caguirofie

哲学いろいろ

うやまひ

 日本語における敬語には 

  第一次のていねい語法と
  第二次の尊敬語(謙譲語をも含む)の用法

 とがあります。ていねい語法には 人と人とのあいだで善意や好意を示す気持ちやよその人びと(《まれびと》)を歓迎するという厚意を示す心つもりが込められていますから 《うやまひ》の用法つまりその意味で敬語法も含まれます。レル・ラレルは ここに含まれています。
 第二次の敬語法は おそらく当然のこととして 第一次のていねい語法から派生したものと考えられます。

 その第二次の用法が どのようにして発生したのか また第一次とどのように違うのか おもにこれについて次のわたしの回答は述べています。
 
 ( a )【Q:ほにゃらか形而左右学 敬語(2)】その回答No.9
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5771150.html
 ( b )【Q:ほにゃらか形而左右学 敬語(3)】その回答No.13
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5818729.html

 中で 第一次のていねい語法について 次のように簡単に触れました。つまり レル・ラレルの語例についてです。
 
 ☆☆〔上の( a )より〕 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよいはずです。古語では ル・ラル。
 これは 自然生成の相を表わすようです。

 日本語で《出来る》という言葉は いわゆる可能を表わしますが その可能の相というのも――《出て来る》と言っているに過ぎないのですから―― 自然生成の相であるにほかなりません。つまり自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとするものです。日本人は そのような表現のかたちを取るようになったと考えられます。

 自然生成の相かつ能力があるという相を 言語表現としてその表現に使えば 相手を敬うかたちになったという言語習慣のことです。
 見ラレルや食ベラレルは あまり使わないのですが――というのも 第二次の敬語法としての《ご覧になる》や《いただく》もしくは《めしあがる・おめしあがりになる》がそれらに取って代わったからだと考えられるのですが―― 第一次的なうやまひの気持ちを添えようとしていると見られないでしょうか。
 すなわち《見る》ことや《食べる》ことが あたかも自然に起きて来ていますねと表わしているようなのです。あなたのその行ないは そのまま自然の力のもとに起きていますねと表わして 相手にうやまひを示すかたちであるようです。

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