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残念! それでも世界は「村上春樹」が大好きだ
東洋経済オンライン 10月13日(木)20時15分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161013-00140283-toyo-soci
ジェイ・ルービン:
宗教は往々にして人生の意味を教条的に主張し、客観的な証明もないのに
その意味を押し付けています。ですから信徒たちは説明できない神秘性に
意識的にまたは無意識に出会わなければなりません。そしてこの「神秘性」
は、どの宗教にも存在します。村上さんの作品は、この世界を圧倒する「神秘性」という名の不可解をそ
のまま受け入れているのです。作品に死や悲しみが存在したとしても、積極的な人生に対する姿勢を作品
を通じて読者に委ねる――新しい経験、知識、そして愛――読者が村上作
品から得るのは正に、「生への希望」なのだと思います。
bragelone
《世界を圧倒する〈神秘性〉という名の不可解》を 村上はあつかってい
るとみとめましょう。
それは しかしながら 『国境の南 太陽の西』までです。そこでは確か
にその神秘性なる龍をあたかも退治したかのように その答えをも見出し
ている。
それは 日から日へおのが生活を送り行くふつうの自然の姿であり その
ことが家庭生活という場にたどりついたことで描かれている。きわめて単
純であるが そのように読める。
もっともその作品のあとにも 同じようなおもむきの長編作品をものして
いるところを見ると そのいまの結論としての《答え》では 作者の中で
は なかったのかも知れない。
だから その《不可解なる神秘性》の問い求めが なおつづく。
『ねじまき鳥クロニクル』三部作にまでつづく。
ところが このクロニクルの第三部では――わたしに思われるのだが――
もうその問い求めは その最後の最後のところで 放棄されている。
意味のないストーリをこしらえて その〔主人公とその失踪した妻をめぐ
る〕物語を無理に片づけている。
あとは エンタテインメントに徹している。初めから その特徴もあった。
そしてその側面のみに成った。
◆ 読者が村上作品から得るのは正に、「生への希望」なのだと思います。
☆ この見解が もしエンタテインメント――日から日への生活をすでにの
っぺらぼうとして見る姿勢に慣れてしまったところへ娯楽を採り入れること
――だけではないとすれば 少しでも好意的に見ようと思えば こうである。
つまり 人びとは 現代社会にあって 神秘と言わず現実世界に繰り広げら
れるまさに現実的――政治的・経済的あるいは人間関係的――《不可解》を
前にして・またまさにその世界の真っただ中にあって その不可解を受け留
め そうすると モヤモヤ世界があたまの中に広がるが そのモヤモヤ・ワ
ールドでよいから そのまま進んで行きなさい・・・という答えを用意して
いる。とは言える。
これだけだ。