川端康成《お信地蔵》
- 作者: 川端康成
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1971/03/17
- メディア: 文庫
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山の温泉宿の裏庭に大きい栗の木がある。お信地蔵はその栗の木の蔭にある。
名勝案内記によると お信は明治五年に六十三で死んだのださうだ。二十四の時 亭主に先立たれてから一生後家を立て通したといふ。つまり 村の若者といふ若者を一人漏らさず近づけたのである。お信は山の若者たちを一切平等に受入れた。若者たちはお互ひの間に秩序を立ててお信を分ち合つた。少年が一定の年齢に達すると村の若者たちからお信の共有者の仲間に入れてもらった。若者が女房を持つとその仲間から退かせられた。かういふお信のお蔭で 山の若者は七里の峠を越えて港の女に通ふことなく 山の乙女は純潔であり 山の妻は貞潔だつた。この谷間のすべての男が谷川の釣橋を渡つて自分の村に入るやうに この村のすべての男はお信を踏んで大人になつたのだつた。
この伝説を彼は美しいと思つた。お信にあこがれを感じた。しかし お信地蔵はお信の面影を伝へてはゐない。目鼻もあるかないかの坊主頭だ。墓場にでも倒れてゐた古地蔵を誰かが拾つて来たものかもしれない。
栗の木の向うはあいまい宿*1である。そこと温泉宿とを忍び歩く浴客は栗の木蔭を通る時に お信の坊主頭をつるりと撫でて行く。
夏 或る日三四人の客が集まつて氷水を取つた。彼は一口飲むとぷつと吐き出して眉をひそめた。
「いけませんですか。」と宿の女中が言つた。
彼は栗の木の向うを指さした。
「あの家から取つたんだらう。」
「はい。」
「あすこの女がかいたんだらう。きたないぢゃないか。」
「あんなことを。でも おかみさんがかいてくれましたんです。私が取りに行つて見て居りました。」
「しかしコップや匙は女が洗ふんだらう。」
彼はコップを捨てるやうに置いて唾を吐いた。
滝を見に行つた帰りに彼は乗合馬車を呼び止めた。乗ると同時に彼は堅くなつた。珍しく綺麗な娘が乗つてゐる。この娘を見れば見る程彼は女を感じた。色町のなま温かい欲情が三つ児の時からこの娘の体にしみ込んで肌を濡らしてゐたにちがひない。円円しい全身のどこにも力点といふものがない。足の裏にも厚い皮がない。黒い眼がぽつりと開いた平たい顔は疲れを知らない新鮮な放心を示してゐる。頬の色を見ただけで足の色が分るやうな滑かな皮膚は素足で踏みつぶしたい気持を起させる。彼女は良心のない柔かい寝床である。この女は男の習俗的な良心を忘れさせるために生れたのだらう。
彼は娘の膝頭で温まりながら眼をそらして谷間に浮かんだ遠い富士を見た。それから娘を見た。富士を見た。娘を見た。そして 久しぶりに色情といふものの美しさを感じた。
「この女こそは何人の男に会っても疲れも荒みもしないだらう。この生れながらの売笑婦こそは世の多くの売笑婦のやうに眼や肌の色が荒れたり 首や胸や腰の形が変つたりはしないだらう。」
彼は聖なる者を見出した喜びで涙ぐんだ。お信の面影を見たと思つた。
秋 狩猟季節が始まるのを待ちかねて 彼は再びこの山へ来た。
宿の者が裏庭に出てゐた。板場の男が棒切れを栗の梢に投げた。色づいた栗の毬(いが)が落ちた。女たちが拾つて皮を剥いた。
「よし 腕試しに一発。」
彼は猟銃をサックから取出して梢に狙ひを定めた。谷の木に先立つて毬栗が降つた。女たちは喊声(かんせい)を上げた。温泉宿の猟犬が銃声を聞いて躍り出した。
彼はふと栗の木の向うを見た。あの娘が歩いて来る。肌理は細かく美しいが青白く沈んだ肌で歩いて来る。彼は傍の女中を顧みた。
「あの人病気でずつと寝て居りましたんです。」
彼は色情といふものに対して痛ましい幻滅を感じた。何物かを憤りながら引金を引いた。山の秋を突破る音。毬栗の雨。
猟犬は獲物に走り寄ると おどけて一声吠えながら首を落して前足を伸ばした。前足で毬を軽くとんとんと蹴つてもう一吠えおどけた。青白い娘が言つた。
「あら。犬にだつて毬は痛いんですわ。」
女たちがどつと笑つた。彼は秋の空の高さを感じた。もう一発。
褐色の秋の雨の一滴 毬栗がお信地蔵の坊主頭の真上に落ちた。栗の実が飛び散つた。女たちはくづれるやうに笑つた どつと喊声を上げた。
- この売笑ということに関しては わたくしは 何も言えない。
- 退きもしないけれど そちらの方へ前に出ることもない。
- けれども 主人公のごとく 時にその中に 《お信》の系譜と言ってのように 《聖なる者を見出した》というふうな感覚も表現も 持たないと思う。
- では どうなのか。無記と言いたいところだが そのような表現は逃避になるかも知れない。
- では どうか。
- お信をめぐる若者たちの間で 平等性が崩れ 秩序が乱れるといった事態を考えた場合 それは 《人間的》だと わたしは感じるように思われる。
- だが これも ためにする議論なのかも知れない。機械的にさえ映る平等 鉄壁の秩序 これに対する違和感ゆえに わざと そんな想定をしようとしているのかも知れない。
- ということは この物語については コメント無しというのが わたくしの積極的なコメントになるのだろうか。
作品という見方を交えて捉えよう。
さすが《小説の神さま》との定評のとおり 物語りが引き締まって完成されていると思った。
作者の眼の役割を担う主人公のような《彼》は 登場の仕方が――実際 いきなり出て来ていて―― 腑に落ちない感じを持つが 全体として見て なんら問題はないと合点する構成になっている。
*1:brothel