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哲学いろいろ

【Q:世襲身分制から出来てきた敬語たちよ くたばれ。】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9445314.html


§  例証をこころみます。


(な) ○ めし(召し・飯 ← 見し)

 
この《見し》という起源について考えます。


(に) 文献例と辞書の説明
▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=
《お治めになろうと》
▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧に
なると》


◆ (大野晋・古語辞典) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買
  うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


(ぬ)  シは スルという動詞。メは ミの母音交替形。
見(め)スというのは 見ナサルというように 能動性をつけ加えている
わけのようです。能動的・積極的な行動は 相手に敬意を表していると見
なされたゆえなのでしょう。


(ね) つまり 〔辞典の〕(1)《ご覧になる》の意が現われます。
あらためて言えば 《見る》という動作について能動性あるいは主体性を
わざわざ言い表わすことで 尊敬の意を添えています。


(の) 言葉そのものに 表敬の意味合いはないと言うべきでしょう。
言葉に《色》はついていない。






(は) つぎに この(1)の《見ナサル》ゆえ そのものを《身近に寄
せる》ということが起こります。
その捉え方によって (2)から(6)までの意味の発生があったと見ら
れます。


(ひ) (7)は 《身近に寄せた》あとの動作について しかもそのも
のごとに直接に触れず遠回しに言うもののようです。


(ふ) 直接にその動作つまり《食べる》などなどとは言っていない。ほ
のめかして言うことによって尊敬の念が出ると考えたわけでしょう。


(へ) 別様の解釈をここで挟むなら 高貴な人は自分に仕える者を《呼
び寄せ》 その者らに自分のそのような《飲む・食う・着る》などの動作
を《見(め)す=見せる》と表わしている。


(ほ) 《ほのめかし》が 表敬になる:
ひとに対して 《誰々様》と言って敬意を表わすのは 《さま》つまり
《そういう状態ないし雰囲気ないし情況》が見てとれますが おそらくそ
の雰囲気の主はあなたさまであろうと思いますと言っている。《殿》は 
場で〔ほのめかして〕言っている。 




(ま) ここで 別の解釈をします。
シを 使役の意に採る場合です。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。
すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。すでに触
れてもいましたが このようにも 解釈できます。
ただし モノを取り寄せるという用例(5)では 合いません。おそらく 
この使役の語法は 第二次の派生であろうとも考えられます。


(み) 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづか
らの姿を見セル。召し使い(《召し=身近に寄せる》)は そばにまで行
かなくては食事を運び得ません。高貴な人は 自分では衣服の着替えもし
なかったようです。
ゆえに 《めし(召し⇒飯)・召しあがる(食べる)・お召し物(衣服)》
という意味が派生したようなのです。



(む) メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞であるこのシをと
おして 第一次と第二次の用法が見られます。
第二次の用法は 《上下の身分関係》にもとづく尊敬語法となるでしょう。
表面的でもあります。


(め) 第一次の用法は では 人びとの生活から ふつうに・自生的に 
起こったか。言いかえると 《ていねいなウヤマヒ語法》であったか。



(も) レル・ラレルという敬語法を見てみるとよいはずです。古語では 
ル・ラル。これは 自然生成の相を表わすようです。


(や) 《出来る》という可能の相も――《出て来る》と言っているに過
ぎないのですから―― 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうと
するものです。


(い=射) 能動性・積極性が 表敬の表現になることもあれば ぎゃく
に自然生成性やむしろ受動性のほうが 表敬にふさわしいと考えられた側
面もあるようです。


(ゆ) 自然生成かつ能力があるという相(レル・ラレル)を その動作
を表わす語に添えて使えば 相手を敬うかたちになりました。


(え=江) 見ラレルや食ベラレルは あまり使わないようですが 第一
次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいないでしょうか。この語法
にかんしては 身分関係にかかわらず 人と人との互いのうやまいの気持
ちをつうじておのづから発生したのではないだろうか?
 



(よ)結論:
自然に生成した第一次の《ウヤマヒ・ていねいな言葉遣い》としての敬語
は ひとは《すすんで使っている》と考えられます。
社会的な身分関係から発生した尊敬語ならびに謙譲語は 起源から言って・
奥の奥の意図から言って ひとは《使わされている》。


(ら) おまけ:
その昔 太平洋の島々の人びとの間では いわゆる酋長と呼ばれた指導者
は偉い人であるから ふつうの人が直(ぢか)に見ると 目がつぶれると
言われていたし 信じられて(思いこまれて)いました。つまりこの風習
と 《めし(見し)→召し》という言葉の発生とは 軌を一にしていると
考えられます。
ふだんは 一般の人びとがえらい人を見ることは出来ないということです。


(り) このメシが 《飯》として使われるようになったのは――つまり
一般に柄のわるさがついてまわる(=つまりは 言葉に《色》がつく)と
いうような語法に変化したのは―― その敬語法が もともと必ずしも自
然でふつうのものではなく 社会力学上の第二次・人為的な発生であった
ことを物語るのではないであろうか。《貴様》という語法の変遷も同じよ
うな成り行きだったと思われます。
( Da Capo )
☆ つまり・かくして 表題の問い(叫び)へ行き着きます。いかに?