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哲学いろいろ

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▲ (ヱーバー) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。

 無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。
 彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。
 〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。
 自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。

 政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。
 (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99−100)
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 ▼ (ヱーバー:職業としての政治) 〜〜〜〜
 たしかに 政治は頭脳でおこなわれるが 頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。

  ☆(ぶらじゅろんぬ註。以下同様です) そんなことは 当たり前なの
   だから そもそも初めにふたつの理念型に分けたことが ボタンの掛
   け違いなのだ。

 しかし心情倫理家として行為すべきか それとも責任倫理家として行為すべきか またどんな場合にもどちらを選ぶべきかについては 誰に対しても指図がましいことは言えない。

  ☆ 二つの倫理は 理念型としてであっても 互いに対等な二項対立と 
   としての概念ではないと知るべきである。したがって その前提を破
   って議論することには 意味がないと言わねばならない。

 ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に――諸君はこの興奮を《不毛》な興奮ではないと感じておられるようだが いづれにしても興奮は真の情熱ではない 少なくとも真の情熱とは限らない――突然 心情倫理家が輩出して 《愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き 彼らの愚かさ 卑俗さを根絶するであろう》という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合 私ははっきりと申し上げる。

  ――まづもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題
   にするね。そしてこれに対する私の印象はといえば まづ相手の十中
   八九までは 自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感
   動に酔いしれた法螺吹きというところだ と。

 人間的に見て 私はこんなものにはあまり興味がないし またおよそ感動しない。これに反して 結果に対するこの責任を痛切に感じ 責任倫理に従って行動する 成熟した人間――老若を問わない――がある地点まで来て 《私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる》(=ルッターの言葉)と言うなら 測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。

 なぜなら精神的に死んでいないかぎり われわれ誰しも いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく むしろ両々相俟って《政治への天職》をもちうる真の人間をつくり出すのである。
  (脇 圭平訳書 pp.102−103)
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▼ p.105-106
政治とは 情熱と判断力の二つを 駆使しながら 堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。
もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは およそ可能なことの達成も覚束ないというのは まったく正しく あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく ――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも 人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと いま 可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて 現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなに愚かであり卑俗であっても断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても《それにもかからず(デンノッホ)!》と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への《天職(ベルーフ)》を持つ。(pp.105-106  書物の最終節)

▼ (ヱーバー:職業としての政治) 〜〜〜
 国家も 歴史的にそれに先行する政治団体も 正当な(レギティーム; 正当なものとみなされている という意味だが)暴力行為という手段に支えられた 人間の人間に対する支配関係である。
 だから 国家が存続するためには 被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段とに支えられているのか。
 ・・・
 (脇圭平訳 pp.10-11)
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