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哲学いろいろ

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宗教学から読み解く、米大統領選の3つの疑問 (映像解説)

国際基督教大学 森本あんり教授(神学宗教学)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97981290T00C16A3000000/?dg=1

bragelone

ううーん。もう一度ううーん。

つまりもしそうだとしたら アメリカ人は 単細胞だと言っていることになる。
よく言えたと言うか そこまで言ってだいじょうぶなの? とならないか。

負け組または なかなか成功しない組が 対抗馬に託すのは 一般的だと思わ
れます。
つまり 神学的な背景がある無しに関係ない部分が大きくはないか?

選挙運動が熱狂的でお祭り騒ぎになるというのも 必ずしも神学的な背景とは
かかわらない部分があるように思われる。
つまり 日本では 選挙でそうはならなくても―― SEALDs というくだらない
運動が現われていますが―― お祭り騒ぎはと言いますか 文字通りお祭りは
各地でおこないますから。

そして 経済的成功は 神の祝福を得ているという議論――理論?――につい
ては?

そのこと自体にけちをつける気はありません。

でも あれっ? と思うことが ふたつあります。

このあいだ議論になったように 成功は 経済的な事業の問題にかんするかぎ
り 個別に個人個人が その主体なのだとみる見方。これが どうもよく分か
りません。

言いかえると 成功は それをひとつの事業において共に協働してみちびいた
人たちのことを どうして考えないのか? これです。

もう一点は カルワンの予定救済説です。
救済は決まっているが 人間には分からない・知りようがない。だから その
決定〔が 自分についてどうなっているのか〕には気を揉むことなく 神に仕
え仕事に励むことだ。成功には 神の祝福が待っている。

これですが 反駁します。:
もしわれわれ一人ひとりのすくいが決まっていてしかもけっして知ることはで
きないというのが ただしい真理であるのなら そのように じつは 神のみ
心が人間には知りようがあった。ということになる。これ 矛盾なり。
なのでは?

nemurineko

こんばんは。


☆選挙運動が熱狂的でお祭り騒ぎになるというのも 必ずしも神学的な背景
とはかかわらない部分があるように思われる。
ナチスカトリック典礼儀式をまねてヒトラー万歳、ナチス万歳のお祭をしたように、
大統領選の候補者たち、民主・共和両党は、アメリカにある伝道システムや牧師さんの説教のスタイルを用いて、
マインドコントロールという言葉は大袈裟ですが、
大衆心理や群集心理をうまく利用しているというようなことを言いたいのではないでしょうか。
様々な演出がなされ、知らず知らずのうちにその熱気に包み込まれ、個人が群衆へと化してしまう。一時的に正常な判断力は失われ、烏合の衆になって、その熱気に突き動かされてしまう。
アメリカ大統領選というのは、そういうシステマティックなものなのだと、こういうことを居いたのではないか、と思います。


宗教儀式は、人を非日常の世界へと誘う、そういう恐い部分がありますからね〜。


深夜にやっているTVのテレビショッピングの番組の方が例としたら適切なのかもしれませんね。
大勢の前で実演をする。そうすると、決まって、アメリカの消費者は大きな声でリアクションする。
この光景は、(日本人である)私の目には、非常に奇異に映る。理解できない(^^ゞ
そして、誰か一人がそれを買うと、これに遅れてはならじとばかりに、次々といろんな人がその商品を買い始める・・・。


実は、アメリカ大統領選は、これと同じなのかもしれない。
群集心理をうまく使っているんだと思います。


☆このあいだ議論になったように 成功は 経済的な事業の問題にかんする
かぎり 個別に個人個人が その主体なのだとみる見方。これが どうもよ
く分かりません。
◇神と私(個人)が直接結びついているからだと思いますよ。
恵みは神が、直接、私にもたらすものであって、協力してくれた他者がもたらしてくれるのではない、といった考え方が背景にあるのではないか。
極端な考え方になりますけれど、
こういう考え方をさらに徹底させれば、他者は恵みのための道具や手段であるといった考え方もできるのであろう。
もちろん、こういう考え方をする場合、自身も他者の道具や手段になるということを引き受けなければならない。
そして、求められるものは、人間的な部分ではなく、道具としての有用性になるのだろう。
また、他者は道具にすぎないのだから、成功の栄冠はそれを使いこなせた人のものであり、その成果を総取りする可能なのであろう。


