caguirofie

哲学いろいろ

文体――第二章 ウェーバー

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2004-12-15 - caguirofie041215よりのつづきです。)

第二章 紡ぎ手ウェーバー

M.ウェーバーにもう一章をあてたいと思う。
ウェーバーは 社会科学の方法として議論しているのだから――もしくは 社会科学的な議論の客観性の問題として 議論しているのだから―― わたしたちが 文体の問題として議論しているその場へ かれの言説を持ち出しても それは 不適当ではないか。
けれども ウェーバーが次のように同じ著書で言うとき その懸念は当たらない。

我々は 諸生活現象(生きること)をその文化意義(つまり よりよく生きること)において認識しようとする学問を(――つまり 話し合いの学問的な研究を――) 《文化科学》と名づけた。・・・ところが或る文化現象の形成(つまりおのおのの文体の確立)の意義やこの意義の根拠は どれほど完全な法則概念(客観性)の体系からでも引き出され 基礎づけられ 理解され得るものではない というのは それは文化現象の価値理念(よりよくということ)への関係を前提しているからである。
ウェーバー:社会科学方法論 p.51)

ウェーバーにとっても 科学という基礎を扱いつつ 文体が 自己の価値として 大前提をなしていると言っていい。

信念(主観の文化意義)無きことと 科学的《客観性》とは なんら内的縁由をもっていない。
(同上 p.26)

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