caguirofie

哲学いろいろ

・・・・・・・

【Q:八方美人(または縁側の哲学)とぶっきらぼう

No.30ベストアンサー

回答者: ★

こんばんは、☆さん。


寺山修司に『半分愛して』という詩があります。不正確ですが、このような詩でした


「半分愛してください 
 
 残りの半分で 黙って 海を見ていたいのです

 半分愛してください

 残りの半分で 人生について考えてみたいのです』


孤独でありながら、それを「快適な」、「居心地の良い」孤独にさせる交流。それが「縁側」の表象かと思います。


ヤマアラシのジレンマ』はご存知だと思います。

寒い冬、二匹のヤマアラシが暖め合おうとくっついたのですが、お互いの針が痛くてくっついていられない。
でも離れてしまうとまた寒さにやられてしまう。二匹のヤマアラシはそれで、寒くなく、痛くない互いの適度な距離を測りつつ、
接近してゆく、という話です。


人間存在は互いにこのヤマアラシだと言えるだろうと思っています。誰しも100%理解し合うことは不可能だし、互いの存在を100%認め合うことも困難でしょう。それは親子の間でも同じことが言えると思います。完全な密着が可能なのは、片方が全くの無防備である場合、それは「自我」の形成以前の段階のみではないか・・・


それでも、互いに「理解できない」という哀しみを持ちつつ、つながるという可能性を模索する」ことは意味のあることだと思うのです。


先に提出した、「抱擁」はいかにして可能か?ということについて、「孤独同士の抱擁」というと、撞着語法になりますが、
二匹のヤマアラシといい、「同居」ではない「並んだ庵」などといいながらも、なんとかもう少し、可能な限り他者との距離を縮めたいという気持ちはあります。(無論それは「他者一般」ではなく、「わたしにとって」の特定の「誰それ」との距離のことです)


人間を隔ててるものは、「恥」shyness というよりも、「相手の懐に入り込むほど」なにやらウソ寒い空隙を感じてしまうという気持ちのような気がしています。

この回答へのお礼

(あ) 縁側の哲学――しかもその実践――を問い求めるのは むしろぶっきら
ぼう哲学がみづからの道をあゆむ上で必然的に実践的に必要とするから。
・・・であるかも分かりません。


★さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


《甘え》の主題を持ち出して来た意図がどこにあったか。その考えが何だったか
今朝目覚めてこの懸案を反芻するまで我れながら分かっていませんでした。


しかも (あ)の思いのあと なおぶっきらぼう哲学はみづからが要請した縁側
の哲学を 打ち解けた遠慮の世界へとみちびこうとしています。


まづ (あ)の実態は おっしゃるような《やまあらしのヂレンマ》とよく似た
ぶっきらぼうのヂレンマ》を表わしているかも知れません。そのあと しかし
ながら ぶっきらぼう精神はなおもしぶとく生き続けます。


(い) ぶっきらぼう哲学は 縁側の哲学をむしろ自己の道が安全で開放された
自由さをそなえているという証拠として要請したのだ。


(う) 縁側の哲学は ぶっきらぼう哲学の道草( école buissonnière )であ
る。この藪( buisson )から抜け出てぶっきらぼう精神という学校( école )
へはやがて向かうことになる。


(え) ぶっきらぼう精神は 縁側の哲学における孤独どうしの互いにふさわし
い遠慮という作法を――よき慎み深さを保ちつつ――もっと打ち解けた遠慮へと
なおも解きほぐそうとしている。


(お) 縁側という隔てを置きつつ・短慮を慎みつつ 遠慮を溶解させようとし
ている。


(か) 孤独どうしの互いにあたかも鏡を見ているような対面についてその対称
性にやぶれをもたらそうとしている。


(き) それは 対称性のやぶれを起こすユラギとしての精神そのものが むし
ろ個性あるいは個別性をおもんじるゆえである。これが ぶっきらぼう哲学の真
骨頂である。


(く) 対称性のやぶれのあと見えてくるのは
★ 「相手の懐に入り込むほど」なにやらウソ寒い空隙を感じてしまうという気
持ち
☆ である。しかもこの空隙の世界に人はあそぶ。この《空っぽ(シューニャタ
ー)》こそが 人間とその世界であると。


(け) この空っぽ――無常? ゆえに自由?――を埋めようとしあたためよう
とするのが 思いやりに満ちて用心深い縁側の哲学である。

No.31

回答者: ★

こんにちは。


30への「お礼」に関して述べられていることに、ほぼ同感です。


最終的な孤独=自由を保ちつつ、同時に可能な限り距離を縮めてゆくという方向性だと思います。


>(き) それは 対称性のやぶれを起こすユラギとしての精神そのものが むしろ個性あるいは個別性をおもんじるゆえである。これが ぶっきらぼう哲学の真骨頂である。


なるほど。その通りかもしれません。


>(く) 対称性のやぶれのあと見えてくるのは
★ 「相手の懐に入り込むほど」なにやらウソ寒い空隙を感じてしまうという気持ち
☆ である。しかもこの空隙の世界に人はあそぶ。この《空っぽ(シューニャター)》こそが 人間とその世界であると。


>(け) この空っぽ――無常? ゆえに自由?――を埋めようとしあたためようとするのが 思いやりに満ちて用心深い縁側の哲学である。


かなり深いところまで落ちてきましたね。


この質問は、わたしに向けられた問いかけではなく、広く意見を求めているものですけれど、
ここに至って、「★★的哲学」めいて来ましたね。


最後の(く)で、しかもこの空隙の世界に人はあそぶ。この《空っぽ(シューニャター)》こそが 人間とその世界であると。
はなんとなく「知的」には理解しても、空漠とした気持ち、「未だ結合し得ていない不全感」を残します。


が、目指すところが(け)のようなものなら、十分に納得できるものになりそうです。


この時点でのまとめについてはとても見事だと思いました。

この回答へのお礼

(く)と(け)との兼ね合いですね!
理論の極北と血の気との。


ご回答をありがとうございます。


そうですか。
★ ここに至って、「★★的哲学」めいて来ましたね。
☆ そりゃあそうでしょう。これだけ絡みを経て来たのですから。
《パクリ》でなきゃいいのですが。


★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最後の(く)で、


しかもこの空隙の世界に人はあそぶ。この《空っぽ(シューニャター)》
こそが 人間とその世界であると。


はなんとなく「知的」には理解しても、空漠とした気持ち、「未だ結合し
得ていない不全感」を残します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《なにやらウソ寒い空隙》を精神の胃袋で飲み込みましたから。とや
はり他人(ひと)の所為にするわたし。


(き)は 確かに《ぶっきらぼう》をつらぬいているということは 個性
や個別性を重んじていることに違いないんですよ。或る種の美学です。


そしてそのやり方は 《遠回し》という概念から最も遠いところのそれな
んです。


この時点では――けっこう頭をこねくりまわしましたから―― おあとが
よろしいようで・・・と行きたいところです。しばらくは。