caguirofie

哲学いろいろ

#8

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§21――

つづいて この死の問題を介在させて 議論は どのように運ばれていくのか。
まづ重ねて確認しておこう。コミュニケーションは 死たる外部性におけるものとしては 特に考える必要が生じない。考える必要が生じるとすれば それは 生者として つまり生前の他者としてである。死においては孤独が打ち破られ もはやわれわれは生きていない。解除としてなら そこでは孤独が絶対的に解除されてしまっている。しかももし死者がその生前の姿を通して 想像上なんらかの他者関係に参加してくるとするなら 孤独は何も特別 解除される必要はない。あたかも想像裡における生者として 孤独関係の相手方となり あたかもコミュニケーション過程に入ればよい。

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