caguirofie

哲学いろいろ

     《甘え》とべらぼう話

もくじ→2005-03-13 - caguirofie050313
もくじ→2005-02-06 - caguirofie050206(ヘイ!ポーラ)

甘やかす〜左のほほをも

《甘え》には 病的な・負のそれだけではなく 健全な甘えがあるという。そのとき《甘やかす》にも すでに相手からの負の甘えを先取りして これを予防するため 自らが相手に同一化する(つまり甘える)ことがあるという。
よく あるいは いくらか 似ていることに パウロの《自由な者だが すべての人に対して 奴隷となった。すべての人を得るためだ》という行動方針があった*1。さらに 考えるに 《もし だれかが 右の頬を殴るなら 左の頬をも向けてやりなさい》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書5:38−42)もある。
これは むしろ抵抗しているのだ*2。《だれかが 千歩行くように強要するなら いっしょに二千歩行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない》と説明がつづくように ある種の仕方で 負の甘えの先取りとして こちらから 甘えている。もしくは 相手を甘やかしているのだと考えられる。
甘えは 健全なものならば 人に 自己〔同一性〕の回復を得させる。自己への到来を可能にする。自己還帰した人は もはや 負の甘えを求めることもない。負の甘えを求めるというのは 甘えられないので 甘えてくることを言う。健全な甘えによって満たされていないので これを 欲する行為である。

べらぼう話の上塗り

ちなみに わたしは ポーラに対して 左のほほをも向けてやった。奴隷のようになった。つまり 甘やかした。飽くまで 甘やかした。つい最近まで ポーラは 飽きなかった。