caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§15b

ホンネから分離されたタテマエ つまり足場

胸や肉から分離された骨格つまり骸骨 というよりも それですらなく 人体ぜんたいの模型 これが そらぞらしい主観のことだと考えられます。
しかも このとき 足場――つまり模型――は 奇妙にも ホンネだけでもタテマエだけでもなく それらの全体を 暗示しうる。
主観と主観とのコミュニケーションには それとして 一定の場が出来ています。関係でもあります。そして あいさつを交わしてこれを始めるように この関係の場には たしかに このあいさつに当たるような足場も見られるのかも知れない。そういう取っ掛かりも あるでしょう。天気がどうのこうのと交わしあうのは それかも知れない。しかも コミュニケーションのそのような導入と そして コミュニケーション本体とが 別であることは どうということもないわけで 問題は 導入部と 本体の外に提示される模型とが べつであることになる。取っ掛かりとしての足場と 模型としての足場とは 別であります。
全体模型としての足場が ここでの問題になります。

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「なぜ自殺してはいけないのか」を、「なぜ人を殺してはいけないのか」でも使える説明“以外”で説明してください。(例:「家族・友人が悲しむ」「社会が成立しなくなる」などは、ナシとします)説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。

さらに続いている。
直接の回答ではないかも知れないけれど・・・。

人間は社会的な存在であって 個人としての自由意志とその発現(意思表示と行動)とは あくまで人間関係の中で・特に信頼関係の中で 現実となり 意味を持ってくるようになります。その意味や存在の重さは 人それぞれの一生を通じて・従って結局その全体を捉えて 評価されるのだと考えます。
 このとき問題は 他殺・自殺あるいは事故死など寿命を全うしなかった場合に どう評価するかになると思います。もし一生が中断されたと見るなら 評価は中途半端になると思われます。
 言い換えると その人と周囲の人々との間の 互いの関係が 半端なものに終わってしまう。この事態を 自殺によって意図的にもたらしたとするなら それは 親しい人に対しても・ひいては社会一般の人々に対しても 失礼なのではないでしょうか。付き合うにあたいしない・信頼するに値しないと 勝手に(人生の途中で) 一方的に見なしてしまうことになりますから。
 茶化した言い方をしますが もし自殺を選ぶ場合は よほど人を納得させる理由を発表することが 最低限のエチケットになるのではないでしょうか。