これはあくまで推測であり、推論です。


ただ、プロテスタント的な考えからこういう考え方を導くことはできるのだろうと思います。


☆もう一点は カルワンの予定救済説です。
◇これは博打の論理でしょう。
当たるかどうかはわからない。しかし、買わなければ宝くじは当たらない。だから、宝くじは買うべきだ(^^ゞ
しかし、カルワン的な考え方をするならば、宝くじを買うこと、そして、当たりくじを買うこともすべて神によって決められている。
当たり宝くじの当選者には、宝くじを買わないという選択肢は、見かけ上はあるけれど、実はないということになるのでしょう。
少なくとも、ここにおいては、善をなそうという自由意志を人は有していない。


私の考え方とは相容れない考え方です。


以上の内容は、あくまで、知的遊戯の範囲を越えないものです。
ただ、こう考えれば、説明できるのではないかということを提示しました。


by nemurineko (2016-03-03 22:23)

bragelone

◇ アメリカにある伝道システムや牧師さんの説教のスタイルを用いて、
・・・大衆心理や群集心理をうまく利用している
☆ ですか。そうなんでしょうね。

ううーむ。ただし だとしたら 教会の日曜礼拝と同じように ただその場の
一時的な効果(?)に終わるのかも知れない。・・・ということはないのかなぁ。


◇ 〔リアクションをも引き出すような〕群集心理をうまく使っている
☆ そうなんですか。だったら 《神学的j背景》があると言えそうですね。


◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神と私(個人)が直接結びついているからだと思いますよ。
恵みは神が、直接、私にもたらすものであって、協力してくれた他者がもた
らしてくれるのではない、といった考え方が背景にあるのではないか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ なるほどと思いましたが その反面では だったら《隣人となることの
愛》は どうなるのか?


つまり 一たんみんながスタートラインに立ってスタートする。そしてその結
果についてあとから 隣人愛を発揮するというのではなく そうではなく ス
タートした時点から 互いに隣人になるといった人間関係が うながされている。
むしろ 《律法からすべて自由となったそのあと ただひとつイマシメがあると
したなら この隣人愛である》というかたちで 《神学的基礎》としておおきく
横たわっている。
と言わざるを得ないのでは?



カルワンの論理は 《ばくちの論理》に成り得ますし そもそも神があるか無
いかの選択も パスカルによれば 賭けの問題になるということですから 
じゅうぶん納得が行きます。


いや でも カルヰニズムじたいは 《人間の人間性とは相容れない考え
方》であるとはっきりさせているべきではないでしょうかねぇ。
by bragelone (2016-03-03 22:46)

nemurineko

こんばんは。

☆☆ なるほどと思いましたが その反面では だったら《隣人となることの愛》は どうなるのか?
◇やはり、ここにきましたね。
哲学的に言えば、”他我”の問題になるのでしょう。
”他我”はあるのか、”他我”を説明できるのか。


これは、先のコメントを書いているときに、これをどう扱うべきかで「う〜ん」と唸ってしまった。


今、ちょっと思いついたのは、
神さまをインターフェースにして結びつく
というもの。
A(わたし)⇔神⇔B(ブラゲロ)
神を媒介として隣人愛は成立し得る。


先のコメントを書いている時には、
「私と神が結びついているのだから、他の人も神と結びついているのであろう」
と推測するというもの。
これを根拠にしても、なんとか説明できるのではないか。
「私と神は特別な関係で結ばれており、私はそれ故に特別な存在である。そして、これはおそらく他者と神の間でも成立することで、他者も特別な存在であり、私が私を愛するように、他者を愛さなければならない」
みたいなことを考えた。


