caguirofie

哲学いろいろ

#73

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第一節b 理論としてのキリスト史観は つねに工事中である

これは 傍論ふうに議論するなら いわゆる《我れ考うゆえに我れあり》と言って そのような一つの存在の根拠をうたう《我れ考う(コギト)》が 人間の・わたしの《知解行為》であると考えられた結果を表わしていると思われる。知解行為だけに焦点をあてた結果からだと。しかし コギトは まづ《わたしが考える》のであり――ただ知識を問う問題ではないのであり―― 全体として言って 《記憶‐知解‐愛》の三行為能力として存在して生きている原主観のことを言っているのであり この原主観が 真の存在の根拠であるとわたしたちが言う神なる三位一体の似像であって 人間的な次元ではこれが 一つの根拠となっているそのことを言おうとしたものなのである。

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