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哲学いろいろ

《なさけ》という言葉

《なさけ》は 一筋縄では捉えがたい・したがって 扱いにくい言葉だと思われます。

▲ (大野晋:なさけ(情)) ~~~~~~~~~~~~~~
1. 「ようぶってくだはりました。わて はじめてなさけのこもった痛みを知りました。すんまへん」などと使われたなさけは真情ということだろう。

2. 「悪女の深なさけ」というのも 相手に執着して愛情が深く 離れていかないことをいう。

3、 なさけは男女の間のことにも使う。西鶴の『好色一代女』には 「なさけ目づかい」という言葉がある。

    なさけ目づかひとて 近づきにもあらぬ人の辻立ちにも
    見かへりて

という。向こうからくる男を避けもせず 町角に立っている男にも秋波をおくる。その女の色目づかいを「なさけ目づかい」といっている。

 



4. こうした使い方は もっと古く平安時代の漢文訓読の中にもある。「人 木石にあらざれば 皆なさけあり」とは 人間は木や石ではないのだから 誰でも感情を持つの意で ここにいう情けは胸のうちに働く人間的感情の意味であり みづから光をはなつ真情ということである。
・・・

5. 〔真情という意味だけでは解釈のつかない語例〕
たとえば「武士のなさけ」とか「そっとしておいてやるのが男のなさけ」などと言う場合・・・。弱点をつかれ 追い込まれている相手 逃げられずに窮している相手に対して それを見くだす位置にいる者が その窮状を思いやる気持ち その色合いがなさけには含まれている。

6. ジャングルの中で いつも恩を着せられている兵士が 上級の兵士を実力でやっつけ 「もうおなさけは沢山だ!」と叫ぶ(『野火』大岡昇平)。
こうしたなさけは上から下へのおめぐみ 慈悲である。

7. 形ばかりのおめぐみは「おなさけです どうか助けて下さい」と懇願するときにも使われるが こうした「形ばかりの相手への思いやり」という意味の例は 古い時代にさかのぼると意外に大きく現われてくる。

8. 『源氏物語』には なさけという言葉は百回以上も使われている。しかしこれは 肉親の間の愛情を示すには一度も使われていない。

9. そして 葵の上とか六条御息所 あるいは紫の上と明石の上というような第一夫人と夫の愛人との間で なさけを見せるとか なさけを交わすとかの形で使われた。親子 兄弟の間では使われず 第一夫人と愛人とが仲よく付き合うことをいう場合に なさけという言葉が使われる。

10. ・・・第一夫人とその〔夫の〕愛人・・・その二人は当然心の底に生物的な憎しみと嫌悪を抱き合っている。それを抑えて 互いにうわべの思いやりを見せあう。そうしたうわべの思いやりすら交わすことのできない女たちの中で 紫の上と明石の上とが こころよげに付き合いをする。それが立派だと『源氏物語』ではしきりにほめる。

11. つまり なさけは そうした心からの情愛ではない よそからの心づかいを示す何かである。だから『源氏物語』に こんな一節がある。

  男はさしもおぼさぬ事をだになさけのためにはよく言ひつづけたまふ
                          (源氏・賢木)
  〔男はたいして愛情などを感じていないことについてですら なさけの
  ためには あれこれ言葉をつくすものだ〕。

12. つまりなさけとは はたから見た目に分かる心づかいの形 かっこ
うである。相手の女に向かって 私はあなたに心をつかっていると形に見せ
るためならば 男はいろいろと言葉を使うというのが紫式部の観察であった。
そして 紫の上と明石の上との付き合いを なさけだと紫式部は把えたので
ある。


13. こうして なさけについては 「うはべの」「うはべばかりの」
「見る目の」などと 表面に見えるものとされている例は少なくない。鎌倉
時代の『宇治拾遺物語』に「なさけは交はしながら 心をばゆるさず つれ
なくて はしたなからぬほどにいらへつつつ(応答̪̪シナガラ)」とある。




14. ナサケを分析してみよう。なさけとは 「なさ」と「け」とに分解
できる。塚は「築(つ)く」という動詞の名詞形。縄(なは)は「なふ」と
いう動詞の名詞形であるように 「なさ」とは 「為(な)す」という動詞
の古い時代の名詞形とみられる。

 ☆ 未然形は 不定法= to 不定詞 として 名詞形であり得る。

15. そして 「け」とは 嬉しげ 悲しげ 清げ 寒げなどのゲの古形
で 他所(よそ)からみた様子 形という意味である。

16. 「なす」とはつとめてする 作り出すという意味だから なさけと
は 「つとめて作り出す形」というのが 最も古い意味と考えられる。


17. つまり いやな相手に対しても つとめて 形だけでも作って心を
示す態度 それがなさけの最も古い意味と考えられる。・・・


18. しかし漢字「情」の意味は「忄(こころ)」と「青(キラキラ光る
もの)」との複合で 人間の真情ということである。

19. だから 「情」は本来なさけとはかなりちがった意味の字だった。
しかし日本語のなさけにあたる適切な漢字がなかった結果 日本人は「情」
をなさけと読み またなさけを「情」と書いた。

20. ところが使ううちになさけが漢文によく現われる「情」の本来の
意味にひかれるようになり 真情 情愛の意味に使われだした。・・・

21. だから人と人との付き合いや 相手を求める人間に必要なものは
ナサケだとする人は ナサケを真情の意味にとっているのだろう。しかし
ナサケは もと 相手に対してつとめてする愛情のそぶりだった。

22. とすれば その そぶりだけでも必要であるということになるの
だろうか。


大野晋:『日本語の水脈』 1993  Ⅰ くむ 第三項目)