caguirofie

哲学いろいろ

#6

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

δ‐2

次にふたたび 大岡のあとを継いで 新しい文章をここに登場させ それについて触れこの章は終わることにしたい。
それは 大岡が 情感の中から感性において一つの立脚点を見出したとするなら それに対して 《心理・身体的見地からいえば 私には性的経験が乏しかった。・・・そういうことに興味がなかったからではなく 無精であったからだろう》などという加藤周一のばあいである。
かれは 自ら《私は〈経験〉をもたず いくつかの〈観念〉をもって 戦後の社会へ出発しようとしていた》というが ただし この《観念》が 必ずしも 西欧人のばあいの《意識》にそのまま重なるというのでもなく やはり日本人としての情感という精神の中の《観念》的領域であるようには思われる。まずこのことは次のような文章によく表わされている。その点から入りたい。

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