下 これらにかんする神学的なヤシロロジの諸原則として。――〕
やしろが――少なくとも人間の内なるやしろが―― キリストの肢体である。
したがって――キリスト・神は愛であるから―― やしろ資本が愛である。
《この岩(ペテロ)の上にわたしの教会(やしろ)を建てる》(マタイ16:18)。
S圏やしろつまりムラが エクレシア( ecclesia = église ;自治態勢の議会)なる教会。(言葉の問題である。そういう表現を それとして 引き継ぐという意味)。
やしろ全体(S圏連合‐A圏連関形態つまり くに)が キュリアコン( kuriakon = church; 主の家)なる教会。(宗教から自由なそのような社会形態のこと。ほかの宗教組織などは 表現の自由にのっとって 大きくこのような共同自治の体制のもとに うごく。)
ペテロ(岩)は インタスサノヲイスト。
《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。また主は言われる。見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは《岩》の上に立つであろう。私はあなたを《岩》の頂上に(霊的な共同主観に)置こう。私が通り過ぎるまで 私は手であなたを蔽うであろう。(≒《かごめ かごめ》)。私が手を除けるとき あなたは私の背面(《うしろの正面》)を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう》(出エジプト記33:20−23)。――つまり これは アマアガリにかんしてである。
たとえば 《主が復活して御父の御許に昇られるその栄光(アマアガリ Ama-agari の共同主観)において主の威厳が移り行くや 直ちに真実に私たちは岩の上に堅固( sanctus )にされるのである。堅固にされる前には恐れから三度否認した(〔イエスを〕裏切った(マタイ26:70−74)〔その〕)お方を確信をもって宣べ伝えた(主観共同化の実践)のである。確かにペテロは 〔前史においても〕予定によって(神は 《恵もうと思う者を恵み あわれもうと思う者をあわれむ》(出エジプト記33:19))すでに岩の頂上に置かれていたが 主はなお御手をもってかれを蔽い 見るのを遮られたのである。ペテロは主の背面を他日 見るはずであったが 主は未だ たしかに死から生へ移り行かれず 未だ 復活によって栄光( Ama-agari )を受けていられなかったからである》(三位一体論3・17)。
《主の霊のあるところに 自由がある》(コリント後書3:17)。
《私たちは顔蔽い(このいまの神学的議論のこと。もしくは 内面エートスの《固有の法則性》のA語理論スーパースサノヲイスム または A語観念共同スーパーアマテラシスム)なくして主の栄光(本史)を鏡(やしろの経験世界としての理論像)に映すように見つつ 栄光から栄光へ(前史から後史へ 共同主観から共同主観へ) あたかも主の霊によってのように 同じ似像に変えられるであろう(《キリストに似る者とされるであろう》(ヨハネ第一処:17) インタスサノヲイストが 同時にヤシロロジストとして立っているであろう)》(コリント後書3:18)
《真理は きみたちを自由にする》(ヨハネ8:32)。
インタスサノヲイストが 岩のように堅固にされて 同時にヤシロロジストとなるのは 理論によってではなく またヤシロロジストとして自由になるのは 真理の信仰によってである。(時間的なものが永遠に関係するように 信仰が真理に関係している)。
ヤシロロジストが 〔自己あるいは理論を〕知らないことと それを思わないこととは 別である。知らなくても 実質的に思っている・だから実践していることはありうる。
前項の後者(その思うこと)は 理論家も 理論する方法主体としての自己の〔精神・愛の〕滞留をあらわすようになるといったかたちのことである。そういうことが起こりうる。
したがって 信仰が 前史から後史へ移行する自己の歴史の動態のことである。
《神は ユダヤ人だけの神でしょうか。・・・ユダヤ人も異邦人も 等しく信仰によってただしい者とされる(アマアガリせしめられる)》(ローマ書3:29−30)。
ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム。
《あなたを愛し あなたにおいて友人を あなたのために敵を愛する人はさいわいなるかな。まことに 失われることのない御者(おんもの)において万人を愛する人だけが 親しい友人を一人も失わなくてすむのです。その失われることのない御者とは われらの神(S圏やしろの資本推進力=愛)でなくてだれでしょう。・・・あなたの法は真理 真理はあなたなのです。》(告白4・9・14)。(この神を言葉によってこれですと示すことができるとは思われない。信仰にとっては 教会だとかキリストの肢体であるとかはすべて 表現の問題である。)
ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムにおける アマテラス予備軍(《顔蔽い》の制作者・仲介者)の解放。

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