アートマン説や梵我一如を持ってくれば楽だけれど、キリスト教だから、これはちょっと持ち出せない(笑)。


そして、これは先にあげた「他者を道具として見なす」とは相反する考え方で、両立はできないと思う。
だから、「他者が自分を道具として扱うことを引き受ける必要がある」と書いた。
ただし、(成功者が)道具に施しをするかどうかの選択は個人の自由である。


宗教的に筋がいいのは、おそらく「神さま媒介」説になるんじゃないか。
ここでは、神への愛と隣人愛の区別、対立などは(最終的に)消滅する。
そして、「隣り人をより良く愛することが神をよりよく愛することだ」ということになるのでしょう。


そして、カトリックでは、神さまではなく、(ローマ)教会媒介説になるんじゃないか。


by nemurineko (2016-03-03 23:33)

nemurineko

神でなくても、
 神さま≒聖霊
として、
聖霊」を介してとした方がいいのかな。


キリスト教の人はこう言うと怒るだろうけれど、
神は空間を超えているから、神は(ヒトの)内に宿ると言っても良く、
こうすれば、自己愛と隣り人への愛を同一視することもできるのだろう。


これは、あくまで神話的な表現です。


by nemurineko (2016-03-03 23:49)

bragelone

隣人愛は・つまり愛は めんどうだと分かっていたのですが 行きがかり上
出してしまいました。


原典や推論は もし必要なら後回しにして 結論として思うことを述べます。


神を経由した隣人の愛は 神学として 成り立つと思います。
実践としては 神の愛だけだと ちいさな疑問がつきます。


それに対する反論としては 次が予想されます。:
もし神学として神への愛が隣人への愛にひとしいとするのなら その隣人
愛は ほんとうには神の霊のチカラがはたらいてこそ実現するのだから
《実践としては》という捉え方は 必要がなく むしろ成り立たないのではな
いか? と。


すべてを端折って 要するに そうは言っても《自分自身を愛するのと同じよ
うに〔隣人を愛する〕》というのだから やはり生活じょうとしては 隣人を
つねに気遣っているとは思われることが ひとつです。


もうひとつに イエスが事例を出したときには ルカ福音でしたか よきサマ
リア人のたとえを示しました。重傷を負ったひとを介抱するというおこない
です。


ほかにパリサイ人だったかなる人も  そのそばを通ったのですが 傷を負
った人を助けることは律法に反するからでしたか 見過ごして行きました。


ということは この確か聖職者は 通り過ぎて行ったけれども 心では神の
愛を持っていたとも見られます。


と見たとき やはりそれでは 隣人となれないとイエスは言おうとしたかも
知れない。サマリア人のように《実践》しなければ 《神の愛を経由する隣
人愛》では物足りない。――と言ったかも知れない。・・・


ちょっと分かりません。感触として言っています。


by bragelone (2016-03-04 00:21)

bragelone

◇  「聖霊」を介して・・・自己愛と隣り人への愛を同一視することも
できるのだろう。
☆ 自己にやどる聖霊なる神への愛とすれば 文句なく成立すると思
います。


むしろ日本人として 思いやりはかたちにして表わすと思っています。
そういう意味で 隣り人に対する場合も その自己愛と同じように か
たちに現われるのではないかと推し測ります。


そうでないと すっきりしない。心が晴れない。ゆえです。


となると 一人ひとりそれぞれの信仰のかたちの問題になるのでしょう
か。どう現われるか。どう表わすか。


かたちに表わす隣り人関係を重んじた経済人もいました。
R.オーウェン
あるいは クレスピ・ダッダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%83%E3%83%80
▲ クレスピ村とは
http://www.villaggiocrespi.it/jp/
by bragelone (2016-03-04 08:48)